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ノルマン人の南イタリア征服 -ノルマン朝シチリア王国の成立-

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南イタリアの支配者となったヴァイキングの末裔たち

西ローマ帝国崩壊後、現在の西ヨーロッパと北アフリカはゲルマン系民族によって大部分が占領されました。

イタリア半島ではオドアケルの王国を廃した東ゴート王国が建国されましたが、東ローマ帝国によって倒され再び皇帝の下に再統一されました。しかし6世紀半ばにロンゴバルド族が北から侵入してロンゴバルド王国を築きますが、彼らはイタリア半島を統一できず、北イタリアとスポレート公国、ベネヴェント公国を支配しました。一方で東ローマ帝国はシチリアやカラブリアをはじめ、断片的な領土を支配しました。

その後、ロンゴバルドと東ローマ帝国の領土からは都市国家や公国が分裂していきます。このような複数の勢力が対立する政治的状況が、北方のノルマン人が南イタリアに地盤を築く機会を提供することになります。ノルマンディからやってきたロベール・ギスカールや弟のロジェール一世、息子のロジェール二世らが、武力と政治力を背景に南イタリアを統一し、ノルマン朝シチリア王国を開いていきます。

 

1. 南イタリアの分裂とノルマン人の進出

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上記の地図にある通り、南イタリアは1,000年ごろは複数の政治勢力によって分割されていました。大きく勢力図は、ロンゴバルド系侯国、ビザンツ帝国とビザンツ系侯国、イスラム教徒のアミールに分かれます。

ロンゴバルド王国はフランク王国のカール大帝の攻撃によって774年に崩壊。その後ベネヴェント公国が後継を名乗るも一世紀あまり後に分裂し、サレルノ侯国、カプア侯国が成立しました。

東ローマ帝国領でも、有力な港湾都市国家であったナポリ、アマルフィ、ガエータがそれぞれ自立して独立しました。また、シチリア島は827年から北アフリカのイスラム教徒による征服を受け、909年にアグラブ朝によって全島が支配されました。948年からはカルブ家のアミールの支配を受け経済的に繁栄を遂げることになります。

このような対立構造のため各政治勢力は覇を競って軍事衝突が続き、傭兵の需要が高まり、勇猛さで知られる北方のノルマン人が傭兵として南イタリアにやってくることになります。

 

 ノルマン人の南イタリア到来

ノルマン人が南イタリアに来るきっかけになった出来事にはいくつかのエピソードがあります。

一つ目が1016年、南イタリアの聖地モンテ・サンタンジェロ を訪れたノルマン人の巡礼団が、ロンゴバルド人の貴族メレスと出会い、対ビザンツ独立闘争に加わるように要請されそれを受けて仲間と共に現在のバーリ付近にやってきた、というもの。

もう一つが999年、聖地巡礼のためノルマン人の一行がサレルノの町に滞在していた時にサラセン海賊の襲撃があり、おびえる町の人を尻目にノルマン人は武器を取って立ち向かって追い返してしまった。感激したサレルノ伯がノルマン人にサレルノに留まるように懇願した、というもの。

もっともこれらは伝説にすぎず、具体的にいつにノルマン人が南イタリアにやってきたかは分かっていません。資料上はっきりしているのは、1071年の春にはノルマン人の一団が南イタリアにいたということだけです。

ノルマン人の故郷であるノルマンディでは、11世紀半ばからノルマンディ公により安定的な体制が構築され始めており、出世コースから外れたり職にあぶれた連中が新天地を求めて南イタリアに渡っていきました

彼らは当初ロンゴバルドの傭兵としてビザンツ帝国軍と戦いますが、当初の雇い主であったロンゴバルド勢力の衰退に伴って自立を余儀なくされました。ノルマン人はレイヌルフという男をリーダーに選び、ロンゴバルドのみならず、ビザンツ勢力にも条件が良ければ仕えるようになり、南イタリア全体で戦争にノルマン人は欠かせなくなっていきました。

 

