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1986年フィリピン・ピープルパワー革命

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フィリピンの独裁マルコス政権が倒された「エドゥサ革命」

 1986年、フィリピンの独裁者フェルディナンド・マルコスが、権力の維持を目指して政治的な陰謀を繰り広げた挙句、国軍と民衆の反乱を受けて失脚しました。

一連の模様はテレビを通じて全世界にほぼ同時中継され、それまであまり注目されなかった東南アジアの新興国の政治劇を、人々は固唾をのんで見守りました。

 

1. 権威主義体制の崩壊

 1980年代後半と1990年代前半は、権威主義体制が相次いで崩壊し、民主化の波が世界を席巻した時代でした。

1986年のフィリピン、ピープルパワー革命、1987年の韓国の民主化運動、1988年のミャンマーの民主化運動、1989年の天安門事件、東欧革命、モンゴル民主化、ユーゴスラビア解体、1990年のアルバニア民主化、そして1991年のソ連の解体。

フィリピンのピープルパワー革命は、一連の革命の「ドミノのはじまり」と見なされることもあります。実際のところどこまで相関があるかは分かりませんが、世界中の人々がテレビで革命の行く末を見守ったのは事実で、何らか影響を与えた可能性はあります。

日本はたまたま1989年が昭和の終わりと平成の始まりだったため、「社会主義体制や権威主義が強い時代・昭和」と、「民主主義が勝利した後の自由な時代・平成」のようなイメージでとらえてしまうところがあります。

 

2. マルコス独裁体制の成立

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フィリピン民主主義体制の正体

 フィリピンは1946年の独立以降、旧宗主国アメリカ流の民主主義体制を守り続けてきました。国民党と自由党という二大政党がほぼ4年ごとに政権に就くもので、はたから見る分には理想的な民主主義体制でした。

しかしその実、少数のエリートが政治経済を牛耳る寡頭制支配でした。

地方の大土地所有者は、土地に住む村落の小作農を支配しており、経済的に貧しい彼らに「恩恵」を与える代わりに忠誠を誓わせる「パトロン=クライアント関係」が成り立っていました。

経済有力者である大土地所有者は、その資金を元にしてマニラで中央政治に参加し政治有力者にもなりました。フィリピンの二大政党は、そうやって中央に集まってきた地方の有力者のサロンのような場所であり、彼らの権益を維持し支配を固定させるための仕組みにしかならなかったのでした。

公共事業による利益誘導などのバラマキが無秩序に行われた結果、国家財政が極端に悪化。経済改革が進まず財政改善の見込みがたたなくなり、体制の行き詰まり感が強まりました。

寡頭制打破を掲げ、ルソン島でフィリピン共産党の軍事組織・新人民軍がゲリラ活動を始め治安が悪化したため、フェルディナンド・マルコス大統領は1972年9月に戒厳令を布告し、治安の回復と社会改革の実現を国民に約束しました。

 

マルコスの開発独裁

マルコスは1949年に下院に当選し、1959年には上院議員に鞍替え。その後1962年から議長をつとめ、1965年の大統領選挙に出馬し圧勝しました。

マルコスが掲げた「上からの改革」は、当時アジアで典型的に行われた開発独裁そのものでした。韓国の朴正煕、台湾の蔣経国、タイのサリット・タナラット、マレーシアのマハティール、シンガポールのリークアンユー、インドネシアのスハルト。これらの体制との共通点は、テクノクラート官僚が政策を立案・実行し、少数の政治エリートが国民世論に政策への支持を訴え、治安面で国軍が全面的にバックアップする、というもの。

マルコス政権も時の開発独裁体制と同じように、「経済開発」を最優先課題として掲げました。

外資関連法案の体系化、官僚制の整備、開発計画の中央集権化、平価切り下げなどを実施して、フィリピンの得意分野であった農産品を積極的に輸出して外貨を獲得し、その金で工業化を進めるという政策を推進しました。この政策は一部では成果を上げ、フィリピン経済は1973年にGDP8.9%の成長を達成し、高度経済成長を続けました。

しかし、第二次オイルショック後の世界不況の中でも成長政策を維持したため対外債務が急増。国家財政の悪化から1981年には金融危機が発生し、1983年にはGDPが1.8%、翌年にはマイナス7.3%となり、マルコスの求心力が一挙に失われました。

