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【抵抗者】アメリカが最も恐れた男 テカムセ

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インディアン連合を率いたカリスマ指導者

テカムセ(1768 - 1813)は、五大湖の南周辺に居住したショーニー族の大戦士にして、インディアン連合を率いてアメリカに挑戦した軍事指導者。

彼のカリスマ性、特に指導力・胆力・容姿は秀でており、生ける伝説として部族の垣根を超えてインディアンたちから熱狂的に崇拝されました。

その威光はアメリカ人にも伝わっており、向こうの森にテカムセがいる、と聞いただけで恐怖のあまりアメリカ兵は逃げ出したと言います。

インディアンが生んだ天才・テカムセの抵抗の生涯を追っていきます。  

 

1. アメリカ人の侵略 

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西進するアメリカ人 

合衆国成立前からアメリカ入植者たちは、そのどん欲な開拓精神で、

時には交渉、時には脅し、時には武力をもってインディアンを追い立て土地を奪っていきました。

ショーニー族が住むケンタッキー州に入植者がやってきたのは、1774年。

もともと1763年にイギリス人の「アパラチア山脈の稜線の西側に白人が定住することはない」という宣言があったのですが、

入植者は自分たちで作った土地の権利書を証拠に「その宣言は無効である」と通告。

首長コーンストークは、話し合いでの解決を求めますが、

ショーニー族13人が入植者に殺されたことをきっかけに、戦闘に突入してしまいます。

インディアンにとっての「土地」の概念

そもそもインディアンの「土地」の概念はアメリカ人のそれとは全く異なっていました。

アメリカ人にとって土地は、売買が行われるものであり、所有権が存在するものですが、

インディアンにとって土地とは「偉大な精霊」によって与えられたものであり、インディアン全員にそれを使用する権利ががあると考えました。

そのためアメリカ人が「土地に関する条約」を持ち出してきた時、

インディアンは「白人も自分たちと同じく精霊の許しによって土地を使う権利を有した」と解釈します。

ところがアメリカ人は条約を持ち出してインディアンに土地からの立ち退きを迫り、応じない場合は容赦なく殺害。

始め、インディアンはその意味を理解できず、後にその非道さに怒りと憎しみをたぎらせたのでした。

 

2. インディアンの抵抗

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アメリカ独立戦争

戦いの結果ショーニー族は敗れ、ケンタッキーにおける入植者の領有を認めさせられます。さらには、友好訪問に訪れていた首長コーンウッドが殺害されます

 復讐としてショーニー族は、ケンタッキーの開拓地を攻撃。14歳のテカムセもこれに参加しています。

 

時に、アメリカはイギリスとの独立戦争の真っ最中。

ショーニー族を含めインディアンたちは、イギリス側に立ちアメリカ入植兵を攻撃しますが、結局アメリカは独立を達成。

テカムセたちインディアンは引き続き、アメリカ人に対して抵抗を続けていましたが、

1787年、アメリカ議会の代表がインディアンと交渉を進める運びとなります。

そこでイロコイ族の代表が、自分たちの土地ではないオハイオ川以北の土地をアメリカに割譲する書類にサインをしてしまいます。

ショーニー族は怒り狂いました。

ショーニー族は一連の条約を全て拒否し、イギリスの極秘の支援のもと、インディアン国家を組織しようと画策し始めます。

屈辱のグリーンヴィル条約

テカムセは東部森林地帯でゲリラ活動を続けていましたが、1791年、これに対しアメリカのハーマー大佐の軍隊が侵入。

テカムセは、マイアミ族の首長リトル・タートルの連合軍結成の呼びかけに応じて、アメリカ人を迎い討つべく出陣します。

インディアン軍はアーサー・セントクレアが率いる兵3,000に対して早朝の奇襲をかけ630名を殺害(セントクレアの会戦)。

この戦いで獅子奮迅の活躍をしたテカムセは、ショーニー族の指導的立場になります。

 

1793年、今度はアンソニー・ウェイン将軍の軍が侵入。

ウェイン将軍はインディアンが砦に食料を取りに戻った隙を狙って総攻撃を仕掛けます。不意を突かれたインディアン軍は敗走。

この結果を持って、ウェイン将軍は首長たちを和平会議に招き、グリーンヴィル条約を締結します。

これが、オハイオ州全体をアメリカに譲渡するという屈辱的なもの

テカムセは激怒し、これにサインをした首長たちを非難します。

 

3. テカムセ、抵抗運動の指導者に

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テカムセについて、あるイギリス人将校はこのように言っています。

