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アジア・アフリカの10の「民族統一主義運動」

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 欧州の考えを輸入したアジア・アフリカ的民族統一主義の形

 以前、ヨーロッパの民族統一主義運動についてまとめました。

過去に自民族が保有していた・または勝ち取っていた領土の回復、自民族のルーツであるが今は他国にある土地の回復、他国に住む自民族の土地の政治的統合、自らの民族に近い言語を話す民族の土地の政治的統合、といったものを目指す国粋主義的な考え方です。

 今は多くの地域で人気を失っていますが、第二次世界大戦前後は大きな影響力を持った考えで、民族主義・国粋主義・排外主義がの加速が悲劇的な戦争をもたらしてきました。

 民族統一主義はヨーロッパだけでなく、アジア・アフリカにも見られます。特にアジア・アフリカでは第二次世界大戦以降の独立後に、民族主義・愛国主義を鼓舞するために利用されました。

 

1. 大シリア

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Image by Roxanna

「自然シリア」の構築を目指す運動

大シリアという言葉は非常にあいまいさを持っており、アラビア語でアシュシャーム(ٱلـشَّـام)と呼ばれるレヴァント地域を漠然と指し、シリア・ナショナリズムは「伝統的シリア」の政治的統合を目指します。

シリア・ナショナリズムは19世紀前半、オスマン帝国支配化のシリアにて、レバノンのキリスト教徒の教育者ブトルス・アル・ブスターニーによって構築されました。

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彼はシリア人のエリートを育てるべく教育団体や学校アル・マドラサ・アル・ワタニーヤを設立したり、教科書や新聞の発行を行ったりしてシリア人の啓蒙活動に生涯を捧げました。彼は世俗主義者であり、目指したのは西洋の科学や技術を取り入れた近代国家シリアで、アラブ主義やイスラム主義とは一線を画していました。

シリア・ナショナリズムは宗教や民族、言語の統一性ではなく、歴史を同じくする地域としての「シリア」という非常に曖昧なニュアンスを持っています。そのため含まれる領土も流動的で、1941年にイラクのヌリ・パシャ・アル・サイード首相は、イラク、シリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダンが大シリアには含まれるとしましたが、主張によってはキプロス、クウェート、イランのアフヴァズ地方、シナイ半島、トルコのキリキア地方も含まれている場合もあります。

近代で大シリア建設を推進した政治団体で代表的なものは、1932年にアントン・サアデが設立したシリア社会国民党(SSNP)です。フランス植民地主義に抵抗する民族解放組織としてベイルートに設立され、レバノン政治において重要な役割を果たし、1949年と1961年のクーデター未遂事件にも関与し、その後徹底的に弾圧されました。シリアでは、SSNPは1950年代初頭には主要な右翼政治勢力となり、アラブ民族主義をイデオロギーとするシリア・バアス党が政権を握った後も存続し、現在でも比較的大きい党勢を維持しています。

SSNPは現在のこの地域の現在の国境は、サイクス=ピコ協定やイスラエルの独立など欧米列強によって押し付けられた帝国的分割とみなし「自然シリア」の設立を目指します。シリア内戦では、SSNPの軍事部門である「つむじ風の鷹(نسور الزوبعة)」がシリア政府軍やロシア軍と共闘し、ダマスカスやホムスなどで転戦しています。SSNPはこの混乱は新たな政治的秩序を作るチャンスだと見ているようです。

 

2. 大イスラエル

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 約束の地の拡大を目指す運動

大イスラエルは「Greater Israel」の訳語ですが、ヘブライ語にはこれに該当する語はなく、「約束の地」とか「イスラエルの地」「イスラエルの完全な地」などと呼ばれます。

旧約聖書の創世期15章18節には、主がモーセにナイル川からユーフラテス川までを与える、という記述があります。

その日、主はアブラムと契約を結んで言われた、「わたしはこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで。

