吸血鬼のモデルとなった"串刺公”
"串刺公 "こと、ヴラド・ツェペシュは、ホラー小説「吸血鬼ドラキュラ」に登場する、ドラキュラ伯爵のモデルとして非常に有名です。
その名の通り、捕えた敵兵を串刺しにして殺すことを好み、その残虐行為の逸話と、
トランシルヴァニア地方に古くから伝わる民間伝承が、アイルランドの小説家ブラム・ストーカーにインスピレーションを与えました。
しかし現実のブラド3世は、もちろん吸血鬼ではありませんし、現在のルーマニアでは「オスマン帝国に抵抗した民族の英雄」と言われています。
ホラー小説「吸血鬼ドラキュラ」
ドラキュラと言われて我々が想像するのは、
マントを羽織った全身黒ずくめの男で、痩せた色白の顔、目は赤く、笑うと異常に発達した犬歯が見える。昼間は棺桶の中で睡眠をとり、夜に人の血を吸いに外に繰り出す。
血を吸われた者も同じく吸血鬼になってしまう。苦手なものは、太陽の光と、十字架、ニンニク。
こんなところでしょうか。
これらはほとんど、ブラム・ストーカーのホラー小説「吸血鬼ドラキュラ」と、1931年の映画「魔人ドラキュラ」に出てくる設定で、後世の吸血鬼のイメージはほぼ全て、ここから出発しています。
小説の舞台は、ヴラド3世が活躍したトランシルヴァニア地方。
ブラム・ストーカーは小説を書くにあたって、綿密にトランシルヴァニア地方の民間伝承や、地理・歴史・文化まで事細かに調べています。
その地理的な正確さ、小説内に登場する食べ物の記述、気候や情景などが、小説にリアリティをもたらし不気味さを際立たせています。
民間伝承としての吸血鬼
ブラム・ストーカーが調査した通り、現在のルーマニアがあるトランシルヴァニア地方には古くから吸血鬼の民間伝承が存在しました。
伝承によると、人の死後40日以内に死体に悪霊が入り込んでしまい、ゾンビとして蘇ってしまい、夜中に墓の中から出てきて家々で人を絞め殺し、生き血を吸うのだそうです。
ちなみにルーマニアや周辺のバルカン諸国では、20世紀に入っても吸血鬼が現れて人々を襲っていたそうで、新聞で取り上げられたりしています。
例えば1923年には、コソボ・ヴラセニツァ地方のトゥパナリ村に吸血鬼が出現。村人たちは故事にならって、墓をあばいて杭で遺体を打ち付け、そのまま消却した事件が新聞に掲載されています。(ベオグラードの「Vreme紙」5月23日付)
最近だと2012年に、ブルガリアで800年前の吸血鬼の骨とやらが見つかって大きなニュースになりました。
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オスマン帝国に敗れた父・ヴラド2世
さて、そんな吸血鬼のモデルであるヴラド3世は、トランシルヴァニア地方で、ワラキア大公ヴラド2世の三男として生まれます。
父・ヴラド2世は神聖ローマ皇帝から「竜騎士」の称号を授かっており、通称「ドラクル」と呼ばれていました。ドラキュラという名称はここから来ています。
ヴラド2世の当時は、オスマン帝国がバルカン半島へ進出を続け、それを止めるべくハンガリー国王と周辺の南スラブ人王国が血みどろの戦いを繰り広げていました。
1444年、ムラト2世率いるオスマン帝国軍は、ハンガリー王国・神聖ローマ帝国・ポーランド王国・セルビア王国などのキリスト教連合軍と激突(ヴァルナの戦い)。
ここでキリスト教連合は決定的な敗退を喫し、バルカン半島のキリスト教徒諸国は続々とオスマン帝国の軍門に降ることになります。
ヴラド2世のワラキア公国も、セルビアやクロアチアなどと同じく、オスマントルコの傘下国となってしまいます。
父の跡を継ぎワラキア大公に
ヴラド3世は、父や兄弟と共にオスマン帝国の人質となっていました。ヴラド2世の死後、ハンガリー貴族のフニャディ・ヤーノシュは、新たなワラキア大公としてヴラド3世の従兄弟であるヴラディスワフを擁立。
ヴラド3世はこれに反発し、オスマン帝国の支援を得てヤーノシュに対抗しますが、敗れてモルドヴァに亡命。その後ヴラデゥスワフは反ハンガリーの旗色を現したため、一転してヴラド3世とヤーノシュは協調しヴラディスワフを駆逐します。
オスマン帝国兵を血祭りにあげる
ワラキア大公となったヴラド3世は、貢納や軍役を無視するなど、これまでパトロンであったオスマン帝国へ次第に歯向かい始めます。
貢納を要求するオスマン帝国の使者が来訪した際、ブラド3世はこの者たちを何と生きたまま串刺し刑に処します。
これに怒ったオスマン帝国のメフメト2世は、大軍を率いてワラキアに襲来しますが、ワラキア軍のゲリラ的な奇襲戦法や焦土作戦によってなかなか成果が出ません。
1462年には、ヴラド3世は大胆にもメフメト2世の本陣に夜襲をかけ、最後は親衛隊(イェニチェリ)の抵抗によって失敗しますが、あと一歩のところで殺害が成功するところまで脅かします。
オスマン帝国軍は、とうとうワラキアの首都トゥルゴヴィシュテに入城しますが、そこには、オスマン兵の串刺しがおびただしく林立していました。中世のヨーロッパでは串刺しは珍しくありませんでしたが、ヴラド3世の場合はその数が桁違い。
あまりにショッキングな光景に戦意を失ったオスマン軍は、ワラキアから撤退していきました。
孤立・敗北
その後、オスマン帝国は抱えていたヴラド3世の弟ラドゥをワラキア大公として擁立し、ヴラド3世を駆逐することに成功。
ヴラド3世は、ハンガリー王マーチャーシュ1世に庇護を求めますが、オスマン帝国と事を荒たげなくなかった王は、ヴラド3世を牢に閉じ込めてしまいます。
12年後に出獄したヴラド3世は再起を図りますが、最後はオスマン帝国軍の軍勢に敗れ、遺体はイスタンブールに曝されてしまいます。