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チェコ最強の武将ヤン・ジシュカとフス戦争

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農民軍を率いて十字軍を何度も撃破した伝説的なチェコの武将

「世界史で最強と思う将軍は?」 

 という質問を歴史ファンにした時に、もしかしたらヤン・ジシュカの名前を挙げる人もいるかもしれません。

 1419年から15年間続いたフス戦争において、初期のフス派を率いて十字軍の攻撃を何度もはねのけたのがヤン・ジシュカです。彼の活躍によってフス派はチェコ独自の教義としてチェコ人のアイデンティティとなっていくため、この人がいなければもしかしたら、現在チェコという国が成立しなかったかもしれないほどの重要人物でもあります。

 話はヤン・フスが異端審問の末に殺害された1415年7月以前に遡ります。

 

1. フス派運動の始まり

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ヤン・フスの登場

チェコ出身の神聖ローマ皇帝カレル4世(1316-1378)は、金印勅書の発布やプラハ大学の創立など近代的改革を行った男で、開明的な君主の下チェコの都プラハは黄金時代を迎えました。

カレル4世の死後、息子で腹違いの兄弟ヴァーツラフとジクムントはそれぞれ神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王、ハンガリー王につきますが、偉大すぎる父の統治の後で弛緩した帝国は、強力な大貴族を抑えることができずヴァーツラフ4世の元で分離傾向を取っていくことになります。またヴァーツラフ4世自身が自領であるボヘミアの統治に注力してチェコ人の政治的・経済的な立場が改善したこともあり、チェコ人がさらに自分たちの利益や権利の拡大を図ったのがフス戦争の一つの側面でありました

世界史の授業ではフスは「免罪符に憤って教会に歯向かって死刑になった」と言われますが状況はさほど単純でもなかったようです。当時のボヘミアでは上流部分は全てドイツ人によって支配されていたものの、チェコ人がカレル4世の元で民族としての自覚を強めたことがきっかけで、チェコ語の復権やチェコ人の上流階級への積極的な進出が進んでいました

国王ヴァーツラフ4世もチェコ人の権利拡大を積極的に進めましたが、上流階級を支配するドイツ系の反発は根強く、当時のキリスト教会の大問題であった大シスマ(大分裂)ではヴァーツラフ4世はプラハ大学の団体に中立を命じますが、ドイツ系の団体は教皇グレゴリウス12世を支持し、中立をしたのはチェコ人の団体だけでした。ヴァーツラフ4世は反発しドイツ系団体の排除を進め、プラハ大学はチェコ人が支配することになりフスが学長となりました。フスはチェコ語で説教を行い、チェコ人の絶対的な支持を得るようになっていきます。

 

フスの処刑

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しかし、1411年に教皇グレゴリウス12世に相対する教皇ヨハネス23世が、グレゴリウス12世の強力なパトロンであるナポリ王ラディズラーオ1世を攻撃するための費用として各地で「免罪符」を売り出し始めると、フスは免罪符に反対し教皇ヨハネス23世の怒りを買って破門されてしまいます。

フスはコジー・フラーデクの城の引きこもると著作に専念。フスは1412年に論文を発表し、教皇が十字軍を起こす権利はなく、ましてやカネで贖罪を与えるのはもってのほかであると主張しました。チェコの人々はフスの主張を圧倒的に支持しますが、これによりフスは教会から完全に敵視されてしまいます。

1414年、フスは大シスマを解消するための公会議であるコンスタンツ公会議に召喚されます。皇帝ジクムントの発行した身分保障書を携えていったのですが、まもなく逮捕されてしまい、8ヶ月の異端審問の末焚刑にかけられ、遺灰はライン川に遺棄されてしまいました。

チェコを代表する知識人がだまし討ちで殺されたこの事件にチェコ国内は騒然となり、ボヘミアとモラヴィアの貴族452名は連名で皇帝ジクムントに抗議書を送り非難しました。

さらにこのチェコの反カトリックを前進させることになるのが、両形色説の登場です。

 

2. 両形色説とヤン・ジシュカ

1414年から両形色説(ウトラキスムス)が発生しチェコ人の間に普及することになります。これはミサの時に俗人の聖体拝受をするのに「パンと葡萄酒」の両方を使うというもの。カトリックでは俗人の聖体拝受は「パンのみ」で、聖職者のみが「パンと葡萄酒」の聖体拝受を許されていましたが、チェコでは聖職者と俗人との間を区別しない行為が広く受け入れられました。

ヴァーツラフ4世は両形色説を認め普及を図りますが、国外からの圧力に屈して両形色説の人々を排除。彼らは山の上に登って僧の説教を受け聖体拝受をするようになりました。僧は必要であれば武器をとって自分たちの信仰を守るように説いたため、両形色説の人々の武装化が進んでいきます。