 これを事実と信ずれば、イスラエル人の土地はイスラエル、パレスチナ自治区、レバノン、シリア、ヨルダン、イラク、アラビア半島、エジプトのナイル川東側までとなります。

申命記1章7~8節にはこれよりももう少し狭い領土の占領をモーセが人々に唱えています。

向きを変えて出発しなさい。エモリ人の山地、アラバ渓谷、ネゲブ、カナンとレバノンの全土、つまり地中海からユーフラテス川までの全地域を占領するのだ。わたしが与えると言うのだから、大胆に入って行きなさい。そこは、昔あなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブおよびその子孫に必ず与えると約束した地だからだ。

現代でも急進右派や超強硬派の中には上記のような「主に与えられた土地」への進出を目指そうという運動がありますが、初期のシオニストたちが目指したイスラエルの領土は、現在のイスラエル、パレスチナ、ヨルダンでした。しかしシオニズム運動の指導者でイスラエル初代首相のダヴィド・ベン=グリオンは、現実的にイスラエルにアラブ人が居住することを認め、居住区を分けることで建国にこぎつけました。

しかし武装組織エツェルや、右翼政党ヘルートなどはイスラエルからのアラブ人の追放とパレスチナ、ヨルダンの併合を求めました。第三次中東戦争ではイスラエルはシナイ半島やゴラン高原、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区を占領し、大イスラエルの実現に近づいたと右派は満足しますが、1978年にキャンプデービッド合意で右派リクードの首相メナハム・ベギンがシナイ半島をエジプトに返還。右派の大きな反発を招きました。しかしシオニストであるベギンは一方でユダヤ人入植地の拡大と定着を進めました。

シナイ地区とガザ地区の入植地は撤退されましたが、ヨルダン川西岸地区の入植地は現在も建設が進んでおり、このような入植活動の背景にあるのは「約束の地」を広げ異教徒を最終的に追い出すことにあります。

 

3. 大イエメン

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Image by Tiwahi

歴史的イエメンを回復しようとする思想

大イエメンは現在サウジアラビア領のアシール、ナジュラン、ジザン、紅海上の島々、オマーンのドファールを回復しようという政治的思想です。

13~15世紀、アラビア半島南部を支配し自らアラビア半島の原住民と称したラスール朝、そしてイエメンのカスィーリー部族が長年ドファールを占領していたことを根拠にしています。ところがこのような民族主義運動は目下の内戦にあたり、ないに等しいです。

 2020年現在、イエメンは北イエメンのイスラム教ザイド派を母体とする武装組織フーシと、南部のスンニ派を母体とするイエメン政府、さらにそこにアルカイダ系武装勢力アンサール・アル・シャーリアやISILなどのジハーディストを主体とし内戦が行われています。イランはフーシ、サウジアラビアはイエメン政府を支援し、地域大国の代理戦争の様相を呈しています。

もともとイエメンは小さなローカル部族が地域を支配する部族国家で、部族長を統括しその上に国家制度の枠組みをかぶせた国です。部族ごとに帰依する権威を変えるという特徴があり、伝統的に領土と言う概念はありません。そのため特定の土地に対する統一的な王権というものは根付きづらく、近代になって列強の介入により国境という概念がもたらされました。19世紀にはイギリスがスエズ運河の安全保障のためにイエメン南部を保護領化。北はオスマン帝国領として残るも、第一次大戦後にイエメン=ムワッキリ王国となり、南は1967年にイギリスから独立し社会主義国のイエメン人民民主共和国となります。1990年に南北は統一するも、南北分割の歴史は長く、伝統的イエメンが残る北と、進歩的で知識人も多い南という構図は残り、目下の紛争にもその構図は色濃いです。

 

