歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

歴ログ-世界史専門ブログ-は「はてなブログ」での更新を停止しました。
引き続きnoteのほうで活動を続けて参ります。引き続きよろしくお願いします。
noteはこちら

【抵抗者】マリア・ボチカリョーワ - 祖国のために戦い続けた愛国烈女

20180220234334

帝国ロシアを愛し、護国のために身を投げ打った女

 マリア・ボチカリョーワ(1889〜1920年)はロシア帝国の女性兵士。

愛国者であったマリアは、帝政末期のロシアで女性のみの戦闘部隊「婦人決死隊」を結成。第一次世界大戦に従軍するも、革命の勃発でアメリカ次いでイギリスに亡命。

ボリシェビキの革命ソ連から国を取り戻すべく、再びロシアに潜入しますが捕まって殺害されました。ロシアを愛し、ロシアとロシア皇帝の敵と戦い続けた人生です。

 

1. 男運に恵まれず、ロシア帝国軍の女性兵へ

マリア・ボチカリョーワはノヴゴロドの貧しい農家の三女。家庭環境は劣悪でアルコール中毒の父親に暴力を受けていました。

15歳になってアファーシ・ボチカリョーフという男と結婚。シベリアのトムスクに引っ越し、建設現場の監督官として働くも、夫の家庭内暴力が酷く、ボチカリョーワは夫の元を離れ地元ノヴゴロドに戻ってきました。そして蒸気船の仕事を見つけて働きはじめ、同時にヤコフ・ブークという男と一緒に住むようになりました。しかしこの男もまた粗暴でボチカリョーワに暴力をふるい続けた。実家を出て、しかも2回も結婚したにも関わらず、ボチカリョーワは暴力を受け続ける日々から逃れることはできなかったのです。

1914年、第一次世界大戦が始まるとこの不幸な運命から逃れるかのように、ボチカリョーワは2番目の夫の元を離れて軍に志願し、ロシア軍の第25予備大隊に加わりました。

 

2. 第一次世界大戦に参戦

女性は普通は軍隊への入隊は認められせんが、ボチカリョーワが後に回想録で語ったところによると、地元の軍の司令官に頼み込み、皇帝ニコライ2世に電報で懇願までしました。

地元の司令官は私の執拗さに深く感銘を受け、私を助けたいと思っていた。彼は、我が国ロシアを守りたいという私の望みを皇帝閣下に伝え、召喚許可を与えるようにと頼む電報を送ることを提案した。司令官は電報を作成し、自らの署名入りの推薦を加えた上で、事務所から送ってもらうことを約束した。

これを見たニコライ2世はこれに同意し、無事に入隊を果たしたのです。

しかし女性兵士など見たことも聞いたこともないロシア兵たちは、彼女を嘲笑し性的嫌がらせをしました。しかし、勇敢かつ有能なボチカリョーワはすぐに戦闘で頭角を表し、今まで嫌がらせをしていた兵たちは彼女を尊敬しその命令に従うようになっていきました。

以降3年間、ボチカリョーワは獅子奮迅の活躍をし、2度の負傷と勇敢な行動が評価され3つのメダルを授与されました。

当時ロシアで働いていたイギリス人の看護婦フローレンス・ファームバラは日記に以下のように書き記しています。

マリア・ボチカリョーワ。1915年から夫と共に転戦するシベリア出身の女性兵士。夫が殺された後も、2度3度と負傷した後も戦い続け、英雄的勇敢さに満ちている。

 

婦人部隊の創設

20180221202002

1917年にはボチカリョーワは既に内外で著名な人物となっており、ロシア政府の高官にも顔が効くようになっていました。

この時には長引く戦争への倦怠感、物資不足・食料不足からも人々の不満が高まっていき、革命の機運が国内を覆うようになっていきました。戦闘は激しさを増し、東部戦線では脱走兵が相次ぐようになります。

ボチカリョーワはこの状態を憂い、「男どもが前線から脱走するのを恥と思うように、女性部隊を創設し前線に派遣すべきだ」と時の首相ケレンスキーに提案しました。

この当時のことも回想録に書かれています。

私は冬の離宮でケレンスキーを紹介された。…夕食会の後、ケレンスキーは私に挨拶をし、私に女性決死隊の創設することを許可した。…彼らは軍服と装備、そして教員を派遣した。

ボチカリョーワは1917年6月の演説で以下のように檄を飛ばしました。

市民諸君!我々の母が陵辱されている、ロシアという母がだ。私は母を守りたい。私は(この決死隊に)クリスタルのような純粋な心を持ち、崇高な動機を持つ女性に入隊してほしい。あなたがたが犠牲となることで、男たちは自らの義務を思い知るだろう…

共に戦おう、堕ちた英雄の名を胸に。共に戦おう、涙をぬぐい傷ついたロシアを癒すために。ロシアを命をかけて守ろう。私たち女性は雌虎と化し、恥知らずな敵から子どもたちを守り、ロシアの自由を守り抜くのだ。

