歴ログ -世界史専門ブログ-

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毒殺された世界史の人物と動物28名と2匹

殺し方として非常に一般的な「毒殺」

食べ物や飲み物に毒を混ぜて人を殺害する方法は、刃物で切ったり首を絞めたりする方法に比べて力もいらず、比較的容易と考えられます。ただし毒殺といっても単にメシに毒を混ぜるだけではないようです。

歴史上、毒殺された人間は数限りなくいるのですが、重要な人物と動物、28名と2匹選んでみました。

なお今回は「服毒自殺」は除外しており、「毒殺された」人物のみです。

 

1. ソクラテス(紀元前477年~紀元前399年)

陪審員に毒殺される

ソクラテスは言わずと知れた古代ギリシャの哲学者です。

偉大な洞察力を持ち、誠実で自制心があり、議論が巧みであったとされ、彼の生き方や思想は西洋哲学に与えた影響は計り知れません。ソクラテス自身は何も著作を残していないことは有名です。彼の弟子であるプラトンやクセノフォンなどが残した著作の中で、ソクラテスとの会話が描かれています。

彼はもともとアテナイの民主制に批判的であったため、70歳の時にアテナイ市民の告発を受け裁判にかけられ、陪審員によって毒殺されました。

 

2. アルタクセルクセス3世(紀元前425年~紀元前338年)

宦官に毒殺される

アルタクセルクセス3世は、アケメネス朝ペルシャの王で、親族のほとんどを殺害し王座を確保したほど冷酷な人物だったとされます。

アルタクセルクセス3世は大軍を率いてエジプトに進攻し、紀元前343年ナイル川のデルタ地帯にあるペルシウムでネクタネボ2世を破りました。ペルシアの総督がエジプトに置かれ、都市の城壁は破壊され、神殿は略奪されました。

王がエジプトからスサに戻った後、アルタクセルクセスは3世宦官バゴアスにより毒殺されました。彼の死後、息子のアルセスがバゴアスに擁立されますが、彼もまたバゴアスに毒殺されています。

 

3. ドルスス(紀元前14年~紀元前23年)

妻と親衛隊長によって毒殺される

ドルルス(小ドルルス)は第2代ローマ皇帝ティベリウスの息子です。

ティベリウスの後継として、有能な養子のゲルマニクスが予定されていました。しかし紀元前19年にゲルマニクスが死ぬと、ドルルスは後継者候補となります。

ドルルスは紀元14年、パンノニア地方で起こった反乱の鎮圧や、マルコマンニ族の王マロボドゥスの追放などに功績をあげ、21年に執政官となりました。しかし妻リヴィラとティベリウスの親衛隊長セイヤヌスによって毒殺されました

結局第3代皇帝はゲルマニクスの息子が選ばれます。その人物こそ暴君で知られるカリグラです。

 

4. クラウディウス(紀元前10年~紀元後54年)

妻に毒キノコを食わされて死亡

クラウディウスは第4代ローマ皇帝。

彼は生まれつき病弱で、動作がぎこちなく、「どもり」があり話すときにヨダレが垂れるといった癖があったため、一族の人々にすら疎まれ長年閑職にいました。しかし暴君カリグラ暗殺後に近衛師団プラエトリアニの要請を受けて皇帝に就きました。

クラウディウスの治世下で、国庫と地方行政に対する皇帝の支配が強まる一方、地方知事たちに財政の管轄権を与えられました。

クラウディウスは姪の小アグリッピナと再婚します。小アグリッピナは非常に権力欲が強い女で、彼女は息子ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス(後の皇帝ネロ)を養子にすることをクラウディウスに認めさせました。そうして小アグリッピナは毒キノコをクラウディウスに食べさせて殺害したと言われています。

次の皇帝には、クラウディウスの息子であるブリタニクスではなく、小アグリッピナの息子ネロが就きました。

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5. 質帝(138年〜146年)

権勢を誇る外戚によって毒を盛られる

質帝は後漢第10代の皇帝です。

当時は政治家で外戚の梁冀(りょうき)が権勢を誇り、皇帝を差し置いて政治の実権を握っていました。臣下が好き勝手振る舞うこと四字熟語「梁冀跋扈(りょうきばっこ)」の語源となっています。