4. 大ソマリア

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 ソマリ語話者の地域の大統合を目指す

 大ソマリアは2020年も分裂状態にある南北ソマリアに加え、エチオピア領オガデン地方、ジプチ共和国、ケニア北東州の大統合を目指す思想です。

 もともと現在のソマリア周辺地域は氏族の秩序社会でソマリ人による統一的な権力は存在しませんでした。19世紀後半ごろにヨーロッパ列強の支配下に入っていき、首都モガディシュを中心とする南部ソマリアはイタリア領、ハルゲイサを中心とし半独立状態にある北部ソマリア(ソマリランド)はイギリス領、ジプチはフランス領に編入されました。さらにオガデンと呼ばれる東部地域は19世紀末にエチオピア皇帝メネリク2世の遠征でエチオピア帝国の一部に併合されました。1936年、エチオピアを征服したイタリアはオガデンはソマリア領とし、第二次世界大戦イギリスはオガデンをソマリアと統合しようとしますが、エチオピアからの強い抵抗に会い、結局オガデンはエチオピア領と認められました。

1960年にイギリス領保護領ソマリアとイタリア信託統治領ソマリアが統合し、ソマリア共和国が独立します。しかし長年の英伊による分割統治は南北の社会体制に大きな相違を生じさせており、南部のモガディシュの支配に北部の人々は反発。地域の溝と対立構造は大きく分裂の危機もあり、国を強権的に統合するため1969年にモハメド・シアド・バーレ少将がクーデターを起こし、独裁体制を築きました。

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バーレは国民統合の策の一つとして大ソマリア主義を掲げ、各地域に散在するソマリ人の大同団結と大ソマリアの建国を訴えました。バーレはエチオピア領オガデンの奪取を主張し、オガデンのソマリ人武装勢力「オガデン民族解放戦線(ONLF)」を支援。ONLFのゲリラ活動によりオガデンの治安は悪化。治安維持のためにエチオピア軍が出動すると、ソマリ人を保護する名目で1977年にソマリア軍がオガデンに軍事侵攻。オガデン戦争が勃発しました。

オガデン戦争ではソ連はエチオピアに肩入れし、アメリカはソマリアを支援し、冷戦の代理紛争の要素を呈しました。当初はソマリア軍が優勢だったものの、徐々にエチオピア軍が巻き返しソマリア領内に侵入するようになり、ソマリア内でも分裂が起きて1988年に両国は停戦に合意しました。その後ソマリアでは内戦。北部はソマリランドと称して独立を宣言し、南部は未だに武装勢力が割拠し治安が悪く、民族の大同団結など夢のまた夢といった具合です。

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5. 大モーリタニア

 

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Image by WorldlyVoice

 西サハラの領有をめぐるモロッコとモーリタニアの争い

「大モーリタニア」概念の登場は比較的新しく1960年代です。

モーリタニアは1960年にフランスから独立するのですが、モーリタニア初代大統領モクタル・ウルド・ダッダが、当時スペイン領サハラと言われた西サハラを自国領土と主張し始めたのが始まりです。

西サハラは長い間、モロッコのマラケシュやフェズを中心とした北西アフリカのイスラム王朝の影響下にありました。ムラービト朝、ムワッヒド朝、マリーン朝、ワッタース朝、サアド朝、アラウィー朝など、ギニア湾岸との重要な交易ルートであるサハラ・ルートを支配する歴代のモロッコの王権がこの地域には強い影響力を持っていました。

当然、モロッコは歴史的な経緯から西サハラは自分たちの領土であるとして、フランスから独立した1956年から領有を主張。モロッコはモロッコで西サハラを含む「大モロッコ」を主張しています。

一方でモーリタニア初代大統領のモクタル・ウルド・ダッダは、サハラ人とモーリタニアのベルベル人は民族的・文化的・言語的に共通であるとし、同じ国としてやっていくことを西サハラの人々に呼びかけました。実際に、西サハラの多数派であるサハラウィー人のルーツにベルベル系があるのは間違いなく、言語は両方ともアラビア語の方言であるハサニア語です。