2. オートヴィル家の南イタリア進出

1025年頃の南イタリアで最も勢いのあった人物はカプア候パンドルフォ四世で、ナポリを奪取したことを皮切りに南イタリアの征服を試みました。諸侯の間で反パンドルフォ四世の動きが強まり、領土を失ったナポリ公セルジオ四世は1030年にノルマン傭兵の頭領レイヌルフに協力を得てナポリを奪取。この功でレイヌルフはアヴェルサの町を与えられアヴェルサ候となり一国一城の主となりました。

アヴェルサにはますますノルマンディからノルマン人がやってくるようになります。その中にいたのが、後に南イタリアを統一するオートヴィル家の男たちです。

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オートヴィル家の歴史は、南イタリアのアヴェルサに移住したタンクレッドから始まります。オートヴィル家のノルマンディでの歴史はよく分かっておらず、いくつかのエピソードはあるものの後世の創作の可能性が高く、いずれにしても大したことない出自であったようです。

出世の見込みのない子だくさんの貧乏騎士タンクレッドは、チャンスを求めて家族を引き連れアヴェルサ伯レイヌルフの配下に入りました。タンクレッドの子ギョーム、ドゥローゴ、オンフロワの兄弟はロンゴバルドの再度のビザンツ反乱で活躍し、ノルマン人たちのリーダーとなって独立。サレルノ伯グァイマーロ四世の支援を得てプーリア伯として認められました。オートヴィル家の兄弟たちはその後も領土を拡大し、アヴェルサ伯に並ぶ実力者に成長します。

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3. ロべール・ギスカールの登場

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1046年、南イタリアにオートヴィル家の若者がやってきました。彼の名はロベール・ギスカール(ロベルト・グイスカルド)。 

タンクレードの息子ですが、ギョームやドゥローゴからみると異母弟で、部下を連れてこられる身分ではなくたった一人で上陸しました。ギスカールとは「狡猾なやつ」というあだ名で、当時の評伝曰はく、彼は知略を働かせ、野心にあふれ、手段を選ばず、背が高くがっしりとしていて腕っぷしは強く、戦ったら誰をも打ち負かし、誰にも従わない誇り高い男だった、ということです。とにかくまあ、スゲー奴だったらしいです。

ロベールはプーリア伯の弟にあたるも領地は与えられなかったので、野盗や略奪業という文字通りの裸一貫からのスタートでした。

 

 若きロベールがやっていたように、立身出世を求めるノルマンの若者がやることと言えば盗賊のようなことで、南イタリアの修道院や町は大きな損害を被っていました。彼らはローマ教皇に助けを求め、教皇レオ九世は皇帝ハインリヒ三世の支持も得て、ノルマン勢力の排除に乗り出しました。教皇側はドイツ兵七〇〇を始め、教皇、北イタリア・南イタリアの諸侯の軍も含めた大軍が侵攻してきました。対するノルマン側は、プーリア伯オンフロワ、弟のロベール・ギスカール、アヴェルサ伯リシャール、トラーニ伯ピエールといったいがみ合っていた者同士が大同団結し、チヴィターテにて教皇軍と衝突。この戦いでノルマン軍は教皇軍を打ち破り、南イタリアでの優位を決定的なものにしました

戦い以降、南イタリアでノルマン人に対する抵抗運動は激減。この戦いで左翼を率いたロベール・ギスカールの名声も高まり、プーリア地方のリーダーとみなされるようになりました。ロベールはまたロンゴバルドの血を引くサレルノ候の妹シケルガイダと結婚し、根強く残るロンゴバルドの勢力をも味方に引き入れることに成功しました。こうしてロベールは南イタリアのノルマン勢力の第一人者に出世しました。

またこの頃ロベールの弟で後に初代シチリア国王ロジェール二世の父ロジェール一世もノルマンディから南イタリアにやってきました。

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ロジェールも無一文で一人でやってきて、兄ロベールのカラブリア征服の手伝いをしながら実力を発揮。ロベールはロジェールがあまりにも優秀であるため、自分の地位が追い落とされかねないと警戒するほどでした。ロジェールはカラブリアでそれなりの地位を得ることに成功しました。