9代目皇帝沖帝(ちゅうてい)がわずか3歳で死亡すると、梁冀は8歳の劉纘を即位させました。彼が質帝です。聡明だった質帝は、梁冀とその取り巻きが政治の実権を握り自分は何もできないことを不満に思い、梁冀に「跋扈将軍なり」と苦言を言いました

梁冀は質帝を毒殺して、次の皇帝として桓帝を即位させました。

 

6. 夏侯 徽(211年〜234年)

夫婦仲が冷え切り夫に毒を盛られ死亡

夏侯 徽(かこう き)は三国時代の魏の時代の将軍・司馬師の妻。母は曹操の甥の曹真の妹である徳陽郷主です。

司馬師は諸葛孔明との戦いで有名な司馬仲達の長男で、魏呉蜀の三国の戦いの最前線で活躍していました。夏侯徽は聡明な女性で、司馬師との間に5人の子どもを儲けますが男子は生まれませんでした。

次第に司馬師と夏侯徽の仲は冷え切っていき、234年に司馬師によって毒を盛られ死亡しました。

 

7. 献文帝(454年〜476年)

皇太后との政治闘争の結果毒殺される

献文帝は北魏第5代皇帝。本名は拓跋弘(たくばつこう)です。

父文成帝が26歳で死去したため、465年にわずか12歳で皇帝に就きました。若年であったため、皇太后となった馮太后が群臣の支持を得て政務を摂りました。

献文帝は文成帝の側室であった李氏の息子で、馮太后の実子ではありませんでした。それもあってか、献文帝と馮太后は対立を深めるようになります。

467年に息子である拓跋宏(後の孝文帝)が生まれると、馮太后が実権を返上し献文帝が政務を執るようになります。献文帝は471年に柔然への親征など、徐々に皇帝として仕事で成果を挙げはじめました。ところが471年に突然、皇太子の拓跋宏に譲位し、自らは太上皇帝となります。まだ18歳でした。

馮太后の圧力で譲位させられたというのが通説ですが、皇位を確実に拓跋宏に与える目的だったという説もあります。何らか馮太后との間に政治闘争があったのは間違いなく、結局476年に馮太后によって献文帝は毒殺されました。

 

8. 孝明帝(515年〜528年)

実母との政治闘争の結果毒殺される

孝明帝は北魏の第8代皇帝。本名は元詡(げんく)で、6歳で即位しました。

若年のため、実母の胡氏が実権を握りました。彼女のことを霊太后と呼びます。

成長した孝明帝は霊太后と対立するようになります。またこの時代、凶作、飢饉、洪水、干魃と天災が相次ぎ、民衆の不安が高まり各地で農民反乱が頻発しました。さらには六鎮の乱や豪族の乱が相次いで発生します。

ここで登場したのが爾朱栄(じしゅえい)という契胡という遊牧民族出身の男で、たちまち各地の乱を平らげて人々の人望を集めました。孝明帝は爾朱栄の娘を妃とするなどして関係を深め、霊太后に奪われた実権を取り戻そうとしました。

霊太后は孝明帝を毒殺し、生まれたばかりの孝明帝の娘を男児と偽った上で帝位に就け、再び実権を握ろうとしました。

その後、爾朱栄によって霊太后は殺害されています。

 

9. 廃帝(?〜554年)

実権を取り戻そうと策略し毒殺される

廃帝は西魏の第2代皇帝。その名の通り、内部抗争によって廃位させられた人物です。

爾朱栄に仕えた宇文泰は関中の反乱鎮圧などで功績を上げて軍閥の頭目にのし上がり、孝武帝の妹を妻に迎えて丞相となるも、彼を毒殺し、534年に孫の元宝炬を皇帝に擁立します。彼が文帝です。文帝が551年に死亡すると、皇太子の拓跋欽が即位しました。彼が廃帝です。

廃帝は宇文泰の娘宇文皇后を妻とするも、傀儡となることをよしとせずに宇文泰暗殺計画をたてました。ところがこれが露見し、554年に宇文泰によって廃位させられ、毒殺されました。宇文皇后は廃帝を愛しており、夫に殉じたそうです。

 

10. アリー・イブン・アビー・ターリブ(600年~661年)