 1970年代初頭にスペインが西サハラを手放した時、この地域の領有権はモロッコとモーリタニア両方によって主張されました。一方でサハラウィー人の一部は独立を主張して政治運動を繰り広げ、1973年ごろからアルジェリアの支援を受けた勢力がポリサリオ解放人民戦線を結成。独立闘争を開始しました。領有をめぐる両国の争いはスペインの仲介で1976年、モロッコとモーリタニアで西サハラを分割統治する形で決着。しかしポリサリオ解放人民戦線はアルジェリアの首都アルジェにサハラ・アラブ共和国を結成。未だに領有権問題は解決しておらず、世界地図を見ると西サハラは無主地域のような書き方になっています。

 

6. 大ネパール

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周辺国に広がるネパール人労働者が起こす火種

大ネパールとは 、西はインド・パンジャブ州のパキスタン国境から、東はインド・シッキム州とアッサム州を流れるティースタ川までをネパールの領土とする概念です。

13世紀に成立したカトマンズ盆地のマッラ朝は17世紀初頭までにカトマンズ、パタン、バクタプルの三つに分裂し、18世紀半ばまで周辺王国を巻き込んだ戦いに明け暮れていました。18世紀半ばに即位したゴルカ王国第十代国王プリトビ・ナラヤン・シャハは、インドから新式の銃を導入して軍隊を編成し、山岳戦や征服戦の戦術を考案し、20年あまりで三都マッラを征服。1768年にカトマンズを都にネパール王国を建国し初代国王に就きました。

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長年続いたネパール人の戦いは統一王国成立後も止まらず、西はネパール西部カルナリを超え、カシミールの手前の地ガルワールまで征服。1814年までネパール王国の拡張は続き、東西1,500キロに渡る広大な土地を征服しました。

しかしこの時代は長くは続きません。ネパールの拡大を懸念するイギリス東インド会社はネパール王国を叩きにかかりました。グルカ戦争(1814年~1816年)です。

強力な火力を有するイギリス軍の攻撃によりネパール軍は敗退を重ね、1816年に締結したスカヴリ条約により、シッキム、クマオン、ガルワール、タライ平原を喪失。この条約により、ネパールは領土の約40%にもなる約105,000平方キロメートルの領土を失いました。

そのような歴史が背景にありつつも、摩擦の直的な原因とされるのは19世紀末から本格化するネパール人の周辺地域への移住です。

19世紀半ばより王国は宰相家であるラナ家による独裁体制となり、小コミュニティや山岳地域の村落に対する国家の圧力が高まりました。政治的抑圧・経済的搾取により人々は村や田畑を捨ててインド北東部に向かって逃亡していきました。人々の逃散は数十年続き、1900年代に入ると、ネパール人はシッキム、ブータン、ドゥアールの低い丘陵地に集中して住むようになりました。数は少ないものの、ミャンマーにまで逃亡ネパール人のコミュニティは広がっていきました。

現在シッキムではネパール語話者が多数派で、当然ながらネパール系住民の意が政治に反映されます。以前独立国だったシッキムは、多数派のネパール系住民の賛成によりインドに統合されることになりました。ブータンには南部を中心に多数のネパール系住民がいるものの、ブータン政府はシッキムが国を喪失した事実を恐れ、長年ネパール系住民は不法移民であるとして行政サービスや教育などを提供していませんでした。現在でもブータンのネパール系への差別は存在します。

このような背景から、一部の過激派が周辺のネパール系住民が住む土地を併合した「大ネパール」を結成すべきと主張しています。1991年7月にカトマンズで結成された「大ネパール委員会」と名乗るグループは、1950年のインド・ネパール平和友好条約に基づき、インドはメチ川以東とマハカリ以西の領土を無条件にネパールに返還すべきである」と主張しました。このような動きにブータンやシッキムの為政者たちは神経を尖らせています。しかしながらやや被害妄想というか、敵はこう思っているに違いない、と喧伝して人々のネパール系の敵意を掻き立てている側面も否定できません。

 

