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墓が見つかっていない世界史の超有名人物10人

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未だに捜索が続く世界史の英雄の墓

歴史に名だたる英雄の墓は後世の人に敬われ大切にされれる、ということであればいいのですが、全然そんなことありません。

盗賊に盗掘されたり、政敵や敵民族によって暴かれ遺骸や遺骨を燃やされて捨てられたりすることもありました。そういうわけで死後の安寧のために、自分の墓を隠す権力者は多くいました。

その他にも、どういうわけか墓の場所が紛失して見つからないケースなど、歴史上の偉人だけど墓がまだ見つかっていない人物をピックアップしてみます。

 

1. アッティラ

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「神の災い」と恐れられた男の墓

アッティラはご存じの通りフン族の大王。ゲルマン民族を圧迫しつつ、ローマ帝国に侵入を繰り返し、ハンガリー平原を本拠にして現在のロシアからドイツにまで至る大帝国を築いた傑物です。そんな傑物は453年に有名な拍子抜けするような死を迎えました。

このエピソードはゴート人の歴史学者であるヨルダネスが、アッティラの死を目撃したとされる修辞学者プリスコスの話をもとに記述を残しています。

結婚式に出席し酔っ払ったアッティラは、鼻血で窒息し死亡。

遺体の上で葬送の歌が詠まれ、喪主たちはナイフで顔を傷つけ、髪を切って悲しみを表しまた。その後、遺体は3つに分けられ、1つ目は金、2つ目は銀、3つ目は鉄で作られた棺に納められ、秘密裡に埋葬されました。墓を掘った召使たちは口封じのために殺害されました。

墓はハンガリーのどこかにあると広く信じられていますが、その後全く発見されておらず、ハンガリーの歴史家はアッティラの死後数年のうちに略奪されたのではないかと考えています。

 

2. カメハメハ大王

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伝統に従って遺骨の場所は探さない

カメハメハ大王は、1810年にハワイ諸島を統一し、カメハメハ王朝を築いた人物です。

彼は1819年に亡くなったのですが、彼の遺体は信頼できる友人であるホアピリとホノルルによって、フナケレ(秘密に隠す)と呼ばれる古代の習慣に倣い隠匿されました。

ハワイでは、敵対する酋長が墓を冒涜したり、骨を釣り針に使ったりすることを防ぐため、遺骨は隠されその場所は誰にも明かさないという伝統がありました。

人々もその習慣を尊重しており、カメハメハ大王への敬意とマナ(精神)を守るためにその場所を積極的に探そうとしないそうです。

アメリカ考古学協会によると、ハワイ最後の王、デビッド・カラカウアはカメハメハ大王の遺骨の捜索を行って、ハワイ島の洞窟から2つの骨を取り出し、そのうちの1つがカメハメハのものであるとしてオアフ島のロイヤル・マウソレウムに埋葬しました。

しかし、門家はこれらの骨がカメハメハのものであると確認することができず、彼の最期の場所はまだ見つかっていないと考えています。

 

3. アルフレッド大王

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何度も移動したあげく略奪された王と家族の遺骨

アルフレッド大王はイングランド七王国の一つウェセックス王国の国王で、デーン人の侵入を阻んでイングランドを統一し、キリスト教文化を普及させた人物です。イングランドで唯一 "the Great "と呼ばれている人物です。

アルフレッド大王は899年に原因不明の病で亡くなりましたが、それ以降、彼の遺体は何度も移動させられています。

最初はウィンチェスターのオールド・ミンスターに、家族と共に埋葬されました。しかし4年後、彼と家族の遺体は掘り起こされ、ニュー・ミンスターの新しい安置所に移され、その後211年間留まりました。

しかし、1066年のノルマン・コンクエストの後、ウィリアム一世は多くのアングロサクソン系の修道院を取り壊してノルマン人の聖堂に取って代えさせました。その中でニュー・ミンスターも破壊されてしまいます。ニュー・ミンスターの修道士たちは、アルフレッドとその家族の遺体を少し北にあるハイド・アビーに移しました。

その後、1536年の修道院解散の際に多くのカトリック系教会が破壊され、ハイド・アビーも破壊されました。墓は1788年までそのまま維持されましたが、跡地に監獄が建設されることになり、建物を建てるための下準備として地面を整えるために囚人たちが送り込まれました。この時、多くの石棺が掘り起こされ、聖杯や指輪、靴やブーツの革、金のネックレスなどが見つかりました。囚人たちは石の棺を粉々に壊し、中の骨をそこらへんに捨てたとされています。

一説によると、この時に捨てられた骨は回収され、聖バーソロミュー教区教会に移されたそうです。しかしこの活動が行われたのは19世紀のことなので、様々な時代の人物の遺骨が混じっていると考えられます。