くつろいでいる時は澄んで透明な栗色だが、演説やら熱狂的な闘争やらで興奮したときや、怒ったときは、まるで火の玉のように見える

そして

私が今までに出会ったもっとも容姿端麗な男の一人であった

立派な体躯を持ち、信念に熱く、自信に満ちあふれた、今で言うイケメン。

このカリスマ的な男の周りには、現状を良しとしないインディアンの戦士が集まってきます。

テカムセたちは、誇り高き戦士たちがアメリカ人が持ち込むウイスキーの味を覚え、まるでフヌけのようになっていることに絶望します。

テカムセは酒の流入を阻止しようとしますが、土地問題と同じく成功しませんでした。

時の大統領、トマス・ジェファーソンはこう書き記しています。

今や彼我の強弱の差はあまりにも明白であるから、我々は掌を閉じるだけで彼らを押しつぶせることを見せてあるべきです…(略)

いつ何どきでも、斧を振り上げるほど向こう見ずな部族があったら、その部族の国をそっくり取り上げればよいのです…(略)

インディアンに残された道は2つ。

殺すか、殺されるか。

 

4. 予言者テンスクワタワのお告げ

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飲んだくれの豹変

テカムセには双子の弟ローレワシカがいました。

優秀な兄と比べて、ローレワシカは何をしてもぱっとせず、酒を飲んだくれてはのらりくらりと暮らしていました。

ある日、たまたま聞いたシェーカー教徒の教えに感銘を受け、自信の名をテンスクワタワ(開かれた扉)と改名。自らを予言者と名乗り、人々の信仰を集め始めます。

テンスクワタワの予言によると、

  • インディアンが連合すれば白人の侵略に抵抗できる
  • そのためには白人の模倣をやめよ

と言うものでした。

ここにおいて、「弟の予言」と「兄の実践」の両輪がワークし始めます。

 

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 5. 白人女性との恋

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引用:benl.ebay.be

1798年、テカムセは故郷のオハイオで、ジェームズ・ガロウェイ一家と知り合いになります。

ガロウェイは喜んでインディアンの客人を家に迎いいれます。

テカムセは頻繁にガロウェイ家を訪れるようになり、蔵書300冊を読みあさります。

テカムセは、これまで野蛮な連中だと思っていた白人が、ホメロスやシェイクスピア、聖書などの豊かな文化を保有していることを知りました。

 

また、同時にガロウェイ家の娘・レベッカの美しさも知ります

レベッカとテカムセは何日も一緒に読書をし、英語の勉強にも多くの時間を費やしました。

1808年、テカムセはレベッカに結婚を申し込みます。

レベッカは戸惑い、沈黙します。そしてテカムセにこう言いました。

うれしいし、あなたの妻になってもいい

ただ、あなたにはインディアンの生活を捨ててほしい

 今度はテカムセが戸惑い、沈黙します。

いまインディアンには指導者が必要としている。いま仲間を見捨てる訳にはいかない。

テカムセはその重い決心を伝え、オハイオを後にし、二度とガロウェイ家を訪れることはありませんでした。

 

6. ウィリアム・ハリソンとの交渉決裂

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攻撃的な演説

レベッカとの失恋の後、テカムセはますます攻撃的になり、白人への敵意をむき出しにするようになったと言います。

追い返せ!奴らがやってきた場所へ、血まみれの道を追い立てろ!…奴らの家に火を放て!…奴らの妻子を殺せ!…奴らの死体を墓場から掘り出せ!

そう締めくくるテカムセの演説には数千人のインディアンが聞き入り、彼らを興奮と熱狂の渦に巻き込みました。

テカムセ・ハリソン会談

1810年、テカムセはウィリアム・ハリソン知事と会見します。

ハリソンはテカムセに椅子を勧めながら言います。

君の父親が椅子を勧めているのだと思ってくれたまえ

テカムセは

太陽が私の父であり、大地が私の母である。彼女は私に食物を与え、私は彼女の胸に憩うであろう

そう言って、「身体の下の緑の草が王座の玉座であるように」地面に腰を下ろします。

ハリソンはテカムセにならう以外にありませんでした。

 

テカムセは、

  • インディアンの財産の概念では土地は売買することはできないこと
  • 土地はすべてのインディアンに等しく属すること

を主張しますが、ハリソンはいつも白人が言うように、

  • 条約は公正であり、有効である。問題があれば我々は貴殿らを力ずくで排除する

の一点張り。

テカムセは言います。

これ以上侵略が続くならインディアンは五大湖に追い落とされてしまうであろう。ただ、我々はこれ以上退かない決心だ

交渉は決裂しました。

しばらく後に、ハリソンはこう言います。

この地上でもっとも美しい土地のひとつは、創造主によって、大きな人口を支え、文明と、科学と、真の宗教のための場所となるよう運命付けられている。それを、少数の下劣な野蛮人の跋扈する自然のままの状態に止め置いてよいのだろうか?