1060年、南イタリアのつま先の町でメッシナ海峡に面するレッジョ・カラブリアがロベール・ギスカールの手に落ちると、さっそくロジェールはシチリア島の征服に乗り出しました。後にノルマン王朝が築かれるシチリア島の征服は、ロジェールが主導で進めていくことになります。

 

4. 兄弟のシチリア島征服

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シチリア島は9世紀から約200年イスラム教との支配下にありましたが統一した権力はなく、各都市のアミールたちが互いに抗争を繰り広げる状態にありました。

1061年、ロジェールは270名の兵を率いてレッジョ・カラブリアの対岸の町メッシーナに上陸。第二陣500名との共同攻撃でメッシーナを陥落させました。

するとカターニアのアミール、イブン・アッスムナが東シチリアの実力者イブン・アルハワースに対抗するために協力を持ちかけてきました。すでにメッシーナに入っていた兄ロベール・ギスカールはこれを受け入れ、軍をアルハワースの本拠地カストロ・ジョヴァンニ(エンナ)に進めて野戦に持ち込みました。この時、イスラム軍は1万5,000、一方でノルマン軍はわずか700。圧倒的な数的不利にも関わらず、ロジェールは敵軍2/3を戦死させる大勝利を得ました。この戦いによってカストロ・ジョバヴァンニはノルマン勢力のものになりました。

続くチェラミの戦いでは、ロジェール率いる500〜600のノルマン軍は、イスラム軍3万を相手に必死に戦い勝利を得ました。まるでアニメのような信じられないほどの無双っぷりです。多少誇張はあるのかもしれませんが、圧倒的にノルマン側の戦力が少ない中での勝利だったのは確実なようです。

▽チェラミの戦い

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エンナとチェラミの圧倒的勝利により、ノルマン勢力の強さがシチリア全土に知れ渡ることになりました。

ロベールとロジェールは1064年、シチリアの中心都市パレルモを攻めるも失敗に終わりました。パレルモには港湾があり物流や補給を支えているも、ロベールやロジェールは海軍を持っておらず、十分な包囲ができなかったのです。ノルマン人といえば海から攻めてくるイメージがありますが、オートヴィル家は陸上の騎士で海は不得手でした。ノルマン人といってもいろいろなタイプがあるのです。

ロベールは7年をかけて艦隊を編成し、とうとう1071年にパレルモを再包囲。対抗するイスラム艦隊はロベール率いるノルマン艦隊の攻撃の前に海の藻屑と消えました。包囲から半年後、ロベールは攻城用のはしごを作らせて総攻撃をかけ、イスラム側の抵抗も激しいものがあったものの、とうとうロベールのノルマン兵が市内に流れ込み、パレルモが陥落しました。ロベールの処置は非常に寛大で、ムスリム市民はこれまでと同様にイスラムの教えを守って暮らせるし、奴隷や財産の略奪もありませんでした。一方で、元々は教会でモスクに改装されていたサンタ・マリア教会が教会の姿に戻され、パレルモ大司教が置かれました。

シチリアの中心パレルモの陥落は、シチリアの主人がムスリムからノルマン人に移ったことを象徴的に表す出来事でした。その後ノルマン人のシチリアの完全征服は20年以上かかるものの、ロベールは教皇ニコラウス二世よりシチリア公に任ぜられ、パレルモの町とメッシナの町の半分、ヴァル・デモーネを直轄領とし、残りの未征服分は弟のロジェールをシチリア伯に任じて征服した暁には支配することを認めました。

ロベールがパレルモ降伏の際に示した寛容な精神は、その後のノルマン人のシチリア支配の中で脈々と受け継がれ、キリスト教とイスラム教が融合する国として発展を遂げていくことになります。

 

5. 教皇との関係

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ノルマン中小勢力の反乱

 1071年4月、ロベール・ギスカールは弟ロジェールの助けも借りつつ、南東イタリア最大の都市バーリの攻略に成功します。バーリはイタリア半島におけるビザンツ勢力の牙城で、これによってビザンツ帝国は決定的にイタリア半島からの影響力を失うことになりました。