暗殺者によって毒を塗った刀で切られて死亡

一般的には「アリー」として知られるアリー・イブン・アビー・ターリブは、預言者ムハンマドの甥で養子。預言者ムハンマドの死後の第4代カリフ。シーア派の初代イマームとして知られます。

預言者ムハンマドの死後、アリーが後継者であるカリフの候補となりますが、若いという理由で選ばれず、ウマイヤ家のアブー・バクルが選ばれました。

その後、第3代カリフウスマーンがウマイヤ家を重視する政策を採ったことで反発を招いて暗殺され、次のカリフ位をめぐってアリーとウマイヤ家のムアーウィヤが争いました。結局アリーが第4代のカリフに就任しました。しかし預言者ムハンマドの晩年の妻でウマイヤ家出身のアイーシャが反発し戦いが生じます。その後アリーはウマイヤ家と妥協したため、アリー支持者の一部は強烈な反アリー派(ハワリージュ派)となり、執拗にアリーを暗殺しようとしました。

661年、アリーはクーファの大モスクで祈祷中に暗殺者に毒を塗った刃で襲われ死亡しました。

 

11. 中宗(656年〜710年)

妻と娘に食わせられた毒入りのモチで死亡

中宗は唐の4代目、6代目皇帝で、中国史で唯一皇帝となった女性、武則天の息子です。

683年に高宗が死ぬと皇帝に即位しますが、母武則天によってわずか55日で長安から追放され、弟の睿宗に譲位させられました。武則天は国号を周とし自ら皇帝に就きました。

その後、武則天の後継者の問題が焦点となり、705年に中宗は皇帝に復位し、唐朝が復活します。しかし妻の韋后と娘の安楽公主の権力が大きくなり、国政に介入するばかりか、後宮に怪しげな連中を連れ込んで淫らな遊びにふけっていました。これが中宗の耳に入ると、2人は策謀しモチに毒を入れて食わせ中宗を殺害しました。

 

12. ウマル・イブン=アブドゥルアズィーズ(682年~720年)

反対勢力によって毒を盛られ死亡

ウマル・イブン=アブドゥルアズィーズ(ウマル2世)はウマイヤ朝の第8代カリフ。第2代カリフ、ウマルのひ孫にあたる人物です。

717年に第7代カリフ、スライマーンの推挙によりカリフに昇格しました。当時のウマイヤ朝は対外的には拡張政策の限界が見え、国内では宗教的原則よりも政治的安定を優先するウマイヤ家の政治に対する不満が高まっていました。そこでウマル2世は不人気な総督を罷免し、税制を改革し、被征服民(マワーリー)にもアラブ人と同等の財政権を認めるなど、国内整備政策に着手しました。ウマイヤ家の人物でありながらも、敵対するシーア派にも評価されている数少ない人物の一人です。

しかしこのような平等化政策は、アラブ人の既得権益層の反発を招き、ウマル2世は毒を盛られて殺害されました。

 

13. ムーサー・カーズィム(765年~799年)

スンニ派カリフによって毒殺される

ムーサー・カーズィムは十二イマーム・シーア主義の第7代イマームです。預言者ムハンマドとは、娘のファーティマを通じ7代目の子孫にあたります。

第6代イマーム、ジャアファル・サーディクの息子で、父の死後にイマームとなりますが、この継承はトラブルになりました。長男イスマーイールのイマーム就任を支持する人々は、イスマーイール派を結成します。カーズィムを支持する人々は、十二イマーム派と呼びます。

彼の時代はアッバース朝が勃興していた時代でした。そんな中でもカーズィムはカリフを「簒奪者」と呼び、カリフに対する強硬な姿勢を貫いたため、アッバース朝のカリフ、ハールーン・アッラシードの命令で投獄され毒殺されました

 

14. 哀帝(892年〜908年)

朱全忠に帝位を乗っ取られ毒殺される

哀帝こと昭宣帝は唐のラストエンペラー。

黄巣の乱鎮圧に功のあった朱全忠によって父昭宗は殺害され、12歳で帝位に就きました。ただこれは朱全忠が帝位を奪い、禅譲させるためだけの帝位でしかありませんでした。

帝位に就いてから2年半後の907年、昭宣帝は朱全忠に禅譲し、朱全忠は皇帝に就きました。彼は国号を「大梁」としました。五代十国の一つ「後梁」として知られます。こうして唐王朝は滅びました。

