歴ログ -世界史専門ブログ-

おもしろい世界史のネタをまとめています。

歴ログ-世界史専門ブログ-は「はてなブログ」での更新を停止しました。
引き続きnoteのほうで活動を続けて参ります。引き続きよろしくお願いします。
noteはこちら

政変で死んだ世界史の「幼児王・少年王」

政権末期や政変時に担ぎ出される幼児王・少年王

世界史ではよく幼児や子どもで王に担ぎ出されるケースがあります。

政治対立が起こり一触即発の場合に、幼い王を擁立させて角が立たないようにするという場合があり、これはこれで衝突を避ける政治的なテクニックではあります。中には成長して名君となるケースもありますが、悲劇的な末路を遂げる例も少なくありません。

日本史だと壇ノ浦の戦いで海に身を投げて死んだ安徳天皇が有名ですが、政治的混乱に巻き込まれ死んだ幼児王・少年王をピックアップします。

 

1. ジャン1世(フランス)1316年

即位後5日で他界した幼児王

フランス王ルイ10世が他界した後、子は娘しかおらず、妃のクレマンス・ド・オングリーが懐妊中でした。そのため出産までルイ10世の弟フィリップが摂政となり、1316年11月15日 に生まれた男の子が、ジャン1世として国王に即位しました。

しかしジャン1世は生まれて5日後に死去。

跡を継いだのは摂政を務めたフィリップで、フィリップ5世として即位しました。そのため、自らが王位に就くためフィリップがジャンを殺させたという説があります。これは説に過ぎず証拠はありません。

1358年、フィレンツェのジャンニーノという人物がハンガリーに現れ、国王ラヨシュ1世に、自分がジャン1世であると主張しましたが信じられず、1363年にナポリで牢獄死したという話もあります。

 

2. アレクサンドロス4世(アルゲアス朝マケドニア)紀元前323~紀元前309

偉大過ぎるアレクサンドロス大王の後継者争いに巻き込まれた少年王

アレクサンダー4世は、アレクサンダー大王とソグド人の妻ロクサナの息子です。アレクサンドロス大王が紀元前323年6月11日に亡くなったとき、ロクサナは妊娠しており、赤ん坊の性別が不明だったため、後継者としてアレクサンドロス大王の異母兄フィリッポス3世を支持するか、性別不明の赤ん坊を支持するかで争いが生じました。

摂政ペルディッカスは、ロクサナの子供が男であることを期待し、生まれた後も彼を庇護しました。しかしフィリッポス3世支持派もあり、事実上国王が2人いる状態でした。

前321年にペルディッカスが暗殺され、アンティパトロスが新しい摂政に指名されると、彼はロクサナとアレクサンドル4世とフィリッポス3世を庇護下に置きました。紀元前319年にアンティパトロスが死ぬと、彼は老将軍ポリュペルコンを後継者に指名しました。息子カッサンドロスは自分が後継者になるとばかり思っていたため、ポリュペルコンに戦いを挑み、内戦が勃発します。

カッサンドロスはマケドニアを掌握し、ポリュペルコンは一時ロクサナとアレクサンドル4世を連れて西部エピロスに逃亡をせざるえなくなりますが、カッサンドロスと離反したアンティゴノスと連携したことで優位になり、マケドニア奪還に成功しました。紀元前317年、フィリッポス3世は捕らえられ処刑され、アレクサンドロス4世は王となり、アレクサンドロス大王の母オリュンピアスが摂政として実効支配しました。

紀元前316年、カッサンドロスが再びマケドニアを征服するとオリュンピアスは殺害され、アレクサンドロス4世とロクサネも捕らえられました。

紀元前311年、カッサンドロス、アンティゴノス、プトレマイオス、リュシマコスの間の一般講和により第三次ディアドコイ戦争が終結すると、条約ではアレクサンドロス4世の権利を認め、彼が成人したらカッサンドロスの後継者として統治することを明確にしたものの、紀元前309年にカッサンドロスは部下に命じてアレクサンドロス4世と母親ロクサネを密かに暗殺させました。14歳でした。

 

3. プトレマイオス13世(エジプト)紀元前51年~紀元前47年

カエサルと戦って敗れた少年王

プトレマイオス13世はプトレマイオス朝エジプトの王で、三大美女で有名なクレオパトラ7世の弟にあたる人物です。

父プトレマイオス12世は遺言で、姉クレオパトラ7世と当時7歳だったプトレマイオス13世の二人でエジプトを共同統治するように命じます。しかしプトレマイオス13世はテオドトス、宦官ポティヌス、将軍アキラスを中心とする宮廷閥が影響力を持ち、姉を追放し単独でエジプトを統治しようと内戦を起こました。

一時は姉クレオパトラ7世を追放し首都アレクサンドリアを掌握しますが、ローマの将軍ポンペイウスを殺害した事でローマの介入を招きます。カエサルはプトレマイオス13世とクレオパトラ7世を和解させようとしましたが、宮廷閥の宦官ポティヌスや将軍アキルスの一派は引き続きローマ軍を敵視したため、カエサルはこれらの人物を殺害。窮地に陥ったプトレマイオス13世はエジプト軍を指揮しローマ軍と戦いますが圧殺され、逃げようとして溺死しました。14歳でした。

PR

 

 