 

4. ネフェルティティ

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なぜ消えたのか、墓はどこにあるのか一切不明

ネフェルティティは第19王朝でアマルナ革命を進めたアメンホテプ4世(アクエンアテン)の妻で、少年王ツタンカーメンの義母であることで有名な女性です。

彼女の墓もまだ見つかっていません。夫アメンホテプ4世が彼女よりも先に亡くなったことから、彼女がそこに埋葬された可能性は極めて低いと考えられます。彼女のために作られたと考えられる「29号墳」と呼ばれる未完成の墓が見つかっていますが、埋葬室がないことから、彼女はそこにも埋葬されていません。

1898年、フランスの考古学者ヴィクトル・ロレは、王家の谷のKV35にあるアメンホテプ2世の墓の中に保管されていた2体の女性のミイラを発見しました。この2体のミイラは「年長の女性」と「若い女性」と呼ばれ、どちらかがネフェルティティではないかと考えられたのですが、その後の分析の結果、「長老の女」はアメンホテプ2世の母ティエ、「若い方の貴婦人」はツタンカーメンの実母で、アメンホテプ3世とティエの娘であると結論づけられました。

2015年、イギリスの考古学者ニコラス・リーブスは、高解像度スキャンによってツタンカーメンの墓の壁の後ろに空洞があることを発見し、それをネフェルティティの埋葬室ではないかと主張しましたが、その後のレーダースキャンによって隠し部屋はないことが判明しました。

ネフェルティティは紀元前1336年に何らかの理由によって記録が一切消えてしまっており、なぜ彼女が消えたのかも含めまだ分かっていません。

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5. フランシス・ドレーク

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海賊王の水中墓地

フランシス・ドレークはイギリスの私掠船船長で、エリザベス一世の庇護を受けてスペイン船への略奪行為を行いながら、世界一周を成し遂げた人物です。後のイギリスの勃興のきっかけが、この時にドレークが持ち帰った多額の金品が元になっていると言われるほどです。

1596年、ドレークはカリブ海で略奪航海中にパナマで死亡。鎧を身にまとい、鉛の棺に入れられ、ポルトベロ沖14マイルの海上で埋葬されました。

その後、ドレイクの棺はカリブ海で行方不明になり、多くのダイバーや水中考古学者、トレジャーハンターが探し続けてきました。2011年には、アメリカの企業家パット・クロースが資金を提供した調査団が、ドレイクの2隻の船、エリザベス号とディライト号の残骸と思われるものを発見しました。しかし棺はまだ発見されていません。

 

6. トマス・ペイン

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不遇な晩年に引き続き遺骸も不遇に

トマス・ペインは1770年代、『コモン・センス』や『人間の権利』などの著作でアメリカ独立戦争への呼びかけや王政批判を行った作家です。

一時は英雄視されるも、後に『理性の時代』で理神論を訴え教会を攻撃したことで非難され、さらに奴隷反対を訴えてアメリカ大陸でも支持者を失ってしまいました。1809年に死去しますが彼の葬儀に参列した人はわずかだったそうです。

10年後、ウィリアム・コベットという人物が母国イギリスでペインの記念碑と墓を作ると言ってペインの遺体を掘り起こし、母国イギリスに送りました。

しかしどういわけかコベットは何も行動を起こさず、遺体はその後数年間、彼の屋根裏部屋に放置されました。

コベットの死後、トマス・ペインの遺骸も行方不明になりました。ゴミとして捨てられたり、骨がリサイクルに売られたという説もありますが、断片的にオークションにかけられたという説もあります。実際に、トマス・ペインの頭蓋骨や手、顎の骨を所有していると主張するコレクターが存在します。

 

7. レオナルド・ダ・ヴィンチ

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墓はあるが本人の遺骨なのか分からない

レオナルド・ダ・ヴィンチは1519年に67歳で脳卒中で亡くなり、フランスのロワール渓谷にあるアンボワーズ城のサン=フロランタン礼拝堂に埋葬されました。

しかしフランス革命で礼拝堂と教会で破壊され、他のルネサンス期の人物の遺骨と混じってしまったと考えられています。

1863年に行われた発掘調査では、墓石の破片と、ダ・ヴィンチのものと思われる骨の残骸が発見されました。科学者たちは遺骨のDNA鑑定を行いたいと考えていますが、ダ・ヴィンチには子供がいなかったため、難しい問題となっています。ダ・ヴィンチの異母兄の子孫を特定し、彼らのDNAと、ダ・ヴィンチのものである可能性のある髪の毛のDNAを比較する計画があります。

