国のトップの人たちも食あたりで死んでいた?
徳川家康の死因が「鯛の天ぷら」であるという逸話は有名です。
実際に死の直前に揚げた鯛を食べたのは事実ですが、鯛にあたって死んだということではなく、もともと胃がんを患っていたと考えられています。
今回の記事は「食中毒で死んだ人物」ですが、全員が食あたりで死んだ人というわけではないと思います。中には家康のような間接的なケースもあれば、食中毒に見せかけて毒を盛られて殺されたケースもあるかもしれません。
その点をお含みいただきご覧ください。
1.イングラド王ヘンリー1世
ヤツメウナギの食べ過ぎで死亡?
ヘンリー1世はノルマン・コンクエストを成し遂げたウィリアム1世の末子。
彼は憲章「マグナ・カルタ」を発表し、気まぐれな税金や教会収入の没収などの悪行をなくすことを宣言しました。また、アングロサクソン系王家の血を引くスコットランドの王女マチルダと結婚し、スコットランド人との平和的関係とイングランドからの支援の基盤を確立しています。
彼の統治下で、父が作ったアングロ・ノルマン国家の統一という事業が達成されました。カリスマ王による個人的な君主制から、官僚制国家へと大きな前進し、ノルマン人の拡張主義から統合と内政への重視をしたのも彼の功績です。
さて、ヘンリー1世の死因は、ヤツメウナギの食べ過ぎという説があります。ヤツメウナギはウナギという名称がついていますが、ウナギとは異なる属で、一般的な魚類とも異なる特性を持つ古代生物の生き残りです。
ヤツメウナギはビタミンAを豊富に含んでいるのですが、ビタミンAは過剰摂取をすると腹痛や吐き気をもたらすことがあります。
ヘンリー1世はヤツメウナギの料理が大好きでよく食べていたらしく、食べ過ぎで死んだと信じられています。しかし、歴史家は彼は敗血症で死んだと考えているようです。
2. スウェーデン王アドルフ・フレドリク
菓子パンを14人前食べ消化不良で死亡
アドルフ・フレドリクはスウェーデンのホルシュタイン=ゴットルプ王朝の初代国王。
弟はオルデンブルグ公、妹の娘は後のロシア皇帝エカチェリーナ2世、従兄弟はその夫のピョートル3世です。
在位中の権力の大部分は議会(Riksdag)にあり、在任当時は与党ハッタナ党に全てを牛耳られ、国王派お飾りに過ぎませんでした。彼は二度にわたって議会の支配から逃れようと試み、最初の試み(1756年)は失敗するも、2度目の試み(1768-69年)では、息子グスタフの援助により、ハッタナ党を失脚させメッソナ党を政権に就かせました。
しかしハッタナ党とメッソナ党の対立抗争は激しさを増し、王権は回復せずにスウェーデンは混乱の時代を脱せなかったのがアドルフ・フレドリクの時代です。
彼は大食漢で、1771年2月12日の夕食で、ロブスター、キャビア、ザワークラウト、燻製ニシン、シャンパンを食った後、スウェーデン伝統のデザートであるヘートヴェッグを14人前食べ、消化不良を起こし、死亡しました。
3. ローマ皇帝ルキウス・ウェルス
戦場から帰宅し食中毒の症状で死亡
リキウス・ウェルスはさほど有名な人物ではありませんが、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの共同皇帝だった人物と言われたらピンとくるかもしれません。ただし治世はわずか8年間です。
五賢帝の一人アントニヌス・ピウスは、先代皇帝ハドリアヌスから、従兄弟の息子ルキウス・コンモドゥスと甥のマルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルスを相続人とするよう命令されていました。
皇帝職に就いた後、ルキウス・コンモドゥスはルキウス・ウェルスを名乗るようになりました。彼の短い治世での最大の功績は、162年から166年にかけてのアルメニアとメソポタミアにおけるパルティアの征服が挙げられます。
167年または168年、ウェルスはマルクス・アウレリウスとともにパンノニア地方でマルコマンニ族と戦うも、帰路に食中毒にかかって死亡しました。別の説だと脳卒中とも言われます。
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4. 朝鮮・景宗
ケジャンと柿を食べて死亡
景宗は朝鮮20代国王。
彼の治世では、官僚派閥では老論派が権力を握っており、景宗は子を作る能力がないこともあって、異母弟の延礽君を次の国王に据えました。しかし老論派の一部が景宗の殺害を企てていたことが明らかになり、派閥は非難を浴びて没落。代わりに少論派が実権を握りました。
景宗の死にはいくつかの説があり、最も有名なものが当時の医学で「食い合わせが悪い」とされていたケジャン(ワタリガニの塩漬け)と柿を食べたため死んだというもの。
老論派によって暗殺されたという説もあります。
5. 徳川綱誠
草イチゴで食あたりし死亡
徳川綱誠は江戸時代の尾張藩第三代藩主。
初代藩主・徳川義直の『敬公御徳義』を撰述したり、『尾張風土記』の編纂に着手するなど、特に文化活動に功績を残しました。