4. エドワード6世(イギリス)1537年~1553年

イングランド王家の陰謀の渦の中に死んだ少年王

エドワード6世はイングランドの宗教改革を推進したヘンリー8世の息子です。

ヘンリー8世は1547年1月に死去し、当時9歳であったエドワード6世に王位を継承しました。ヘンリー8世は後見人として、エドワード6世の叔父サマセット公エドワード・シーモアを摂政に付けました。幼い国王に代わって彼は絶対的な権勢を得たため、やがて王の周辺で対立が生じ、1549年にウォリック伯ジョン・ダドリー(後にノーサンバーランド公)によって倒されました。

1553年5月、エドワード6世の結核の症状が致命的であることが明らかになり、彼はノーサンバーランド公の意向を受け、異母姉のメアリーとエリザベスを王位継承から除外し、ノーサンバーランド公の娘あるジェーン・グレイとその男系継承者を王位継承の直系に置くことを決定しました。

エドワード6世が15歳で死んだ後に激しい権力闘争が勃発し、ジェーン・グレイの統治はわずか9日間(1553年7月10日から19日)で打倒され、より人気のあるメアリー1世が即位しました。

 

5. アレクシオス2世コムネノス(ビザンツ帝国)1169年~1183年

国論に巻き込まれ殺害された少年皇帝

アレクシオス2世はビザンツ帝国の復興を掲げてイタリア半島への遠征を行ったことで知られるマヌエル1世の息子です。

マヌエル1世の死後の1180年に12歳で皇帝の座に就きますが、若かったため母のマリーが摂政となりました。アレクシオス2世は政治にはまったく興味がなく、遊びにしか関心を示さなかったそうです。12歳だったらそりゃそうだと思いますが…。

マリーは夫マヌエル1世の親ラテン諸国(西ヨーロッパ)政策を継続し、ヴェネツィアやジェノヴァなどに優遇策を採ったため、宮廷内に根強い反ラテン諸国派が「アレクシオス2世に統治を戻させよ」と反マリーの反乱を起こしました。

この反乱を鎮圧したのがマヌエル1世の従兄のアンドロニコス1世で、彼はアレクシオス2世の同意を得てマリーを殺害。次いで、アレクシオス2世の同意を得て共同皇帝に就いた後に、密かに殺害しました。14歳でした。

 

6. 祥興帝(南宋)1271年~1279年

南宋最後の皇帝

祥興帝(しょうこうてい)は南宋9代皇帝。南宋最後の皇帝です。

父は第6代皇帝の度宗(たくそう)で、父の時代に既に北のモンゴル帝国からの圧迫を受けて南宋の存続は風前の灯火となっていました。

度宗の死後、長男の端宗が7歳で即位しますが、彼はモンゴル軍の攻撃から逃れようと広州湾に船で乗り出したとき、船が転覆し病にかかって10歳で死亡。次に次男の恭帝が4歳で皇帝に即位しますが、6歳で元軍に身柄を拘束されモンゴル高原に連行されます。

次に皇帝に即位したのが三男の祥興帝でした。即位の翌年の1279年、元の張弘範による崖山攻撃が開始され、この崖山の戦いで南宋軍は壊滅し、祥興帝は忠臣の陸秀夫とともに入水自殺したとされています。8歳でした。

 

7. エドワード5世(イングランド)1470年~1483年

叔父によって幽閉され殺害される

エドワード5世はイングランドの薔薇戦争中の国王です。父はヨーク家のエドワード4世、母はエリザベス・ウッドヴィル。

薔薇戦争は百年戦争後のイングランドでヨーク家とランカスター家の王位継承権をめぐる全面戦争です。

有力貴族のウォリック伯リチャード・ネヴィルの支援を受けたヨーク公エドワードが、1461年にランカスター家の国王ヘンリー6世を追放しイングランド国王エドワード4世として即位しました。しかしエドワード4世はウォリック伯リチャード・ネヴィルと仲たがいし、1470年に逆にヘンリー6世に攻められ追放されネーデルランドに逃亡しました。エドワード5世はこの時に誕生しています。

翌年エドワード4世がブルゴーニュ公の援軍を得て再侵入し、戦争はヨーク家の勝利で終わりランカスター家とその一味は壊滅しました。

1483年4月、エドワード4世が死去すると、12歳のエドワード5世が王となりました。

しかし叔父のグロスター公リチャードはエドワード5世を捕らえ、弟とともにロンドン塔に幽閉しました。リチャードはエドワード4世の結婚は無効で彼の子供は非嫡出と主張しエドワード5世と弟を殺害。自らリチャード3世として即位しました。エドワード5世の治世はわずか2か月ほどでした。

PR

 

 

まとめ

偉大過ぎる父王の後に立てられたり、内戦や有力者同士の対立が生じた時に傀儡として擁立されたりするときの幼児王・少年王はほんとうに悲劇です。

トップである王に力がない、意思決定できないという状態が本当に危険であることがよく分かりますし、王の血統に正当性がある王政の最大の弱点をまざまざと見せつけられます。

 

参考サイト

"John I king of France" Britannica

"Alexander IV king of Macedonia" Livius.org

"Ptolemy XIII Theos Philopator Macedonian king of Egypt" Britannica

"Alexius I Comnenus Byzantine emperor"  Britannica

"Edward V king of England" Britannica

"Edward VI king of England and Ireland" Britannica