そんな時、ヴァーツラフ4世はプラハの新市街の市参事会員をすべてカトリックに置き換える政策を実施。

両形色説の人々は激怒し、プラハ市役所におしかけ参事会員のメンバーを窓から放り投げ、下で待ち構えていた民衆は参事会員を槍や剣で受けて惨殺しました。これが名高いプラハ窓外放出事件です。

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この事件の知らせを聞き、ヴァーツラフ4世は怒りのあまり脳卒中を起こしまもなく死亡したと言われています。

兄の死亡によって弟のジクムントがボヘミア王となりますが、チェコの人々はジクムントがフスにした仕打ちを憎んでおり、彼を国王と認めませんでした。一方でジクムントもフス派を憎悪しており、十字軍を派遣してフス派の殲滅を図ります。

これが足掛け15年に及ぶフス戦争の始まりです。

この戦争の初期においてフス派を率いて大活躍するのがヤン・ジシュカです。

 

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ヤン・ジシュカの半生

ヤン・ジシュカは 1360年ごろ、ボヘミア南部トロツノフの地方領主の息子として生まれました。彼の若い時の情報は断片的にしか分かっていません。ボヘミアの大領主インドジフ・ズ・ロジュンベルカと対立して争ったものの敗れて領地を失い、ポーランド王の傭兵となってタンネンベルグ(グルンヴァルド)でドイツ騎士団と戦いました。ジシュカは獅子奮迅の活躍をするも片目を失ったと言われています。

その後プラハに戻ったヤン・ジシュカはヴァーツラフ4世の妃ジョフィエの近侍となり、宮廷の宮仕えをしていました。彼が本格的にフス派運動のリーダーとして活躍するのは、プラハ窓外放出事件以降のことです。

ヴァーツラフ4世が憤死した後、妃ジョフィエが共同統治者となりますが、彼女はカトリックと両形色説派の対立を鎮めることができず何度か内乱が発生。ジシュカはやがて宮廷を捨てて両形色説派の側につき、戦いの指揮をとりやがてリーダーとして台頭していきました。

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3. フス派農民軍とその秘密兵器

1419年11月にカトリックと両形色説派の穏健派との間に和解が成立すると、ジシュカと強硬派は和解に反対してプルゼニュに拠点を移して町を統治します。しかし翌年にはカトリックの攻撃に抗しきれずにターボルに逃避。この街は街全体が防壁に守られた要塞都市で、両形色説派の強硬派の市民が信仰を維持するために集団で移住してきていました。

ジシュカの軍は女子供も含めた農民兵400人足らずしかおらず、一方敵のカトリック軍は重装備騎兵団からなる2,000の軍勢でした。ジシュカ率いる農民軍はスドムニュシュで敵軍と戦い勝利を納めてしまいます。

ジシュカの軍の大半は戦いの訓練を受けていない農民だったため、ジュシュカは重装歩兵騎兵の突破力を食い止め、武器の扱い方に慣れていない農民兵が効率的に敵を屠る方法を考え出していました。

秘密兵器の一つが「ワゲンブルグ(戦車)」です。

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もともとは農村で使う荷馬車ですが、ジシュカはこれを戦争用に改造。武装した農民兵を中に入れて戦車の中から攻撃させました。戦車隊は隊列を組んで進み、敵の攻撃にあうと車輪と車輪を組み合わせて即席の要塞とし、騎馬の突破を無効化しました。

ジュシュカは農民が効果的に敵を倒せるような武器として「からざお」に注目しました。竿の先に短い棒をつけたもので、もともとは農民が脱穀のために使っていたものです。ジュシュカはこれを武器として採用。農民たちは使い慣れたからざおを操って、竿の先の棒を敵に打ち付けて効果的に敵を倒しました。ジュシュカはまた鉄砲にも注目し、農民に鉄砲訓練を施して鉄砲隊を組織化し、戦車の中から騎馬に向けて射撃させ効果をあげました

 フス派の軍は規律が厳しく集団行動を守り、合理的で近代的な戦闘集団に組織化されていました。

 

4. フス派軍の快進撃

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ジシュカはターボルを拠点に近隣の町の征服に乗り出します。

一方プラハでは、カトリックと両形色説派の和平が1420年4月に破れ、皇帝ジクムントはフス派に対する十字軍を編成しボヘミアに迫りました。プラハは敵対していたターボルのジシュカに助けを求め、ジシュカは9,000の兵を率いてプラハに入ります。十字軍は2週間に渡ってプラハを包囲し、7月14日にヴィートコフの丘でジュシュカ率いるフス派軍と戦いますが、10万の皇帝軍は1万のフス派軍に敗れてしまいます