ちなみにアンボワーズ城はダ・ヴィンチの墓があるということで観光名所になっていますが、ガイドブックには「ダ・ヴィンチの遺骨と推定されるものがある」と書かれているようです。

 

8. チンギス・ハン

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世界史のミステリーの一つ「チンギスハンの墓」

史上最大の征服者チンギス・ハンの墓がどこにあるかは、世界史のミステリーの一つで、多くの人々の関心を集めてきました。

伝説によると、1227年にチンギス・ハーンが死んだ時、側近たちは自分の墓を秘密にしてほしいという彼の要求に応え、墓を作った者そして彼の葬列を見た者を皆殺しにしました。その後、自分たちの沈黙を守るために自殺したそうです。その他には、1万頭の馬で墓を踏み潰して隠したという伝説や、強盗や冒涜から守るために川を迂回させたという伝説もあります。

今、チンギス・ハーンの最期の地として注目されているのがモンゴルのヘンティ県で、地中レーダーや衛星画像などあらゆる手段を駆使して捜索されていますが、いまだに発見されていません

 

9. クレオパトラ

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アレクサンドリア沖の海底に沈んでいる?

エジプト・プトレマイオス朝最後の女王クレオパトラ(クレオパトラ7世)は、ローマの将軍ユリウス・カエサルとマルクス・アントニウスの恋人となった人物。将軍アントニウスと組んでオクタヴィアヌスと戦うも、アクティウムの海戦で敗れ自殺します。

自殺の際に毒蛇に噛まれて死んだという伝説はあまりにも有名です。

古代の作家はクレオパトラはアントニウスと一緒に埋葬されたと伝えています。

しかし現在に至るまで、クレオパトラの墓は発見されておらず、現在でも捜索が続いています。アレキサンドリアの西約31マイル(50キロ)に位置する「タポシリス・マグナ」という場所にある墓がクレオパトラとアントニウスのものではないか、という説があります。しかしこの地で発掘された埋葬品が、政治家ではなく宗教的な人物のものであるため、高い地位にあった神官の墓ではないかという主張もあります。

考古学者の多くは、クレオパトラの墓は2000年以上もの海岸浸食や地震、都市開発などによって水中に没し、現在もアレクサンドリア沖の水中のどこかにあるのではないかと考えているようです。

著名なエジプトの考古学者ザヒ・ハワス氏によると、「クレオパトラは宮殿の隣に作られた墓に埋葬されていて、それは水中にあると考えられる」「彼女の墓は決して見つからないだろう」とのことです。

 

10. アレクサンドロス大王

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様々な説があるアレクサンドロスの墓

アレクサンドロス大王の墓がどこにあるのかも、世界史の大ミステリーの一つです。

アレクサンドロス大王は紀元前323年にバビロンで亡くなり、金の棺に入れられメンフィスに埋葬され、最終的にアレキサンドリアの墓に運ばれました。数年後、彼の遺体は霊廟に移され、「アレクサンドロス大王霊廟」は古代観光名所になり、ユリウス・カエサル、アウグストゥスも参詣しました。

セプティミウス・セウェルスがアレキサンドリアを訪れた際、アレキサンダーの墓は封印され、その後、215年、カラカラによってアレキサンダーの墓の一部が移されました。 

その後、アレクサンドロスの墓は小さくなり、たびたびアレクサンドリアも戦乱に巻き込まれたこともあり、町の人々からも忘れられていったようです。そんな中でも歴史家アル・マスディや旅行家レオ・アフリカヌスなどがアレキサンダーの墓に参詣したと報告しています。

アレクサンドロスの墓は今でもアレキサンドリアのどこかにあると考える研究者も多いですが、ヴェネツィア商人に盗まれて今はヴェネツィアにある説やギリシャのヴェルギナに埋葬されている説、あるいはエジプトのシワにあるという説もあります。

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まとめ

偉大なことを成し遂げたばかりに、死後も安心して休めないというのは皮肉なものです。

歴史を作った偉大な人物の遺骸や遺骨に見たり触れたり、あるいは調査したりしてみたい、という欲望はすごくよく分かりますし、新たな歴史的発見もあるのかもしれませんが、もうゆっくりさせてやってほしいという気持ちもどこかにはありますね。

 

参考サイト

"THE BURIAL OF ATTILA" HUNGARIAN REVIEW , DECEMBER 6, 2011, MIHÁLY HOPPÁL

"Oahu locals discuss the lost tomb of King Kamehameha I" KALAKAI

"Where is Cleopatra's tomb?" LIVE SCIENCE

"7 Lost Burial Sites" HISTORY

"Is this Nefertiti’s tomb? Radar clues reignite debate over hidden chambers" nature

"Leonardo da Vinci's Tomb" Atlas Obscura