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レバノン移民の歴史

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多くの人材を輩出したレバノン系移民の光と影

ヨーロッパ系の人はレバノンと聞くと以下のようなイメージを思い浮かべると言います。

地中海リゾート、移民、美女、豪華で瀟洒な建物。 

日本人に同じ質問をしたらこのような答えが返ってくるかもしれません。

内戦、ヒズブッラー、カルロス・ゴーン、爆発事故。

いずれのイメージも一面的ではありますが、間違ってなく、レバノンという国の側面を表しています。 

そうしたイメージに寄与しているのが今回扱うレバノン移民です。レバノン移民は19世紀後半から世界中に拡散し国際的な影響力を高める一方で、レバノン本国に対しても影響力を与え「魔境国家」を形成しました。

 

1. 国際的に活躍するレバノン系

 19世紀末から始まったレバノン移民は、南北アメリカやヨーロッパを中心として世界各地に広がり、主に商業活動で同胞のビジネス・ネットワークを広げ、成功する人物を多数輩出しました。ビジネスマンで言うと例えば。

 Appleの元iPod部門担当上級副社長トニー・ファデル。キンコーズの創業者ポール・オルファレア。フォード元社長ジャックス・ナーサル。バンクオブアメリカ・メルリリンチやベアー・ストーンズで重役を務めたファレス・D・ヌージャイム。モルガンスタンレー証券元CEOジョン・J・マック。投資家でNFLマイアミ・ドルフィンズを創設したジョー・ロビー。ベンテス社取締役デブラ・カファロ。投資家でトランプ氏の盟友として有名なトム・バラック。そして日産・ルノー連合の元会長カルロス・ゴーン。他にも数えきれないほどいます。

 

ビジネスの世界のみならず、政治の世界でもレバノン系の進出は凄いものがあります。特に南米でレバノン系の進出は顕著です。 

 コロンビア元大統領ジュリオ・アヤラ。アルゼンチン元大統領カルロス・メネス。ジャマイカ元大統領エドワード・ジーガ。パラグアイ元大統領マリオ・アブド・ベニテス。エクアドル元大統領アブダラ・ブカラム 、同じくエクアドル元大統領ハミル・マワ 。

アメリカでもレバノン系は多く政界に進出しています。

レーガン政権時代の外交儀礼局長セルワ・ルーズベルト。レーガン政権の外交特使フィリップ・ハビブ。オバマ政権時代の中東特使ジョージ・J・ミッチェル。元メイン州知事ジョン・バルダッチ。オバマ政権で運輸長官を務めたレイモンド・ラフッド。元上院議員でニューハンプシャー州知事ジョン・スヌヌ。その他にもアカデミック、スポーツ、アート、ショービジネスなど様々な分野でレバノン系は活躍しています。

レバノン系は南北アメリカ大陸とヨーロッパが中心ですが世界中に拡散しており、中東、西アフリカ、南アフリカ、オーストラリアに広く広がっています。

 

▽人口比におけるレバノン系の割合(Maximum 3%)

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Work by Peer-reviewed skeptic

 

2. 19世紀末~20世紀初頭のレバノン人の大量移民

レバノン移民は19世紀末から本格化しました。

当時のレバノンはオスマン帝国の支配下にありましたが、移民の数があまりにも大規模でレバノンの人口は激減しました。一説によると、1932年の時点でレバノン人口の約45%が海外に流出していたそうです。その規模は約63万人。このような巨大な移民は、歴史上はイタリア移民と中国移民くらいしかありません。

 

なぜこのように大量の移民が海外に流出したのか。これはかねてより研究がなされ、複数の説があります。

一つ目の説が「紛争説」。1860年代の宗教的紛争により社会不安が高まり、一つの共同体が海外に逃げ出したのを境に、玉突きのように人々が海外に逃げ出したというもの。

二つ目の説が「経済説」。当時のレバノンの主力産業である絹織物が安価な外国産の流入により壊滅し、増え続ける人口に対し圧力がかかり、食えなくなった層が海外に脱出したというもの。

しかしこれらの説は統計的裏付けがなく、なぜレバノン移民が大量発生したかの説明としては的確ではありません。

 

富を持つ人物がさらなる富を目指して海外移住

最近の研究では、19世紀後半から20世紀前半にかけて絹産業が発展し、それに携わったレバノンのキリスト教マロン派やギリシャ正教の人々が資金を得て、これを元金にしてさらなる富を求めて海外に渡ったのではないかと考えられています。