昭宣帝は後梁成立の翌年、朱全忠改め太祖により毒を盛られ死亡しました。諡号は哀帝と呼ばれます。

 

15. オレグ(?〜912年)

毒蛇に噛まれ死んだという伝説

オレグはキエフ・ルーシの礎を築いたとされるヴァリャーグの指導者です。

オレグはノヴゴロド王国の伝説的な祖リューリクの近親者であるとされ、ノヴゴロドを支配した後にドニエプル川を下り、キエフを征服し支配下に置きました。年代記によると、オレグは優れた戦士で、コンスタンティノープルへ遠征し(907年)有利な講和と多額の賠償金を得ました。

オレグの死には伝説があります。

オレグは自分の馬のために死ぬと予言者に告げられたため、その馬を追い払った。数年後、馬の様子を見に行くと馬は既に死んでいた。預言は当たらなかったじゃないかと言って馬の骨を蹴ると、骨の中から毒蛇が出てきてオレグに噛みつき死亡させた、というもの。

実際にはオレグがどう死んだかはいくつかの説がありますが、原初年代記によると後継者のイーゴリ1世に毒殺されたのだそうです。

 

16. ムハンマド3世(976年〜1025年)

部下に金品目的で毒殺される

ムハンマド3世は、後ウマイヤ朝の第8代カリフ。

初代アブド・アッラフマーン3世の曾孫にあたり、従兄弟で第7代のアブド・アッラフマーン5世に対する反乱後、近衛兵の推挙によってカリフとなりました。

しかし彼の統治は人々を失望させました。敵とみなした臣下を抹殺したり、政治を疎かにして食欲と色欲におぼれ、身分の低い女を取り立てて妃としたりしました。彼の時代には都市の荒廃や治安の悪化、経済の不振が人々を苦しめ、1025年5月16日にムハンマド3世は退位させられました。

その際彼は女装し、2人の護衛をつけてコルドバから脱出したものの、数日後に部下の一人に毒殺され、持っていた宝石や富を奪われました

 

17. クレメンス2世(1005年~1047年)

対立教皇の支持者によって毒殺される

クレメンス2世は、1046年~1047年に即位したローマ教皇です。

シルウェステル3世、ベネディクトゥス9世、グレゴリウス6世がそれぞれ教皇を主張して鼎立するという異常事態で、神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世が調停に乗り出しました。そこで抜擢されたのがドイツ人の司教スイドガーで、彼が教皇クレメンス2世として即位しました。

1047年、クレメンス2世はローマ公会議を招集し、シモニー(教会職の売買)を禁止する法令を可決するなど、カトリック教会の改革に着手しました。ところがドイツから帰国後に急死しました。対立教皇のベネディクトゥス9世の支持者による毒殺であると考えられています。次の教皇はそのベネディクトゥス9世が即位しました。

 

18. インゲ2世(?〜1125年)

妻から毒を盛られたという説

インゲ2世は1110年から1125年にかけてのスウェーデン王です。

彼の治世についてはほとんど記録がなく、スウェーデンは繁栄したということのみが年代記に記されています。

インゲ2世は、ノルウェー貴族ホーコン・フィンソンの娘ウルヴヒル・ホーコンスダッタと結婚し、彼女がインゲ2世に毒入りの飲み物で暗殺したという逸話があります。しかしこれは確証がなく、記録によれば「悪酔い」で死んだとされています。

 

19. ボードゥワン3世(1130年~1163年)

医師に処方された毒の錠剤を飲んで死亡

ボードゥワン3世は第一次十字軍で誕生した十字軍国家の一つ、エルサレム王国の国王です。

ボードゥワン2世の死後、王位は娘のメリセンデと夫のフルクによって担われますが、パレスチナの十字軍諸国は弱体化していきました。1152年のボードゥワン3世は国王となり、トリポリ伯領やアンティオキア伯領などに介入し十字軍諸国の維持を試みました。しかし1154年にヌールッディーンによってダマスカスを占領されてしまいます。