第1回フス派十字軍は軍事的にフス派の勝利に終わります。皇帝ジクムントは空位になっていたボヘミア王を自分の手で戴冠して面目を守り、十字軍を解散させました。

勢いに乗るジシュカの軍はカトリック派が支配するボヘミア諸都市に遠征し次々と制圧。1421年の始めまでに西ボヘミアはジシュカの軍によって支配されました。南ボヘミアでは大領主ズ・ロジュンベルカと和平協定を結び、東ボヘミアは皇帝ジクムントのカトリック勢力が根強かったのですが、ある時は武力である時は交渉で着実に制圧していきました。

 

4. ヤン・ジシュカの死とフス戦争の集結

 1421年6月、チャースラフでボヘミア議会が開かれ、「プラハ4か条」が決議されました。この4か条は以下の通り。

  1. 神の言葉を説く自由
  2. 両形色による聖体拝受の自由
  3. 俗人による聖職者の世俗財産および収入の没収
  4. 正当な権威者による大罪の懲罰および根絶

さらに同じ議会で皇帝ジクムントのボヘミア王位が廃絶され、ボヘミアは事実上の「独立共和国」となります。

ジシュカは議会が終わると再度遠征を開始し、プルゼニュ地方のラビー城を攻めますが、この時に敵の矢が見える目に刺さり、とうとう全盲となってしまいました。

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ジシュカは副司令官たちに戦場の地形や戦いの様子を語らせ、その情報を元に指揮をしたと言われています。

皇帝ジクムントは1421年8月から第2回、1422年10月から第3回と2回の追加のフス派十字軍を送りますが、これもフス派軍によって打ち負かされました。ここでジシュカは初の国外遠征に打って出、1423年9月にモラヴィアを経てハンガリー平原に攻め込みました。初めはジシュカの軍は皇帝ジクムントの軍を蹴散らすも、反撃の体制を整えた皇帝軍の抵抗に苦戦するようになり、泥沼化する前にボヘミアに撤退しました。

一方、プラハの両形色派の穏健派はカトリックと和解して、皇帝軍と共にターボルのジシュカ軍を攻めました。しかし1424年6月にマレショフの地で丘の上から石を満載した戦車を落とす戦術で同盟軍を打ち破り、プラハは降参して再度ターボルとの同盟を維持することになりました。

ジシュカは再度プラハの軍を連れてモラヴィア遠征に向かうも、途中でペストにかかり1424年11月11日に死亡しました。

ヤン・ジシュカはその生涯で数多くの戦いをこなし、一度たりとも負けたことがありませんでした。ただし、ジシュカの軍は戦車隊は機動力が遅いこともあり防衛戦が主で、ハンガリー遠征という例外はありますが、ボヘミアからその先に発展的な展開をすることはなかったという条件の下での不敗ではあります。

 

ターボルの陥落とフス戦争の終結

ジシュカ亡き後、ターボル軍は自分たちのことを「シロトツィ(孤児)」と呼んでジシュカの意志を引き継ぎ戦いを継続します。

ターボル軍を率いたのはジシュカの右腕だった大プロコプ(Prokop the Great)という男です。

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大プロコプはジシュカの守勢的方針から一転して攻勢に転じ、1428年からザクセンやバイエルン、ニュルンベルクまで遠征しました。1432年の遠征では、ブランデンブルクからベルリン、ポーランド、バルト海まで展開し、数多くのカトリックの町や修道院、教会を破壊して略奪し、莫大な戦利品をボヘミアに持ち帰りました。

この間にも1427年に第4回、1431年に第5回フス派十字軍が派遣されますが、傭兵の集まりは歴戦のフス派軍の相手ではなく、戦果なく解散しています。

戦いが続く一方でフス派とカトリックの間の交渉は1429年から続き、プラハ4か条を認めるようにフス派は主張しますがカトリックは認めず、膠着状態が続いていました。プラハの穏健派はターボルの強硬派に対しプラハ4か条の妥協を求めるもターボルは一歩も引かず、とうとうプラハとターボルが決定的に分裂、プラハはカトリックと同盟してターボルと衝突し、1434年5月30日のリパニの戦いで司令官の大プロコプを始め歴戦の戦士が多数死亡し、ターボル軍は壊滅しました

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ここにおいてようやくフス戦争は終結します。

皇帝ジクムントはボヘミア王に返り咲き、プラハ4か条は骨抜きにされました。

しかし両形色派は異端ではなくカトリックの一員とみなされ、聖体拝受にパンと葡萄酒を使う権利が公式に認められました。 

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まとめ

フス戦争により両形色派はチェコ独自の教義として、1620年にチェコが独立を失うまで存続することになります。

フス派によるカトリックへの壮絶な抵抗の歴史と不敗将軍ヤン・ジシュカの物語は文学や詩で長く語り継がれ、19世紀の民族自決の潮流の中でチェコ民族の再独立の道へと繋がっていくことになります。 

 

参考文献

 チェコの伝説と歴史 アロイス・イラーセク著 浦井康男訳 北海道大学出版

チェコの伝説と歴史

チェコの伝説と歴史