第11回:ミール・ジャアファル(1691-1765)
ミール・ジャアファルは第6代ベンガル太守。
プラッシーの戦いでイギリスに内通。第5代ベンガル太守シラージュ・ウッダラを裏切りインドに敗北をもたらしました。
ジャアファルは自身の権力を保持するためにイギリスに従属。そしてインドの土地をイギリスに割譲し、それはイギリスのインド全土の植民地化への第一歩となったのでした。
そのため現在のインドにおいて「ジャアファル」は裏切り者の代名詞とされています。
ベンガル太守とは?
ベンガル太守とは、現在のインド・西ベンガル州とバングラディシュを統治した「地方長官」のことです。
ムガール帝国がインドを支配する前は、この辺りにはベンガル・スルターン朝という別の王朝がありました。何よりデリーから遠いし、無理に皇帝が直接統治するよりも、太守経由で間接的な統治をしたほうが色々都合がよかったのでしょう。
課税権や立法権まであったので、中央とはかなり独立した独自の支配を行いました。
コネで出世街道まっしぐら
ベンガル太守の義理の弟に
ジャアファルは1691年、ムガル帝国の首都デリーの生まれ。
1727年、36歳の時にサーヌム・カヒーヴァという女性と結婚。
1740年、妻の兄(異母兄)アリーヴァルディー・ハーンは権力闘争に勝利してベンガル太守に就任。ジャアファルはベンガル太守の義理の弟ということで、すぐに軍総司令官に任命されます。
到底使い物になるようには思えませんが、実力よりコネのほうが出世には重要だったんですね。
アリーヴァルディーの孫が太守に
1756年、アリーヴァルディー・ハーンが死亡し太守の座は孫のシラージュ・ウッダウラが継ぐことになりました。
ジャアファルは又甥であるウッダウラを祝福し「お守り申し上げます」と言いますが、内心はらわたが煮えくり返る思いだったでしょう。
イギリスと対立するウッダウラ
当時イギリスは東インド会社を現地におき、ウィリアムズ要塞を建設していました。それがコルカタに発展。現在ではインド3番目の大都市です。
1756年6月、ウッダウラはイギリスがウィリアム要塞の強化を図ったと文句をつけて軍を出動させ、コルカタを占領してしまいます。この際ウッダウラは要塞を包囲してイギリス人を閉じ込め、100人以上のイギリス人を獄死させました。
このウッダウラを支援していたのが、当時シャンデルナゴルを拠点に貿易を行っていたフランス。
ウッダウラはフランスの支援の元、イギリスに勝利したと得意満面。ベンガルでの威信を高めていました。
イギリスと内通するジャアファル
ジャアファルとイギリスの接近
このようなウッダウラの動きに、水面下で手を握ったのがジャアファルとイギリス。
ジャアファルはイギリスの武力を借りてウッダウラを追い落とす。
イギリスは内紛を利用してフランスを駆逐する。
お互いの利害が一致しました。これに、反ウッダウラの貴族や高官たちも乗っかり、ジャアファル派のような派閥が影で動き始めたのです。
イギリス、ウッダラの軍に反撃
1756年12月、イギリス軍司令官ロバート・クライヴは、インド人傭兵を含む合計1450の兵でマドラスから駆けつけ、コルカタへ攻撃を加え陥落させます。その後講話が開かれますが物別れに終わり、クライブはさらにウッダウラの軍に夜襲をかけます。不意を突かれたウッダラの軍は大混乱に陥り四散。
ジャアファルはウッダウラに休戦協定を結ぶことを強く進め、ジャアファルを信頼していたウッダウラはこれに同意。
その休戦協定には、
- ベンガル太守はイギリスの事業再開を認めること
- ベンガル太守はイギリスの利権と我が国がそれを守る行為を尊重すること
- ベンガル太守はイギリスの利権を損害するいかなる行動もとらないこと
などが盛り込まれていました。きな臭い…
イギリス、シャンデルナゴルを制圧
1757年3月、イギリス軍はフランスの貿易拠点シャンデルナゴルに攻撃を加えて制圧。
休戦協定の「イギリスの利権を損害する行為」をフランスがとったというのが大義名分でした。シャンデルナゴルから逃げ出したフランス人はウッダウラの元に逃げ込みます。ウッダウラはイギリスからの引き渡し要求には応じようとしませんでした。
ここにおいて、イギリスとフランスのインド利権を巡った対立は極限にまで達します。
プラッシーの戦い - ジャアファルの軍は動かず
ジャアファルとイギリス、密約す
ウッダウラ&フランスとイギリスの対立が高まり一触即発状態になる中、イギリスは引き続きジャアファルと内通を続けていました。戦闘勝利の暁にはウッダラのベンガル太守の地位を約束する。ついては、
- コルカタ攻撃の賠償金の支払い
- コルカタ〜カールピーまでの地の徴税権の供与
などを取り交わしました。
プラッシーの戦い
ウッダウラ率いるベンガル軍は6万2,000の兵と40人のフランス砲兵を率いてプラッシーに布陣。
一方クライブ率いるイギリス軍は、傭兵含めて3,000と100人の砲兵のみ。まともにぶつかればイギリス軍に勝ち目はありません。
ところが、ベンガル軍のうち50,000人はジャアファルの軍勢だった!