 ロベールとロジェールの兄弟の力は南イタリアであまりにも強大になっていたため、伝統的な諸侯による統治秩序を求め中小ノルマン勢力が頻繁に反乱を起こすことになります。首謀者は腹違いの兄オンフロワの息子アベラルドとエルマンノ、トラーニのピエールの息子ピエトロ、そしてカプア候リシャールとジョルダーノ父子といった、かつてチヴィターテで共に戦った仲間とその子供たち。それにビザンツ勢力が加担する。このような反乱はたびたび発生して兄弟を悩ませるも、圧倒的に武力に優れた兄弟はこれらの反乱を毎回鎮圧します。そして家禄取り潰しなどは一切せず、寛容にも歯向かったことを許すのです。毎度毎度許すものだからピンチになれば反乱を起こしてくるのに、また不問にして和解するという「寛容さ」。これがロベールとロジェールの統治の特徴です。

 

グレゴリウス七世との駆け引き

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この当時ローマ教皇に就任した人物がグレゴリウス七世。

ハインリヒ四世と鋭く対立し、「カノッサの屈辱」で教皇の権威を最大にしたと後に評価されることになる人物です。1073年、港湾都市アマルフィはロベールの支配下に入り、ロベールの力が一段と強くなったことにグレゴリウス七世は危機感を覚えました。さらにロベールの兄や甥たちがたびたび教皇領に侵犯して略奪行為を行っていることも教皇を悩ませていました。

しかしグレゴリウス七世には北に皇帝ハインリヒ四世という最大のライバルがおり、もしロベールと決定的に対立すると挟み撃ちにあいかねない。ハインリヒ四世はそうした教皇の状況をよく知っており、ロベールに対し臣下になるように申し出ました。しかしロベールはこれを拒否。あくまで教皇への忠誠を誓います。グレゴリウス七世は大局を見るとしぶしぶロベールの拡張政策に目を瞑らざるを得ませんでした。

その間にもロベールは、1077年に大都市サレルノ、教皇領フェルモを陥落させました。この暴挙にグレゴリウス七世は激怒してロベールを破門にし、教皇の呼びかけに呼応して中小ノルマン諸侯が再度反乱を起こしました。しかしやはりロベールは強かった。反乱は直ちに制圧されました。

グレゴリウス七世は皇帝に対抗するため、このやっかいな男に可能な限り譲歩せざるを得なかったのです。このような状況はノルマン人がさらに南イタリアに安定的な地位を築かせる重要な要素となりました。

 

6. ビザンツ帝国遠征とロベールの死

ビザンツ遠征の失敗

南イタリアをほぼ制圧したロベールは、次にバルカン半島に目を向けました。

足下でたびたび起こる反乱は、イタリア半島への復権を目論むビザンツ勢力によって支援されており、失脚した中小ノルマン勢力はバルカン半島に逃げてビザンツの庇護を受けていました。南イタリアの安定のためにはビザンツを叩く必要があるとロベールは考えました。その先にはローマ帝国の首都たるコンスタンティノープルがある。次の目標にローマ皇帝の座を野心家ロベールが狙ったとしても不思議はありません。

1081年、ロベール率いる1万5,000の兵はアドリア海を渡りました。しかし、ノルマン艦隊は北で控えていたヴェネツィア艦隊の攻撃を受けて半壊。ヴェネツィア優位の状況でデュラキオンのビザンツ守備隊は攻勢をかけ、ノルマン軍はパニックになり一時崩壊寸前に陥りました。これを救ったのはロベールの妻シケルガイタの一喝であったそうです。

「どこまで逃げる気!立ちなさい!そして男らしくしなさい!」

そうして長槍を手にして全速力で逃げる兵たちを追いかけました。この姿を見て我に帰ったノルマン兵は再び戦場に戻り、とうとうデュラキオンの街を包囲・陥落させました。

こうして勢いに乗ったノルマン軍はイリュリア地方全域を征服し、さらに内陸に進軍しようとしていました。ところが、ロベールがバルカン半島に渡っていることを聞きつけた皇帝ハインリヒ四世が軍を率いて南下。グレゴリウス七世はあわててバルカン半島のロベールにローマに来るよう命令します。ロベールはしょうがなく、軍を長男ボエモンドに託してイタリア半島に戻りました。