国を離れたのは貧民ではなくて、むしろ国外を離れるための高額な資金を用意できる中間~高所得層で、海外でもっと稼いで富を蓄えるという積極的な理由で国を離れていったわけです。もともとがモチベーションが高い人たちが移民してたわけで、その後の彼らの経済的成功の根拠になっています。

 

19世紀後半のレバノン移民は、アメリカを目指しました。

最初期にアメリカに渡ったレバノン人が商業的に成功し、ビジネスチャンスが非常に高いことが知れ渡ったためです。

移民はアメリカ行きの定期航路便に殺到しました。当時アメリカ行きの大西洋航路定期船はフランスのマルセイユから出ていたため、マルセイユにはアメリカ行きを待つレバノン人であふれかえる有様で、レバノン移民のための旅行代理店やホテル、レストランなどでマルセイユの街は活況を呈しました。

しかし度が過ぎると旅行代理店も対応しきれなくなり、街に溢れるレバノン人をとにかく外に追い出そうと、「行先はアメリカ(大陸)だ」と半ば詐欺のような感じでアルゼンチンやブラジルなど南米大陸に送り出しました。

現在でも南米各国にレバノン系は数多くいますが、元々はそういう経緯からやってきた人たちの末裔です。

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3. レバノン移民の行動パターン

 このようにして世界中に散らばったレバノン移民ですが、その定住と拡散にはいくつかのパターンがあります。

いずれの国でも住先に落ち着いたレバノン人たちは、定住先で小さな租界に定着し、すぐに行商を開始しました。アメリカだとニューヨーク、ブラジルだとサンパウロ、オーストラリアだとシドニーなどの大都会が多かったようです。

初期の頃のレバノン移民の大半は行商人であったため、野菜でも衣服でも何でも、モノを仕入れて売るという単純かつ利益が出やすい方法でビジネスを広げていきました。初期は次々にやってくるレバノン移民を相手にしたホテルや旅行代理店、卸問屋など様々なサービスがアメリカ人によって行われていましたが、それもすぐにレバノン人のビジネスマンに取って代わられ、さらに銀行、出版、不動産など高度なビジネスも発展していきました。

30~40年もしたらニューヨークやサンパウロなどの都会ではすっかり初期レバノン移民によるビジネスは成熟し、あらゆる分野でスキームを確立し、後発移民の参入障壁は非常に高くなっていました。

そのため後発移民は自らの守備範囲を確立できる地方に移動しなくてはなりませんでした。ラッキーなことに当時のアメリカ中西部は油田の発見でオイルラッシュに沸き、移民を含む多くの人が押し寄せていたため、食品や日用品に対する需要品が高まり、レバノン移民の活躍の舞台が整っていました。こうしてレバノン移民は北はアラスカから南はニューメキシコまで、ほとんどの都市部に進出していくことになります。

 

イスラム教徒の移民

初期の頃の移民はおおよそキリスト教マロン派やギリシア正教徒で、スンニ派、シーア派、ドルーズ派などのイスラム教諸派の移民は、少数を除いて19世紀末の初期移民の波には乗らず、本格化するのは第一次世界大戦が終わってからのことでした。

しかし1930年代にはアメリカ、ブラジル、アルゼンチンなどこれまで主要なレバノン移民の移住先だった国々が新規移民の規制を実施しており、アメリカに行きたくてもいけない状況になりました。

マルセイユ港に着いたレバノン移民は、旅行代理店が斡旋する船に乗せられアメリカに行く途中にある西アフリカに降ろされ、そこでアメリカ行きを待つように指示されるという雑な扱いを受けました。

しかしそんなにすぐにアメリカ行きが決まるわけはなく、彼らは西アフリカに定住しビジネスを広げていくことになります。アメリカのパターンと同じく、レバノン移民は沿岸地域からスタートし後発移民が内陸部にまで進出してビジネス網を広げていき、第二次世界大戦後には西アフリカのビジネス界を牛耳る存在にまでなりました。

 

レバノン移民の大きな特徴としては、特定の村や宗派に属する人々が固まって租界を作り行動を共にし、他のコミュニティと交わらなかったという点があります。

レバノンにはキリスト教マロン派、ギリシア正教、ローマ・カトリック、プロテスタント、イスラム教スンニ派、シーア派、ドルーズ派など多種多様な宗教が混在し、また国土は山岳地帯が多く、それぞれのエリアで小さな宗教コミュニティが作られ生活が営まれていました。彼らは移住するにあたって、本国のコミュニティをそのまま移住先にも持ち込んだわけです。