ボードゥワン3世は、教養があり、武勇も優れた人物で敵であるムスリムからも尊敬された人物だったそうです。当時の年代記によると、医師から処方された錠剤が毒で、それを飲んだところ倒れて死んだそうです。実際のところはよく分かりません。

 

20.コシラ(1300年〜1329年)

帝位を争った弟の一派に毒殺される

コシラは元王朝第9代皇帝、モンゴル帝国第13代大ハーンです。

父は第3代皇帝カイシャンで、長男のコシラは後継者とされます。しかし父の死後にコンギラート部族出身の派閥が強くなり、叔父のアユルバルダラの息子シデバラが皇太子となり、コシラは雲南に左遷させられます。しかしその途上で殺されそうになったため、彼は中央アジアに逃亡しました。

1323年に第5代皇帝シデバラが死に、次いで1328年に第6代皇帝イェスン・テムルが死ぬと、イェスン・テムル派、旧カイシャン政権のグループ、コシラの弟トク・テムルを推す軍閥エル・テムルとの間で内乱が起こり、エル・テムルが勝利。第7代皇帝にトク・テムルが就きました。中央アジアにいたコシラは、中央アジアの諸王の軍勢の助力を得て大都に向かい、トク・テムルに帝位を譲るように圧力をかけました。

トク・テムルは戦うことを諦め帝位を譲り、コシラは第8代皇帝となりました。

ところが帝位に就いてすぐ、宮中で毒殺されました。トク・テムルの一派の犯行と考えられます。コシラ死後、トク・テムルは帝位に復位し第9代皇帝となりました。

 

21. アブー・サイード(1305年〜1335年)

強奪して妃にした女性に毒殺される

アブー・サイードはイルハン朝の第9代君主です。

わずか12歳で即位したアブー・サイードは、軍総司令官チョバンの補佐を受け、君主就任後の混乱を乗り切った他、1318年にジョチ・ウルスのウズベク・ハンの侵入に対しアブー・サイードは軍を起こしますが、これもチョバンによって助けられています。

アブー・サイードはチョバンの娘でバグダード・ハトゥンという女性に恋をしてしまい、自分の妃にしたいと強く願うようになりました。ところが彼女は既に有力な諸侯の元に嫁いでいたため、困ったチョバンは娘夫婦をアフガニスタン南部に転封させました。ところがアブー・サイードはますますバグダード・ハトゥンに恋焦がれるようになり、チョバンと息子たちを殺害。強引にバグダード・ハトゥンを自分の妃にしてしまいました。

有能な忠臣を失ったことで政治は混乱し、さらにウズベク・ハンが再びイルハンに侵入。アブー・サイードは対応のために陣中に入っていたところ毒殺されました。犯人はバグダード・ハトゥンであると言われています。

 

22.李文忠(1339年〜1384年)

独裁皇帝に異議申し立てをしたことで毒殺

李文忠は明王朝の創始者、朱元璋の母方の甥にあたります。

若い頃から朱元璋の下で軍を率い、江南の群雄・陳友諒、張士誠の軍勢と戦い、北方ではモンゴル高原に逃げた元の残党と戦い、明の名将・徐達、常遇春に肩を並べる将軍となりました。明朝成立後は、曹国公に任ぜられました。

ところが1384年12月に病気になり、新年が明けても回復しなかったため、朱元璋は1385年2月に彼を訪ねました。朱元璋は医者に診断と治療を行うように命じますが、3月1日に46 歳で死亡しました。朱元璋は皇帝就任後、独裁体制を確立し、自分と側近によって政策を立案・実行していました。その邪魔となる勢力は忠臣だろうと抹殺をたまらいませんでした。しかし李文忠は粛清を辞めること朱元璋に注進しており、そのために毒殺されたと言われています。

 

23.ドミトリー・シェミャーカ(?~1453年)

モスクワ大公をめぐる権力争いの果てに毒殺される

ドミトリー・シェミャーカは、初めてキプチャク・ハンの軍勢を打ち破ったことで知られるドミトリー・ドンスコイの孫にあたる人物です。

王家であるリューリク家の分家にあたる父ユーリーが本家のヴァシリー2世に対して反乱を起こした際に、彼は父を支援しました。しかし兄のヴァシリーがモスクワ大公を継いだことに反発し、弟のドミトリーとヴァシリー2世と協力してモスクワを攻撃して占領。ヴァシリーを捕らえて目を潰し、自らモスクワ大公を自称しました。