 

ロベール・ギスカールの死

しかしロベールには兵も資金もなく、すぐにローマに行くことができません。軍を編成するため南イタリアで活動を続け、その間にもハインリヒ四世のローマ包囲は執拗に続きました。皇帝の目的はローマ皇帝の戴冠を教皇から受けること。グレゴリウス七世からすると、自分の権威を認めない皇帝に戴冠をするわけにはいかない。

しかし包囲は長引きローマ市民は篭城に疲れ、強情にサンタンジェロ城に立て篭りロベールの到着を待ち続けるグレゴリウス七世を疎ましく感じるようになりました。篭城三年目の1083年、とうとう枢機卿も彼を見捨て、対立教皇クレメンス三世をラテラノ宮殿に招き、インリヒ四世を帝冠を授けました。満足した皇帝は軍を引き上げてドイツに帰還しました。

ロベールがハインリヒ四世と対決するための大軍をやっと集めてローマに入ったのはその二ヶ月後のこと。ロベールはグレゴリウス七世を裏切ったローマ市に「制裁を加える」として部下に略奪を許可し街に火を放ちました。逃げ出そうとしたものは殺されたり、奴隷に売られたりし、ローマ人はこのような厄災を招いたグレゴリウス七世を心から呪ったと言われます。

グレゴリウス七世はその後ローマから脱出しロベールの本拠地サレルノに落ち延び、この地で死亡しました。現在でもグレゴリウス七世の墓はサレルノ大聖堂にあります。

 さてロベールはその後、体制を立て直し再びギリシア遠征に向かいました。長男ボエモンドはよく戦いマケドニアとテッサリアの大半を制圧するも、1083年にラリッサの戦いで敗北しノルマン勢力はわずかな海岸部分のみを支配するのみとなっていました。ここにロベールが再来したことでノルマン軍は息を吹き返し、ヴェネツィア・ビザンツ連合軍を破ってコルフ島を制圧しました。

ところが1085年に戦場で発生した疫病でロベールは倒れ、そのまま死去しました。

 大将ロベールが死んだことでギリシャ遠征は中止になり、南イタリアのノルマン勢力はその後内乱状態に突入してくことになります。

 

7. ノルマン朝シチリア王国の成立

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ノルマン勢力の分裂

ロベールが死亡した後、これまで彼にたびたび反乱を起こした中小ノルマン諸侯が再び動き始めました。

ロベールの跡を継ぎプーリア公となったのは、シケルガイタとの間に生まれたルッジェーロ・ボルサですが、彼は父ほどの才能がない。一方で異母兄のボエモンドは父に似た才能ある軍人で、反ルッジェーロの旗を上げました。兄弟の衝突に介入したのが、叔父のシチリア伯ロジェール。シチリア東部の要衝シラクサを陥落させたロジェールは、ルッジェーロに圧力をかけてカラブリアを割譲させ、その条件としてボエモンドに圧力をかけました。

ロジェールは武力を背景にしつつ、政治力も駆使しながら確実にシチリアのムスリム支配地域を制覇していき、1091年2月に最後の町ノートも降伏。とうとうシチリア島を統一しました。

 

ロジェール一世の死

長年に渡るイスラム勢力との戦いの中で、ロジェールは武力だけでなく交渉も駆使する老練な政治家に成長していました。

ロジェールの強みは配下のムスリム部隊にありました。ロジェールは支配した地域のキリスト教への改修を強制せず、むしろ多様な人種や宗教が多くいたほうが得である、と考えていました。というのも、教皇とはたびたび敵対関係になってきた歴史があるため、仮に人々がキリスト教徒ばかりだといざという時に教皇に味方して自分に歯向かってくるかもしれないと考えたわけです。その点イスラム教徒は教皇に対して何の感情もないため安全でした。