ボチカリョーワの呼びかけに2,000人以上の女性が応え、「婦人決死隊」への入隊を希望しました。

ボチカリョーワが創設した「婦人決死隊」は大きな影響を内外に与え、ロシア国内外の男女平等論者の支持を獲得しました。穏健な改革路線のロシア暫定政府は、女性による自発的な運動が起こったことは大変な進歩であるとして、皇帝に女性労働者の貢献を認めさせ将来的な女性の参政権を認めさせようと試みていました。

急進進歩派を辞任するボリシェビキも黙っていられなくなり、支配地域での女性部隊の創設を急ピッチで進めるほどでした。

20180221211357

数週間の訓練を経て、最終的にボチカリョーワが入隊を認めたのはわずか500名。「素行不良」により1,500名の女性が入隊を拒否されました。単なる衝動やヒロイズムのみで来られても無駄死にするだけだし、相当選抜は厳しかったのでしょうね。

それほど厳しい選別が行われたにも関わらず、婦人決死隊はオーストリア戦線の南で実戦に参加し、いざ突撃を命令されると数人は塹壕の中から動けずに立ちすくんだり、逆方向に逃げ出したりしたそうです。

PR

 

3. ボリシェビキによる女性大隊への暴行事件

1917年10月25日、ボチカリョーワ率いる女性大隊のメンバーは、皇帝の冬の離宮の警護に当たっていました。ところがここに、ボリシェビキ赤軍が攻撃を仕掛け、女性兵士に対する残虐な行為が繰り広げられたのです。

ペドログラードに駐在していたアメリカのジャーナリスト、ジョン・リードによると、以下の通り。

あらゆる種類の驚くべき話が反ボリシェビキのメディアに掲載され、宮殿を守っている女性大隊の運命についてシティ・ドゥマ(国会・立法府)に報告された。少女兵士のうち何人かは生きたまま窓から通りに放り出され、残りの大半は暴行を受けた。恐怖の末、多くの少女が自殺して果てたと伝えられた。

女性兵士が無残に殺され、何人かが捕らえられたというセンセーショナルな事件はボリシェビキの悪名を国際的に高め、とうとうペトログラードのイギリス大使館付陸軍武官アルフレッド・ノックスが介入しました。

ノックスは軍革命委員会のウラジミール・アントノフ・オフセーエンコに女性兵士の解放を要求。シティ・ドゥマは事故調査委員会を設定し、調査に当たらせ、11月16日に委員会のマンデルバウム博士は、容疑者のうち3人が違反し、1人が自殺したと報告しました。しかし、彼は誰も「冬の宮殿の窓から女性兵士を投げ出した」など証言はせず、うやむやのまま委員会は解散。そして翌21日、軍革命委員会は公式に女性大隊の解散を宣言しました。

この時ボチカリョーワはボリシェビキから解放され、すぐにアメリカに亡命しました。

 

4. 反革命の戦いへ

20180222011717

ボチカリョーワは フィレンツェ・ハリマンの資金提供を受けて、サンフランシスコに住み、ニューヨークとワシントンに旅行してアメリカの政治家と会談しました。

当時のアメリカ政界ではボリシェビキに対する敵対意識は根強く、大統領ウィルソンはボチカリョーワとの会談で「ボリシェビキ政権打倒のため支援を惜しまない」と約束しました。

アメリカでの亡命中にボチカリョーワは回想録を執筆。

その後ロンドンに旅し、英国王ジョージ5世との面会も果たしています。彼女はまた英国政府の要人とも会談し、ロシア白軍に加わって戦うことに合意。再び女子大隊を結成する試みは失敗に終わったものの、 1919年4月にボチカリョーワはトムスクに移り、イギリス軍が支援するアレクサンドル・コルチャークの下で勤め始めました。

しかし半年後、ボチカリョーワはネストル・マフノ率いるウクライナ革命反乱軍(黒軍)に捕らえられてしまいました。ボチカリョーワはボリシェビキに身柄を引き渡され、クラスノヤルツクに送られて尋問を受けた後、1920年5月16日に処刑されました。

PR

 

まとめ

普通であれば、一般の主婦として終わった彼女の人生ですが、何が「ボリシェビキに抵抗する悲劇の愛国烈女」にしてしまったのでしょうか。

今でもボチカリョーワの物語は人気があるのですが、いったい彼女が愛した「祖国」とは何だったのか、そして彼女は果たして幸せだったのか、考え込まざるを得ません。

参考サイト

"The Women Warriors of the Russian Revolution" Smithonian.com

"Maria Bochkareva" Sparutace Educational

 

「抵抗者」バックナンバー

第1回:ジャラールッディーン(イラン)

第2回:ペラーヨ(スペイン)

第3回:ヴラド3世(ルーマニア)

第4回:チュン姉妹(ベトナム)

第5回:ラウタロ(チリ)

第6回:テカムセ(アメリカ)

第7回:スカンデルベグ(アルバニア)

第8回:シモン・キンバングー(コンゴ)

第9回:ティプー・スルターン(インド)

第10回:アブドゥッラー・オジャラン(トルコ)

第11回:アウンサン・スー・チー(ミャンマー)

第12回:マリア・ボチカリョーワ(ロシア)