あとはもう、お分かりですよね。
ジャアファルの軍は一切動かず戦いを傍観しているだけ。イギリス軍3,000の前にベンガル軍12,000はコテンパンに叩きのめされ、夜半に大半の兵が逃亡。焦ったウッダウラも戦場を捨てて首都に向けて逃亡。それを見たジャアファルは公然とイギリス軍に合流し、クライブに勝利の祝意を伝えたのでした。
ウッダウラは後に捕まって殺害されました。
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ベンガル太守就任
巨額のカネの支払い
1757年6月、ジャアファルはベンガル太守に就任。功のあったクライヴはベンガル知事に任命されました。(これ以降イギリス人がベンガル知事になることが慣習化されます)
そしてあらかじめイギリスと結んでいた密約が履行されることに。
1. コルカタ〜カールピーまでの徴税権を供与
これによってイギリスは年間22万ルピーの収入を上げることができるようになった。
2. コルカタへの賠償金
イギリスは約3000万ルピーという法外な金額をジャアファルに要求。いくらベンガル太守でもこの金額はすぐに支払える金額でもない。 ジャアファルは3回に分けて3000万ルピーを支払いましたが、その金はベンガルの民衆からの「特別徴税」で賄われたのだそう。
さらにイギリス人たちは、何かにつけ「ベンガル太守に就けた恩」を持ち出してはカネをせびる始末。そのせいでベンガルの国庫は常に火の車だったそうです。
支配領域を広げるイギリス
クライヴ帰国後、次にベンガル知事となったヘンリー・ヴァンシタートは、さらなる利益を求めてチッタゴンの徴税権を要求。ジャアファルがこれに首を縦に振らなかったため、イギリスはジャアファルの娘婿ミール・カーシムと結び、カーシムをベンガル太守に押し上げる代わりにチッタゴンの徴税権を寄越すようにしむけます。
マジで汚い連中ですね…
ミール・カーシムはイギリスの支援のもとベンガル太守に就任。ジャアファルは退位させられます。その見返りとしてイギリスは、チッタゴン、ミドナープル、バルダマーンの徴税権を得ます。
しかしカーシムもイギリスのさらなる要望に応えないようになってきたため、イギリスは再びジャアファルを担いでベンガル太守に再任させます。この際、ジャアファルは
- イギリスのインドにおける無関税貿易を認めること
- 司法権・行政権はベンガル太守にあるが、太守を監視する駐在官をイギリスから派遣すること
を認めさせられ、ベンガル太守は事実上イギリスの支配下に置かれることに。
ジャアファルは復位から2年後の1765年に死亡しました。
その後のインド
その後イギリスは、ベンガルでの成功を皮切りに支配領域を広げていき、マイソール戦争、マラータ戦争、シク戦争など在郷領主との戦いに相次いで勝利。
インド綿をイギリスに輸出してイギリスで加工、インドで売りさばく商法で莫大な利益を上げます。イギリス製品の大量流入でインド伝統の綿織物産業は崩壊。さらに厳密な地税制度導入で、一般大衆のみならず貴族も困窮するようになり、イギリスへの反感が高まり、1857年のインド大反乱(セポイの乱)に繋がっていきます。
これを鎮圧したイギリスは、ムガル皇帝を廃しイギリス領インド帝国を成立。インドを完全に植民地としたのでした。