7. 大バングラディシュ

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一部のインド人に信じられる陰謀論の一種

大バングラディシュは、現在のバングラディシュ人民共和国とインドの西ベンガル州、トリプラ州、アッサム州、アンダマン諸島を歴史的なベンガルとして統一を求める思想です。バングラディシュの側からこういう声があるわけではなく、インドの政治家や政治団体などが「バングラディシュはこう思ってるに違いない」と主張する陰謀論に近いものです。

ベンガルが単一地域として成立したのは7世紀、この地域を統一したガウダ王国のシャシャンカ王に始まります。仏教が厚く保護されたパーラ朝の後、11~13世紀までベンガルを支配したのはセーナ朝で、この時代にベンガルという地域概念が誕生しました。その後、デリー・スルタン朝のゴール朝により征服され、その後ムガル帝国の統治下に入り、非常に富裕な地域であったため皇太子が総督となりました。ムガル帝国の力が弱まり地方分権が進むと、1690年にベンガル地方に反乱が生じ、ベンガル太守に統治されることになります。1757年のプラッシーの戦いの後、ベンガル州はイギリスの統治下に入り、1905年にはベンガル州、東ベンガル州、アッサム州に分割されました。その後インド独立にあたり、ベンガルはヒンドゥー教の西ベンガルとイスラム教の東ベンガル(現バングラデシュ)に分割され、東パキスタンという独立したイスラム教国家となりました。

その際、東西ベンガルの分割に反対しベンガルの統一を望む声が一部存在しました。例えば、スバス・チャンドラ・ボースの兄で弁護士のサラト・チャンドラ・ボースはインドとパキスタンから独立した統一ベンガルの国を主張しました。イスラム学者では、モハマッド・アクラム・カーン、ハワジャ・ナジムディンが西を含めた統一ベンガルとパキスタンへの併合を求めました。しかし当時は統一ベンガルの実現はインドのネルーやパキスタンのジンナーも望んでおらず、その後も大きな政治勢力になっていません。

「大バングラディシュ」の主張には、バングラディシュが領土の拡大を望んでいるに違いない、と喧伝するインドの政治家や作家の存在があります。これは西ベンガル州を中心にバングラデシュ人の不法移民がインドの領土に居住しているというインド人大衆の間で広まっている信念に基づいています。

陰謀論者は、バングラディシュが国家ぐるみでインドに移民を送り付け、当該地域で多数派にさせた上でバングラデシュへの併合をしようとしていると主張します。当たり前ですがバングラデシュ政府はこのような陰謀を企てることなどはしておらず、むしろ国民のインドへの不法移民の取り締まりを強化しています。

インド政府は2020年1月に、近隣三カ国からインドに来て6年が経過した不法移民のインド市民権を与える措置を取りました。これによって3万2000人がインド市民権を獲得しましたが、ムスリムがこの制度の対象外となっており、バングラディシュから来た大多数のイスラム教徒も市民権を獲得できないままです。インド政府のヒンドゥー主義的な対応が批判され、国内2億人のムスリムではインドから追いやられ無国籍になるのではという懸念が高まっています。

 

8. 大タミル・ナードゥ

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南インドとスリランカ北部のタミル人居住地の大同団結

タミル・ナードゥは南西インドの州で、人口の90%はタミル人です。

インドにはタミル・ナードゥを中心に、南インドと北スリランカのタミル人が多く住む地域の大統合を求めるナショナリズムが20世紀半ばから存在します。

タミル人の弁護士でタミル語新聞Dina Thanthiを主宰したS. P.アディタナールは、1958年に地域政党「我々タミル党」を設立。インドとスリランカのタミル語圏を統合した大タミル・ナドゥの創設を主張しました。1960年に党はマドラスの分離とタミル・ナードゥの設立を求める州全体の抗議行動を実行し、タミル・ナードゥを除いたインドの地図を燃やしました。アディタナールは逮捕されますが、その後も大タミル・ナードゥの思想はタミル・ナードゥ解放戦線などの武装組織にも引き継がれています。