同質性の高いコミュニティが協力して活動することで彼らは非常に成功をしたわけですが、それは本国レバノンでの内戦の泥沼化とリンクするという結果をもたらすことになります。

 

4. レバノン移民がもたらした富と厄災

世界中に散らばったレバノン移民は、移住先に完全に定着しその土地の人になるということはなく、本国レバノンと人的・経済的な強い繋がりを維持しました。

移民した後も本国レバノンに帰国する人が多数おり、一時帰国や帰国も含めて約4割が何らかの形でレバノンに戻っているという推計もあります。

1932年の人口統計によると、総人口の5.5%が帰国移民で、15%が海外在住の国籍保持者となっています。彼らの中には移住先で国籍を持っている者も多かったため、かなりの割合の複数国籍保持者がレバノン人にいました。これは現在も変わらず、例えばブラジル生まれのレバノン系であるカルロス・ゴーンはブラジル、レバノン、フランスの三重国籍保有者です。

移住先でビジネスが成功し本国に帰国したレバノン人は、「故郷に錦を飾る」ため瀟洒な赤レンガ屋根の邸宅を建設しました。現在の多く残る豪華で印象的な建物は、20世紀初頭から建設が始まった比較的新しいものです。

 

▽東部の都市ザーレの街並み

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帰国者は資金を元に本国で投資や事業を開始。産業の近代化が1920年代以降に急速に進むことになります。

帰国するだけの時間やお金がない人も、本国への送金を積極的に行いました。1923年から1938年までに海外からレバノンに送金された金額は本国の国家歳入の35%を占めており、レバノンの最大の収入源になっていました。

通常移民と言うと、頭脳や労働力の流出というマイナス面が注目されますが、レバノンでは移民が逆に本国に大きな富をもたらしたのでした。

 

レバノン内戦と移民

しかし、彼らが本国にもたらす莫大な送金がマイナス面で働いたのが、1975年から始まったレバノン内戦でした。

長年続く中東戦争の結果、ヨルダンを追放されたPLO(パレスチナ解放機構)とパレスチナ難民が主にレバノン南部に定着しムスリム人口が急増。南部はPLOが自治を始め、キリスト教マロン派の住民と対立するようになります。

ベイルート政府や国軍の主流もマロン派でしたが、彼らはPLOの民兵組織の暴走を止められるほどの力がなく、マロン派住民は自警団として武装勢力ファランヘ党を結成し、マロン派優位のパワーバランスを保とうと試みました。

これに対抗し、ムスリムもPLOやシリアの支援を得て軍事力を強化。シーア派民兵組織アマルや、スンニ派民兵組織タウヒードといった武装組織が結成されました。

 

そして1975年4月、ファランヘ党とPLOによる武力衝突をきっかけに全土で戦闘が始まり、大きくマロン派とムスリム派に分かれてテロや虐殺の応酬が行われました。内戦はマロン派内の分派やシリア、イスラエル、アメリカを主力とする多国籍軍の参入により泥沼化。1990年のターイフ合意に至るまで15年間続きました。

この戦争が泥沼化した理由の一つが、海外に住むレバノン系の人々が自分たちの所属する勢力を支援するために積極的に資金援助を行ったことです。本国とのつながりが強い彼らは、例え海外に住んでいようとレバノン本国で自らの勢力が減退すると基盤を失ってしまうため、あらゆる手段を使って自分たちの勢力をサポートしました。

彼らの援助によって内戦中でもレバノンは比較的安定した経済を維持できたのですが、長年ドンパチやれたのも国外から流入する資金のためで、これが国土の荒廃を招くと共に、シリア、イラン、サウジアラビア、アメリカ、フランス、イスラエルといった様々な国の勢力が入り混じり権謀術数を駆使する、世界屈指の魔境国家が完成してしまったのでした。

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まとめ

 レバノン移民は本国レバノンに富をもたらしただけでなく、移住先の経済も活性化させ、また多くの優秀な人材を輩出したという点で、歴史的にも多いな意義を持つものでした。

しかし彼らが成功できた強固な同胞ネットワークが、本国を荒廃させてしまったのは何という皮肉でしょうか。世界は多文化共生ではなくますますエスニシティごとの団結と対立に向かっています。脆弱なレバノン政府、国内国として存在するイスラム武装勢力ヒズブッラー、影響力を高めるシリアやイラン、サウジアラビア。レバノンが安定する日はいつ来るのでしょうか。

 

参考文献

岩波講座世界歴史21 中東における国際人脈の形成 橋本光平