さらに当時はイスラム世界はキリスト教世界に比べて文化面でも経済面でも先進的であり、北アフリカとの関係を考えるとムスリムを抱えた方が都合がよかったのです。ロジェールのこのような寛容な方針は後のシチリア王国の基礎的な方針となっていきます。ロジェールは1101年に死亡。彼の息子ロジェール二世がノルマン諸侯の統一を成し遂げてることになります。

一方でルッジェーロは、父がたびたび制圧していた反乱を抑えられず苦しみながら1111年に死亡しました。

 

ロジェール二世の登場

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Photo by Matthias Süßen

ロジェールとルッジェーロが相次いで死亡したことで中小ノルマン諸侯が半ば独立した存在になり、プーリア公を継いだグリエルモも父ルッジェーロに引き続き悩まされることになります。ここで実力を発揮したのがロジェール一世の息子ロジェール二世。ロジェール二世は体が弱く能力にも乏しいグリエルモと交渉し、プーリア公の位を譲ってもらう合意をとりつけたのです。

この交渉の後にグリエルモは夭折。ロジェール二世はプーリア公を名乗るも、口約束だったので他のノルマン諸侯は納得しません。教皇ホノリウス二世もロベールの再来を恐れノルマン勢力の分裂を望み、反ロジェール連合を結成して対抗しようとしました。しかし中小勢力は数ばかり多くとてもロジェール二世の相手ではないことがすぐに明らかになりました。船頭多くして船進まず、というやつです。

ホノリウス二世は打つ手がなくなり、正式にロジェール二世をシチリアとプーリア、カラブリアを領有することが認めました。ルッジェーロの時代にカプア候はプーリア公に従うことになっていたので、南イタリアのノルマン勢力はとうとう一人の君主の下に統合されることになりました。

1130年9月にシチリアのパレルモでルッジェーロ二世は国王としての戴冠を受け、ここにノルマン朝シチリア王国が成立することになります。 

しかしその後も10年はノルマン諸侯による反乱は続き、王国の法制度などが整備され国としての形が確立するのは1140年ごろのことになります。

 

地中海王国シチリア

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Work by Nuovopitagorico

ルッジェーロ二世は積極的な海外進出にも打って出ました。現在の北アフリカのイフリキーヤ地方に遠征し、トリポリやチュニス、カイラワンといった都市を占領し、南イタリアとの経済との連携強化を図りました。これらの地域経由でアフリカ産の金が南イタリアに流入し、大きな富を得ることに成功しました。

王国が安定するとルッジェーロ二世はヨーロッパ世界とイスラム世界から多くの学者を呼び寄せたため、シチリア王国には高い水準の文化が花開き、後に「十一世期ルネサンス」と呼ばれる文化復興の中心地となりました。中でも特に著名なものが地理学者イドリーシーがまとめた「ルッジェーロ王の書」で、この書では当時最先端のイスラム世界の地理学の成果がまとめられました。この書は後世に大きな影響を与えた他、現在でも当時の地理概念を知る上で第一級の資料となっています。

また、イスラムの大旅行家イブン・ジュバイルは、メッカ巡礼の途中にグリエルモ二世統治下のシチリア王国に立ち寄り、王が医者や占星術師を保護し、巨額の生活費を支給していると書き記しています。

 

8. ルッジェーロ二世後のシチリア王国

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「悪王」グリエルモ一世

ルッジェーロ二世死後に王位に就いたのはグリエルモ一世ですが、この人は「悪王」というあだ名の通り政治にあまり関心がなくほとんど側近たちに任せ、自分はパレルモの宮廷で宮女と遊ぶ方を好みました。

 政治を顧みない国王の登場で王の権威は低下。諸外国では、ドイツでは皇帝フリードリヒ一世バルバロッサが台頭。ビザンツ帝国ではマヌエル一世コムネノスがイタリア半島の領土回復を目論んで軍を仕向けてきて、これに乗じ王国各地で諸侯の反乱が相次ぎました。グリエルモ一世はとうとう重い腰を上げ、自ら討伐軍を組織しロベール・ギスカールさながらの手腕で瞬く間に反乱軍を鎮圧してしまいました。しかし反乱鎮圧後はまた宮廷にこもってしまいます。