大タミル・ナドゥの考えは比較的新しいですが、タミル・ナショナリズム自体は19世紀後半から存在します。ヒンディー語やヒンディー文化の「押し付け」への反発から、タミル語とタミル文化の再評価運動が高まりっていきました。タミル・ナショナリズムはドラヴィダ・タミル民族主義が基礎にあり、アーリア人のインド侵入によってドラヴィダ人は抑圧され、アーリア人優位のカースト制度の下で長年被支配者に甘んじたというストーリーを持っています。タミル民族主義者はタミル文化がヒンディー文化とは異なっており、古代タミル文化は差別はなかったとしてカースト制度を否定しています。

このようなタミル・ナードゥのタミル民族主義は、隣国スリランカの北部に住むタミル系住民が独立を求めてスリランカ政府に対し武装闘争を繰り広げていたことも大きな刺激となっていました。

スリランカは多数派を占める仏教徒のシンハラ人が、北部に住むタミル人に対し露骨に排他的な政策を採ったことで反発が広がり、1972年にベルプライ・プラババカランによりタミル・ニュータイガーが結成されました。これが後の「タミル・イーラム解放の虎(LTTE)」です。LTTEは警察署や裁判所、放送局などを襲って北部や東部を武力制圧し、北部はLTTEが支配するタミル人の国内国のようになっていました。スリランカ政府とLTTEは互いにテロ合戦を繰り広げ混乱が拡大したたため、インド政府が介入。北部にインド軍を駐留させ、タミル語の公用語化もスリランカ政府に認めさせました。

こうしてスリランカ政府を従わせた上でインド政府は一転してLTTEを襲撃。反発したLTTEはインド首相ラジブ・ガンジーを自爆テロで暗殺してしまいました。

インドはスリランカから手を引き、1990年代半ばから再び戦闘は激しくなりますが、2007年から政府軍の攻勢が成功し、さらに2009年にプラバカランが死亡したことでLTTEは壊滅。内戦はタミル側の敗北で終わりました。

現在は大タミル・ナードゥを表立って主張する政党はありませんが、地域政党・解放パンサー党(VCK)は選挙ポスターにプラバカランを描いたりして、タミル民族主義を前面に押し出しています。

 

9. 大マレーシア

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中途半端に終わった東南アジアのイギリス植民地の大統合

イギリスの東南アジア植民地・英領マラヤは、マレー半島とシンガポールからなり、スールーとブルネイを含む北ボルネオ(サバ州)はイギリス保護領、サラワクはイギリス人が国王のサラワク王国で、それぞれ政体が異なっていました。

日本軍による占領の後、マラヤに戻ってきたイギリスは、シンガポールを除くマレー半島をマラヤ連合として統合しようとしました。しかし、それまで統治を任されていたスルタンの権限が大幅に削減されて各州にはイギリス人知事が配置されることになり、さらにはマレー人と華人、インド系の身分が完全に平等になることが分かり、マレー人が猛反発しました。結局マレー人以外の権限を制限しスルタンの特権を認めたマラヤ連邦が1957年に独立しました。

マラヤ連邦のラーマン首相は1961年、マラヤ連邦にイギリス直轄領のシンガポール、北ボルネオ(サバ)、ブルネイ、サラワクを統合した「大マレーシア構想」を発表。

共産中国と繋がった左派勢力が強いシンガポールを独立させては危険という考えに加えて、資源が豊かな北ボルネオとブルネイ、サラワクは確保しておきたい考えがありました。

しかしインドネシアとマレーシアの大同団結を主張するインドネシア大統領スカルノや、サバ州の領有を主張するフィリピンからの反発が根強く、特にスカルノは大マレーシア構想を「イギリスによる新植民地主義の陰謀」であるとして国際社会に訴え、マレーシアが1965年に非常任理事国になると国連を脱退。軍同士の小競り合いも発生し、一触即発ムードが高まりました。