ところが1453年7月、ノヴゴロドの王族の屋敷で鶏肉を食っていたところ毒を混入され殺されました。ヴァシリー2世はこの知らせに歓喜し、伝令者に褒美を取らせたそうです。

 

24. フアン・ポンセ・デ・レオン(1474年~1521年)

フロリダ先住民の毒矢で死亡

フアン・ポンセ・デ・レオンはスペイン人のコンキスタドールで、プエルトリコに最初のヨーロッパ人の入植地を作り、フロリダに最初に到達したヨーロッパ人として知られます。

1493年、クリストファー・コロンブスの第2次新大陸探検に参加して探検家としてのキャリアをスタートさせ、プエルトリコの金鉱を探すために総督に任命されました。

しかしすぐにライバルたちの政略により総督の座を追われ、王室の要望もあって各地を探検し金銀を探す旅に出かけます。

1513年3月にプエルトリコから私設の探検隊を率いて、同年4月にフロリダに上陸しました。イースター(Pascua Florida)の時期に発見したことから、この地を「Florida」と名付けました。フロリダ半島は1819年にアメリカが購入するまでスペインの支配が続きますが、それは彼の功績によります。

1521年、ポンセ・デ・レオンは2200人の部下を連れて再びフロリダへ来報しますが、先住民の毒矢の攻撃を受けて負傷し、キューバに戻され治療を受けますが死亡しました。

 

25.エリク14世(1553年〜1577年)

王位を奪われ牢獄で毒殺される

エリク14世は16世紀半ばのスウェーデン国王です。

国内では貴族の権限を制限し王権を拡大し、外政ではバルト海交易でデンマークの軛を抜け出すことを目指しました。

リヴォニア地方(現在のラトビア、リトアニア)に領土を広げ、ポーランドと同盟して1563年にデンマークに宣戦布告し、北方七年戦争を開始しました。この戦争でエリク14世率いるスウェーデン軍はそれなりの戦果を上げるも勝利にまではたどり着けませんでした。

エリク14世は年を経るにつれ精神が混乱し発狂の症状を表すようになっていきました。

そんなエリク14世が見初めた女性が、一般人の女性でカリン・モンスドッテルという人。無垢で純粋な女性で、王宮内で唯一エリク14世の発作を抑えることができた人物でした。

ところがエリク14世が正式にカリンを王后に迎えると宣言すると宮廷は大混乱し、結婚式の後早々にエリク14世は廃位され、牢獄で毒の入ったスープを飲まされ死亡しました。

カリンはフィンランドに土地を与えられてそこで余生を過ごしました。

 

26. 山田長政(1590年~1630年)

傷口に毒を塗られ死亡

山田長政はアユタヤ朝の日本人傭兵団の頭領として国王に仕え、現在のタイ南部ナコンシータマラートの知事にまで出世した人物として知られます。

現在の静岡県出身で、立身出世を求めて朱印船に乗ってアユタヤに着き、日本人傭兵団の一員として頭角を現し、スペイン艦隊の二度の侵攻を防いだ功績で、オークヤー・セーナーピムックという官位を授けられました。

山田長政を出世させたソンタム王が死んだ後、長政はシーウォーラウォン(前国王の隠し子で、後の国王プラーサートトーン王)と共同で次の幼い王らを盛り立てようとします。しかしシーウォーラウォンと彼のシンパが王位に就こうと画策し、長政はこれに反対したため、彼は左遷され現在の名コーンシータマラートの知事となりました。

1630年、南部のパタニ王国の軍との戦闘中に脚を負傷するのですが、治療の際に毒入りの軟膏を塗られて死亡しました。

 

27.協和帝(1847年〜1883年)