ところが5年後にまた反乱が発生。今度はパレルモの宮廷までが襲撃され略奪の対象となり、国王の息子ルッジェーロも戦災で死亡。ここにおいてようやく重い腰を上げたグリエルモ一世は、前回と同じく見事な手腕で反乱軍を鎮圧してみせました。

やればできるのにやる気がない国王だったのです。

今回の反乱鎮圧後もグリエルモ一世は再度宮廷に引きこもって快楽に満ちた生活を過ごし、1166年に46歳で死亡しました。

 

「善王」グリエルモ二世

 グリエルモ一世の死後に王位に就いたのは、三男のグリエルモ二世。上の二人は早くに亡くなっていました。王位に就いたときはわずか13歳で、摂政にはナバラ王国から嫁いだ母マルゲリータが就きました。

1171年にグリエルモ二世は成人し親政を開始しました。彼には父のような軍事的な才能はなかったのですが、大規模な反乱が起こらなったのは幸運なことでした。グリエルモ二世の時代は王国が安定し繁栄した最盛期の時代でした。グリエルモ二世は王国内で話される言語はすべて話すことができ、「おのおの自分が崇拝する神、信じる神に加護を祈願せよ」と言い信教の自由を完全に保証しました。

グリエルモ二世の時代には修道院や教会に多額の寄進がなされ、現代に残るモンレアーレ修道院やパレルモ大聖堂など豪勢な建造物が建築されました。

▽モンレアーレ修道院

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Photo by Berthold Werner

 グリエルモ二世の時代は概して王国内は安定していたものの、国王は嫡子を残さずに1189年に死亡。

次の国王候補には三人の名前が挙がりました。ルッジェーロ二世の三番目の妻ベアトリーチェとの間の娘コスタンツェと神聖ローマ皇帝ハインリヒ六世、次いでルッジェーロ二世の庶子の出でプーリア公ルッジェーロの子のレッチェ伯タンクレディ、最後にアンドリア伯ルッジェーロ。

諸侯の多くの支持を集めたタンクレディが第四代の王位に就くも、内乱や第三回十字軍のシチリア滞留による混乱、そして皇帝ハインリヒ六世の南下に悩まされた挙句、病に倒れて死亡。国王となったのは幼子グリエルモ三世、摂政には母シビッラが就きましたが、皇帝ハインリヒ六世は直ちに南下しシチリア王国の諸都市を陥落させていき、とうとう1194年にパレルモが陥落。ハインリヒ六世にシチリア王位を禅譲しました。こうしてノルマン朝シチリア王国は崩壊し、ホーエンシュタウフェン家による南イタリア支配が始まることになります。

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まとめ

 ノルマン人の南イタリア覇権はわずかな期間に終わり、その後ノルマン人は他の封建諸侯と文化的に同化しその特異性はイタリアの地に同化していきます。

しかし、南イタリアのノルマン人が見せた「寛容の精神」はその後、大きく歴史を動かしました。

ちなみに、ハインリヒ六世の妻でグリエルモ二世の娘コスタンツェは1194年12月に子を産み、その子が神聖ローマ帝国皇帝・シチリア王国国王であるフリードリヒ二世(フェデリコ二世)になります。

この人は第6回十字軍において、戦闘をほとんどおこなわずに聖地の回復に成功したとして、当時は酷評されるも、現在は大変に評価される人物です。フリードリヒ二世はイスラム文化が色濃く残るシチリア王国で生まれ育ち、ロベール・ギスカール以来のノルマンの「寛容の精神」の伝統を引き継いでいました。

文化・人種がセンシティブなこのご時世、人はあるままにあってそれぞれの良さを活かすべきという、中世イタリア・ノルマン人の知恵を活かせないものだろうかと思います。

 

 

 参考文献

「岩波講座 世界歴史7」地中海のノルマン人 高山博

ノルマン騎士の地中海興亡史 山辺規子 白水社 2009年4月25日印刷 2009年5月5日発行