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結局ブルネイはイギリスとスルタンの利権がからみ連邦への参加を拒否し、イギリス保護領のまま残留。マレー半島とサバ州、サラワク州を統合し1963年9月にマレーシア連邦が成立しました。その後シンガポールの指導者リー・クアンユーは、マレーシア連邦への参画を模索しますが、連邦の多数派マレー人と、シンガポールの多数派華人の妥協がなされず、シンガポールは単独での独立を余儀なくされました。

 

10. 大インドネシア 

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反帝国主義を打ち出す、第三世界の英雄スカルノの民族主義

マレーシアとインドネシアという政治的な区分は、1824年の英蘭協約に始まっています。

17世紀前半から東南アジアにおけるイギリスとオランダの勢力争いはあり、1623年にはアンボイナ事件でオランダがイギリスを東南アジアから追い出しましたが、19世紀にイギリスはシンガポールを拠点に再び利権の拡大を目指しました。英蘭の争いは先鋭化しますが、当時は欧州本土でナポレオン戦争後のウィーン体制による秩序の回復が求められていたため、イギリスとオランダはお互いに妥協を余儀なくされました。英蘭協約により「オランダはマレー半島から撤収しマラッカをイギリスに割譲すること」「イギリスはスマトラをオランダに割譲し、この地域の勢力と新たに協定を結ばないこと」が確定しました。

歴史的にマレー半島とスマトラ島中部はマレー語を話す同じ文化圏に属していましたが、英蘭によって異なる地域に分割されてしまいました。

このような経緯からインドネシア初代大統領のスカルノは、「マレーシアとインドネシアはもともと歴史的に同じ民族・言語・文化・宗教であるため、統一されるべき」という「大インドネシア構想」を持っていました。

スカルノは1955年に周恩来やネルー、ナセルらを第三諸国のリーダーたちを集めたバンドン会議を成功させ、反帝国主義の旗手として国際的に注目される存在でした。

スカルノはインドネシア共和国を成立させた後、「オランダ帝国主義の残滓」である北マルク諸島や西イリアンの「解放戦争」を進めており、マレーシアがイギリス帝国主義と結んで領土拡大を果たそうとするなど言語道断でした。

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スカルノは「マレーシア粉砕」を訴え、北ボルネオ国民軍を支援したり、ボルネオ島の国境地域や海域で軍事行動を起こしたり、一触即発ムードを高めました。しかし、マレーシア連邦が国連入りをし非常任理事国になるなど国際社会に認められると、大インドネシア構想は停滞し1966年のスカルノの失脚により消えていきます。

しかし、それ以外の旧オランダ領とポルトガルの島嶼領域はインドネシアによる支配が進められていきました。強権的なインドネシアの支配は、反ジャワ・反ムスリムの地域の反発を招き、東ティモールや北マルク諸島、西パプアの独立運動を引き起こしました。

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まとめ

 民族統一主義といっても、地域ごとにまったく状況が異なることがお分かりになるかと思います。

 中東やアフリカは部族社会の伝統が濃厚で土地というよりは有力な部族に恭順する形で支配がなされ、また遊牧社会の伝統が強いため領土という概念がなく、農耕民族的な土地を基礎にした行政区分をやろうとすると色々無理が出てきてしまいます。南アジアだとむしろ、「あいつらはこういってるに違いない」と排外主義の根拠に使われているフシがあります。

 安易なウソに騙されないためにも、こういった主義・主張がどのような文脈や経緯で発生するかを知っておくのは非常に重要ではないでしょうか。

 

参考文献・サイト

 "Greater Syria: The History of an Ambition"  Daniel Pipes

"“Greater Israel”: The Zionist Plan for the Middle East - The Infamous "Oded Yinon Plan". Introduction by Michel Chossudovsky" Global Research

"Historical Dictionary of Mauritania" Anthony G. Pazzanita

 "Looking for Greater Nepal" Himal Southasian

"インド不法移民に市民権 「イスラム教徒は対象外」に強い反発" BBC Japan

「消滅した国々 第二次世界大戦以降崩壊した183ヵ国」吉田一郎