さらには彼がもともと掲げていた社会改革も一向に進められず、旧来の体制である寡頭制では複数いたボスが、マルコス体制ではマルコスという一人のボスに集約されただけであったのでした。

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3. ベニグノ・アキノ暗殺事件

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マルコス体制崩壊の引き金になった事件が、1983年8月21日のベニグノ・アキノ元上院議員暗殺事件です。

 アキノは35歳の若さで上院議員になった実力と人気を兼ね備えた政治家で、マルコス政権批判の急先鋒でした。1972年にマルコスが戒厳令を敷くと、アキノはアメリカに追放されました。学生や労働者を中心とした反マルコス勢力にとって、アキノはフィリピン民主化の希望の星でした。

1983年8月、経済危機により国民のマルコスへの不満は高まっており、アキノは機は熟したとみてフィリピンへの帰国を決断。ところが飛行機がマニラ国際空港に到着し、タラップを降りた直後に銃撃を受け殺害されました。この様子は機内にいたジャーナリストが撮影した映像で海外で広く放映され、突如としてフィリピン政治は国際的な関心を集めることとなりました。

マルコス政権は犯人は「共産主義者だった」と公表し事態の鎮静化を図りました。しかし厳しい統制にも関わらず犯人がマルコス政権の息のかかった国軍の一部隊である証拠が国内に大量に持ち込まれ、多くの国民が真相を知ることになりました。

 政情不安を嫌って外国債券銀行は新規融資を停止し、短期債権を引き上げたため、先述の1983年のマイナス成長に落ち込みました。

 

4. マルコス体制の動揺

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明らかになった国軍の関与

海外でのフィリピン政治の関心が高まり、国内でも反マルコス運動の機運が高まると、これまで親マルコスの傾向が強かった財界、マスコミ、宗教界も反マルコス陣営に舵を切りました。アキノ元上院議員の葬儀には数百万もの人々が街頭に出て、以降連日のようにデモが行われ政治集会が開催されました。

一方マルコス陣営は、国内外からの真相究明を求める声に応じて1983年10月に「アキノ暗殺真相究明員会」を設置しました。1年間の審理の結果、4人の委員と委員長がそれぞれ異なる見解の報告書を提出。相違点はヴェール参謀総長が関与していたか否かという点で、結局どちらの結論も、これまで政府が主張していた共産主義者によるものではなく、国軍による組織的な関与があったことが明らかになりました。

こうして事件は公務員犯罪特別裁判所に移され、裁判が開始されました。

一連のアキノ裁判は国軍の一部を動揺させ、改革派の若手将校は「国軍改革派(RAM)」を結成し、ヴェール参謀総長が率いる国軍内の派閥の解体を目指しました。

 

繰り上げ大統領選挙の実施

1985年11月、マルコスは87年に予定されていた大統領選挙の突然の繰り上げ実施を発表しました。

これはアメリカに圧力によるものでしたが、マルコス自身も与野党内からの突き上げに対し、「国民の信を得て」体制を立て直したいと考えたからでした。

マルコスは副大統領候補にトレンティーノを選ぶ一方、野党陣営はアキノ元上院議員の未亡人コラソン・アキノを大統領候補に擁立。副大統領候補にはサルバドール・ラウレル(第二共和国大統領ホセ・ラウレルの息子)を立て、「マルコスvs反マルコス民主化勢力」という構図が完成しました。

 選挙ではマルコス陣営はなりふり構わぬ票操作を行ったにも関わらず、広範な大衆の支持を得たアキノ候補が200万票以上の票差をつけて圧勝しました。この選挙戦の模様もマスコミによって世界中に報道され、マルコス政権の腐敗ぶりが誰の目にも明らかになりました。

 

5. 革命の勃発

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ピープルパワー革命のはじまり

 1986年2月15日、議会はマルコスの勝利を宣言。これに対し、アキノ陣営はリサール公園で自らの勝利を宣言する「人民の勝利」集会を開催。マルコスを引きずり下ろすための非暴力非服従運動を呼びかけ、国民に広く参加を呼びかけました。

ところが2月22日午後、まったく別のところから事態を急変させる出来事が発生します。

若手将校を中心とする軍改革派「国軍改革派(RAM)」の支持を得たフアン・ポンセ・エンリレ国防相が、フィデル・ラモス国防総長代理を誘ってアギナルド基地の国防省本館に立てこもるという事件が発生したのです。