これはアメリカ白人を代表する感情の吐露と言っていいかもしれません。

 

7. 米英戦争、テカムセ最後の戦い

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米英戦争勃発

1811年、ハリソンはテカムセの留守を狙って、予言者テンスクワタワの町を襲撃。

テカムセは激怒し、ケンタッキー、オハイオの開拓民を襲撃し始めます。

開拓民は団結し抵抗。そして連邦政府に「インディアンに武器を供給するイギリスを叩く」ように訴えます。

政府は出港禁止令などを実施し、イギリスへの経済圧力を加え、またカナダへの軍事侵攻を開始。

テカムセはこの米英の衝突を、アメリカ人を西部から追い落とす最後の機会だと捉えます。

もしイギリスが勝てば、北西部の森林地帯のインディアンの所有権を確立できるし、イギリスも米英の間の緩衝国を求めるであろう

もしアメリカが勝てば、遠からず我々の土地は全てアメリカ人に奪い取られるであろう。

デトロイト陥落

1812年7月末、テカムセ率いるインディアン軍はデトロイトを基地とするハル将軍を撃破。

このときテカムセの名は既に伝説の域に達しており、アメリカ軍はテカムセが向こうにいる、と聞いただけで恐れて逃げ出したと言います。

テカムセはイギリス軍のブロック将軍と合流。

ブロック将軍は

偉大な塩の湖のかなたにいる彼らの偉大な父は、勇敢な赤い肌の子どもたちの利益を保護してくれるであろう

と言います。テカムセはブロック将軍を信頼し、デトロイト争奪のための計画を練り、直ちに攻撃を開始。

密使に「5,000名のチッペワ族が南下中」と嘘の情報を持たせて、あえて敵に捕まらせた上で、1,000名の戦士を一列に並べて森を歩かせます。

ハル将軍は震え上がり、降伏の白旗を掲げます。こうしてテカムセとイギリスはデトロイトを占領することに成功します。

テカムセ、死す

1813年4月、テカムセの友であったブロック将軍が戦死。

代わりに指揮を執ったプロクター大佐はインディアンを野蛮人と蔑む男でした。

引き続き戦闘は順調に進んでいたものの、次第にイギリスとテカムセとの間には不協和音が響くようになります。

1813年の9月、アメリカの提督ペリーによってエリー湖の制海権を奪われてしまいます

ペリーが新艦を建造中という情報をイギリスは入手していたのにも関わらず、プロクター大佐の消極策のために、みすみす破壊のタイミングを失っていたのでした。

 

補給路を断たれたプロクター大佐は、テカムセを置いて撤退を決定。

テカムセはプロクター大佐に撤退しないように迫りますが、訴えは退かれます。

テカムセは大声で大佐を怒鳴りつけ、最後の戦いに打って出ます。

もうこの時点で勝ち目がないことが分かっていたに違いありません。

1813年10月に始まったテームズの戦いでは、イギリス軍は戦意がなくすぐに戦線離脱。残ったテカムセたちは、アメリカ軍を相手にまるで取り憑かれたように戦いますが、やがて次第に玉砕していきます。

テカムセは最後、近距離から弾丸を浴び、死亡しました。45歳でした。

 

 

8. テカムセの死後

テカムセの死後、彼の代わりとなる指導者は現れず、インディアンの抵抗運動は消滅。

1811年、クリーク族がジャクソン将軍に敗れ、強制的に土地移住を余儀なくされます。

1830年にはチェロキー族がオクラホマに強制移動。有名な「涙の旅路」はこの時です。

1887年の「ドーズ単独保有法」により、インディアンは政治、経済的にアメリカ人になることを義務づけられ、白人のライフスタイルに適合させ、伝統の生活スタイルを破壊しました。

テカムセが夢見たインディアン文化に基づく統治国家の夢は、ついに叶うことはありませんでした。

「抵抗者」バックナンバー

第1回:ジャラールッディーン(イラン)

第2回:ペラーヨ(スペイン)

第3回:ヴラド3世(ルーマニア)

第4回:チュン姉妹(ベトナム)

第5回:ラウタロ(チリ)

第6回:テカムセ(アメリカ)

第7回:スカンデルベグ(アルバニア)

第8回:シモン・キンバングー(コンゴ)

第9回:ティプー・スルターン(インド)

第10回:アブドゥッラー・オジャラン(トルコ)

第11回:アウンサン・スー・チー(ミャンマー)

第12回:マリア・ボチカリョーワ(ロシア)