幽閉中に毒酒を飲まされ死亡

協和帝はベトナムの阮朝の第6代皇帝。

協和帝が即位した1883年、南部トンキンを拠点にしたフランスの北部侵入により、阮朝は清国への支援を打診。翌年清仏戦争が勃発しました。

協和帝は、有力な大臣の阮文祥、尊室説、陳践誠の3名のイエスマンでしかなく、実権を握られていました。しかし戦争がフランス軍が優位に進み、清国軍の敗北で阮朝がフランスの保護国となると、協和帝は陳践誠と結託し、フランスと接近して阮文祥、尊室説を追放しようとしました。

ところが阮文祥に伝え漏れ、協和帝は廃位され、陳践誠は殺害されました。協和帝は王宮内に幽閉され、毒酒を飲まされ38歳で死亡しました。

 

28.光緒帝(1878年~1908年)

権力闘争の中で何者かによって毒殺される

光緒帝は清の第11代皇帝で、即位したのは3歳の時で、実権は叔母の西太后にありました。

当時清は国際的な威信を落としていました。ロシアの東方拡大、日本の朝鮮半島進出、フランスのベトナム進出など、外国により領域圏が奪われつつありました。光緒帝は16歳になった後に親政を開始し、国の変革の必要性を痛感し、康有為、梁啓超らの変法運動に賛同します。

しかし西太后と守旧派は急速な西洋化を懸念すると同時に、自分たちの権力基盤が失われることを恐れ、戊戌の政変で光緒帝と近代化論者を監禁してしまいました。結局光緒帝はずっと監禁され続け、西太后が死ぬ一日前の1908年11月14日に死亡しました。

因は毒殺説と自然死説の両方が存在しますが、毒殺説の方が有力です。西太后が殺害したという説と、袁世凱が毒殺したという説の二つあります。

 

29.ファーラップ(1926年〜1932年)

強すぎる馬の突然の死

ファーラップはニュージーランド生まれの伝説的な競走馬です。

タイ語で「稲妻」を意味し、その名の通りのスピードでニュージーランドとオーストラリアのレースで51戦中37勝。競馬ファンを大いに沸かせました。

ファーラップは1932年に北米に遠征し、メキシコで行われたアグア・カリエンテ・ハンディキャップをレコードタイムで制覇しました。ところが、12日後にファーラップは急死しました。

その突然すぎる死に加え、体からは砒素が検出されたことから、その強さをやっかんだ何者か、例えばギャンブルを主宰するマフィアなど、が毒殺したのではと語られるようになりました。公式には疝痛(せんつう)が原因と発表されていますが、現在でも死因は何かについて議論がされています。

 

30. ブロンディ(1941年〜1945年)

ヒトラーが飲む青酸カリの実験台にされる

ブロンディはヒトラーが飼っていたジャーマンシェパードのメスです。

1941年にマルティン・ボルマンから子犬として贈られた犬で、ヒトラーは大変気に入り、常に自分のそばに置き、1945年1月16日に帝国総統府の庭の地下にあるフューラーバンカーに移った後も、地下で飼い続けていました。

1945年4月29日、ヒトラーはムッソリーニがパルチザンの手によって処刑されたことを知ると、自分とエヴァ・ブラウンはそのようなことがないようにとハインリヒ・ヒムラーの親衛隊から青酸カリのカプセルを入手しました。ヒトラーはこれが本当に効くのかどうか、ヴェルナー・ハーゼ博士に命じてブロンディに試用させました。ブロンディはその死亡した。

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まとめ

毒殺というと食べる物に密かに混ぜ込むというケースがポピュラーですが、刀や矢に毒を塗る、薬に毒を混ぜるといったやり方も見られました。また毒キノコというのも興味深いです。

あとこれらの毒殺の知識は知識として楽しむだけのものにして、実践しないでいただきますよう、お願い申し上げます。

 

参考サイト

"Socrates, Greek philosopher" Britannica

"Artaxerxes III, king of Persia" Britannica

"Drusus Julius Caesar, Roman consul" Britannica

"Claudius, Roman emperor" Britannica

"ʿAlī, Muslim caliph"  Britannica

"ʿUmar II, Umayyad caliph" Britannica

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"Baldwin III, king of Jerusalem" Britannica

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Hiệp Hoà - Nguyễn Phúc Hồng Dật - Người Kể Sử

"明朝开国大将李文忠被毒死,是朱元璋授意的吗?" 新浪新闻

"Death of Phar Lap" NEW ZEALAND HISTORY

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