もともと二人ともマルコスの盟友であったものの、ヴェール参謀総長が国軍の第一人者になってからは冷や飯を食わされ反マルコスの立場となっており、若手将校の改革派らに担ぎ上げられていました。

RAMはエンリレを首班とする国家評議会の設立を目指し軍事クーデターの用意を進めていましたが、ヴェール派に嗅ぎつけられ、蜂起に失敗していました。そこで最後の望みをかけて国防省本館に立てこもり、アキノ陣営を支持する人々に「マルコス政権打倒」を訴えたのでした。

記者会見の模様はラジオ・ヴェリタスによって繰り返し放送され、国民の多くが軍がマルコス派と反マルコス派に二分されたことを知りました。

当初アキノ派の人々は、エンリレ率いるRAMが味方がどうか判断できないでいました。

ところが夜10時ごろにカトリックのシン枢機卿がアキノ派の人々に「彼らはわれわれの味方である、彼らを支援するように」と呼びかけたことで、アギナルド基地に市民が大挙して詰めかけました。EDSA通りには反乱軍を支援する群衆が詰めかけ、「ピープルパワー革命」が始まったのでした。

 

 

6. マルコスの逃亡、革命成就

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反乱軍の勝利

アキノ派と合体した反乱軍は、ラジオで国民に反マルコス運動への参加を呼びかけ、世界のマスメディアを動員して政府軍による実力行使を牽制しようとしました。反乱軍はわずか数百の勢力しかなく、実力行使されるとひとたまりもない規模でした。

マルコス側は当初はエンリレらに投降を呼びかけますが、応じないことが分かると翌日23日から行動を開始。政府軍の6台の戦車、10台の装甲兵員輸送車、8台のジープ、13台の軍用トラックが、反乱軍が立てこもるアギナルド基地に向かいました。ところがEDAS通りとオルテガス大通りを占拠する人々がバリケードを張ったため行く手を遮られ立ち往生してしまいました。

エンリレとその部下はアギナルド基地に立てこもり情勢を伺っていましたが、各地の国軍部隊から反乱軍への賛同の声が徐々に集まり始めていたため、ここで一つの賭けに打って出ました。

エンリレはラジオを通じて、この時までに反乱軍支持を表明した各地の指揮官とその配下の部隊名を公表したのです。

日和見を決め込んでいた指揮官と配下の部隊は、これを聞いて雪崩を打って反乱軍への合流を表明。こうして政府軍と反乱軍の立場は逆転したのでした。

 

マルコス海外逃亡

24日になると複数のラジオ局やテレビ局も反乱軍に乗っ取られ、マルコスが国外に逃亡した、とデマを流し始めました。マルコスはまだ政府傘下にあるテレビ局に登場し国外逃亡はデマであると必死に訴える一方で、アメリカのレーガン政府と交渉し支援を求めました。しかしとうとうアメリカ政府も25日未明に見限り、マルコスはとうとう夜9時にヘリコプターでマラカニヤン宮殿を脱出。クラーク米軍基地に向かい、その後ハワイへ国外亡命しました。

 こうしてマルコス政権は崩壊し、コラソン・アキノが大統領就任を宣言しました。

マルコスはその後フィリピンには帰国できず、1989年9月28日に亡命先のハワイで72歳で客死しました。

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まとめ

 フィリピンのピープルパワー革命が当時新しかったのは、都市住民を中心とした市民が海外からの情報を不断に大量に入手し、かつ国内情報も国外に同時中継され、国内外のアクションがインタラクティブに発生したことでした。

当事者たちは国内や国外の動向や反応や逐一ウォッチしながら、敵に対しては打つべき手を打ち、実力者を抱え込む裏工作を行い、国内的には大衆を動員しつつ、国際的には自分たちの正当性を訴えて支持を 求めるなど、刻々と変わる情勢に対応しさまざまな手を同時に打っていかなくてはなりませんでした。

このような「劇場型革命」はその後の世界の民主化の先鞭となるもので、2011年の「アラブの春」などもこのような運動の流れを汲むものと言えるかもしれません。

 

参考文献

"世界の戦争・革命・反乱 総解説" 自由国民社 「フィリピン二月革命」片山 裕GDP "growth (annual %) - Philippines" The World Bank

 コトバンク「マルコス政権」