死因は草イチゴを食べての食あたりであると言われますが、詳細は不明です。
6. ブローニュ伯ウスタシュ4世
ウナギを詰まらせて死亡
ウスタシュ4世はイングランド唯一のブロワ朝の国王スティーヴンとマチルダの長男で、ブローニュ伯。
この時代は、父のスティーヴンとその姉のマティルダ一派との間で内戦が発生していた時期でした。ウスタシュ4世は父スティーヴンの後継者として期待されたものの、若くして死亡。スティーヴンは意気消沈し、マティルダの息子ヘンリ2世が即位し、プランタジネット朝が始まります。
ウスタシュ4世はウナギを喉に詰まらせて死んだという説があります。もし一匹のウナギがイングランドの運命を変えていたのなら大変面白いのですが、確証がありません。
7. ウィンチェスター教区長ウィリアム・ステファンス
牡蠣に当たって死亡
ウィリアム・ステファンスはキリスト教の司祭としてキャリアを積み、1894年にウィンチェスター教区長に指名され、死ぬまでその職にあった人です。
彼は私財を投じ、ミッド・ラヴァント教会やウールブディング聖堂の再建、ウィンチェスター大聖堂の屋根の修理にも貢献し、篤志家としても厚い人望がありました。
1902年、ステファンスはウィンチェスターで開かれた市長の宴会に出席し、そこで牡蠣を食しました。ところが出された牡蠣に問題があり、出席者の多くが食中毒に。ステファンスも腸チフスにかかり、宴会から6週間後に死亡しました。
8. アメリカ合衆国大統領ザカリー・テイラー
暑い日にさくらんぼと牛乳を摂りすぎて死亡
ザカリー・テイラーはアメリカ合衆国第12代大統領。在職期間は1年4ヶ月に過ぎず、在職中に死去しています。
大統領の前は軍人で、米英戦争、インディアン戦争、米墨戦争に従軍し、特にインディアン征服に功績があり、少将にまで昇進しました。
ホイッグ党から大統領選に出馬し当選。大統領としては、クレイトン=ブルワー条約の批准を除けばほとんど成果を上げることができず、当時最大の議論の的だった奴隷制についても特に政治的決断をすることはありませんでした。
1850年7月4日、この日は暑かったのか、テイラーはさくらんぼと牛乳を大量に摂取し、消化不良で死亡しました。
彼の死後、フィルモア副大統領が大統領に就任し、テイラーの任期を全うしました。
9. ローマ教皇クレメンス7世
毒キノコによる中毒で死去?
ローマ教皇クレメンス7世の時代は宗教改革と関連する宗教戦争の嵐が欧州を巻き込んでいる時代でした。宗教的混乱に対し、クレメンス7世は何も対応ができなかったと評価されています。
イタリア半島をめぐるフランス王フランソア1世と神聖ローマ皇帝カール5世の対立では、クレメンス7世はフランソア1世に味方しコニャック同盟を設立。カールのローマ略奪を招き、クレメンス7世はローマ郊外のサンタンジェロ城に避難しなくてはなりませんでした。教皇の権威の失墜で、イギリス王ヘンリ8世は妻キャサリンとの離婚を承認するよう要求。このヘンリ8世の離婚騒動がきっかけでイギリスはカトリック教会から離脱し、独自の英国国教会を設立するに至ります。
クレメンス7世の死は「胃の不調」とされていますが、具体的な理由はよくわかっていません。伝記作家エマニュエル・ロドカナチは、毒キノコによる中毒であると書いています。
10. ローマ教皇ハドリアヌス4世
ワインとハエを一緒に飲んで死亡
ハドリアヌス4世はイングランド出身の唯一の教皇として知られます。
イタリア半島の政治をめぐって皇帝・国王と対立し、1155年にフリードリヒ1世に帝冠を授けるも南イタリアのノルマンに対する政策をめぐって対立し皇帝に破門を宣言。シチリア王ギヨーム1世の軍事侵攻で教皇領を脅かした時にもまた破門を宣言しています。
ハドリアヌス4世は1159年9月1日に死亡するのですが、その原因はよくわかっていません。一説によると、ワインにとまったハエを喉に詰まらせて急死したとされています。この説に疑問を呈する人は、扁桃腺の炎症で死んだとしています。
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まとめ
昔のことなので何が原因で死んだかの確かさの判断は難しいのですが、何か不可思議な死を遂げた時に食べ物が原因と言われがちだったのだろうというのは、これらの事例を見るとよくわかります。
食通で有名だった北大路魯山人は淡水魚を食べて寄生虫にやられて死んだそうですが、左右の者に十分に食べるものに気を使われていたはずの人たちが食中毒を起こすということは、よっぽど本人が食い物に強い意志を持っていたのかもしれません。
参考サイト
"Henry I king of England" Britannica
"Adolf Frederick king of Sweden"Britannica
"Lucius Verus Roman emperor" Britannica
"Eustace IV English count" Britannica
William Stephens (Dean of Winchester) - Wikipedia