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中世イギリスで活躍した悪党たち

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イギリスの裏社会で暗躍した佞臣やヤクザ者

中世イギリスはイングランドを中心に進行するも、スコットランド、ウェールズ、アイルランドをはじめとした国がまだ強く、国王の力も不安定で諸侯の力が強く、また大陸との関係もまだ曖昧な部分があり、統一的な権力や宗教、文化・文脈が行き渡るのはまだまだ先といった状態でした。そんな中で法の隙を突いて様々な悪党たちが暗躍しました。

今回は中世イギリスで活動した悪党たちをピックアップして紹介します。

 

1. マルコム・ムサード

マルコム・ムサードはエドワード2世(在位1284年~1327年)、の時代に活動した悪名高いギャングです。

マルコムはウスターシャー地方の小領主でしたが、争いごとや乱暴ごとが好きな男だったようで、1304年には部下と共にウスターシャーのウェストン・サベッジの牧師館を弓矢で攻撃しています。立ち退きに不満を持つ元牧師から金をもらってのことでした。

1300年代初頭、エドワード1世の治世の終わりかエドワード2世の治世のある時期に出された嘆願書には、マルコムとその従者たちがウスターシャーで「多くの重罪、強盗、殺人で起訴されている」が、裁判にかけられないように郡を出て行ったと書かれています。彼がその生涯で行った犯罪は数知れず、部下を率いて村・町や特定の場所を襲い、殺人、窃盗、暴力行為を行いました。さらには1323年マーチャー卿の反乱に協力し、反王室の罪で逮捕されています。

エドワード2世は恋人であるピアーズ・ギャヴィストンやディスペンサー父子など、自分に近い寵臣たちに政治を任せたため議会や諸侯の反発を招き、イングランド政治が動揺しました。マルコムはエドワード2世に忠誠を誓ったことで1326年に釈放され、ウスターシャーで行ったすべての無法行為を恩赦されました。

しかし1327年、エドワード2世の妃イザベラがクーデターを起こし王を退位させると、マルコムは窃盗の罪で逮捕されています。その後彼がいつ放免されたのか不明ですが、少なくともエドワード3世時代には釈放されて領土を回復されているようです。

 

2. ディスペンサー父子

ディスペンサー父子は、初代ウィンチェスター伯ヒュー・ル・ディスペンサー(大ディスンサー)と初代ル・ディスペンサー男爵ヒュー・ル・ディスペンサー(小ディスペンサー)のことで、彼らはエドワード2世の時代に権勢を振るいました。

エドワード2世の恋人で廷臣のピアーズ・ギャヴィストンが殺害された後、反国王派の第2代ランカスター伯トマスが実権を掌握しディスペンサー父子も追放されますが、国王派と反国王派が衝突したバラブリッジの戦いで国王派が勝利したことで、ディスペンサー父子は中央政界に復帰し、エドワード2世の信頼を得てイングランドで最も強力な人物として君臨しました。

エドワード2世はディスペンサー父子の執権を評価して恩賞を数多く授け、それにより彼らは莫大な所領を獲得。政敵の貴族を多数国外追放して所領を没収し、しばしば彼らが勅許状を放棄することに同意するまで投獄しました。

ディスペンサー父子の悪政とそれを放任するエドワード2世への反発が高まり、1326年に王妃イザベラと初代マーチ伯ロジャー・モーティマーが率いる反乱軍がイングランドに上陸すると、反国王・反ディスペンサーの諸侯は彼らを大歓迎します。ディスペンサー父子は捕えられ、大逆罪により首吊り・内臓抉り・四つ裂きで処刑されました。

 

3. コートレル・ギャング

コートレル・ギャングは14世紀前半、エドワード2世とエドワード3世の時代に活動した、ジェームズ、ニコラス、ジョンの兄弟ギャングです。

彼らはダービーシャーに土地を持っていたラルフ・コートレルの息子たちで、1322年の第2代ランカスター伯トマスの国王反乱の際、ランカスター伯の軍隊で戦いました。

ダービーシャー州とノッティンガムシャー州はエドワード2世は治世の末期に反国王派の牙城となり、リッチフィールド修道院長の権威に守られた彼らは、例えば、王の親戚でもあったヘンリー・ランカスターの領地を襲撃するなど、派手な乱暴狼藉で知られるようになりました。

彼らはエドワード3世の妃フィリッパ・オブ・エノーの庇護を受けていました。女王は1332年にジェームズが土地を購入するのを助けています。王室と諸侯、その下のはぐれ者たちとの複雑な関係が透けてみえます。

イングランドとスコットランドの戦争が勃発すると、1338年にはコートレル・ギャングは王の軍隊に加わる機会を得て、犯罪生活から足を洗い、ジェームズはレントン修道院の徴税人、ニコラスは王室の廷吏となりました。ジェームズ・コテレルの没年は不明ですが、記録によると彼はフォルヴィル・ギャングに100ポンド以上の借金があったことが判明しています。

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4. フォルヴィル・ギャング

中世イングランドでは、土地の所有権は代々地主の長男に引き継がれ、次男以降は別の形での出世を求めて騎士に従者になるのが一般的でした。

しかし14世紀初頭のレスターシャーの地主であったフォルヴィル一家の息子たちは、長男ジョン以外はギャング団を形成して、しばしば暴力的手法で一家を支えました。中核になったのは、フォルヴィル家のユースタス、ロバート、ウォルター、リチャードです。

例えば1326年、ディスペンサー父子の支援者であった大蔵卿ロジャー・デ・ベレー(Roger de Beler)がフォルヴィル家に対して脅迫を行った際、ユースタスは50人の仲間を率いて、道中で彼を捕らえ、殺害してしまいました。

国王派によって逮捕状が出たため、彼らは王妃イザベラが率いる反乱軍に加わるために逃亡。他の反乱軍と共にイングランドに上陸した後は、彼らは雇われ半グレ集団として働き、家畜強奪や脅迫、拉致など様々な悪どいことをやらかし、悪名を広げました。特に有名なものが、彼らに逮捕状を出した裁判官リチャード・ウィロビーを捕らえ、1,300マルクという法外な身代金を手に入れたことです。

ラッキーなことにエドワード3世は戦争中で、フォルヴィル一家は国王軍に馳せ参じて1337年と1338年にかけてスコットランド軍と戦ったので、見返りとしてこれまでの罪を全部許され、いかなる罰も受けることはありませんでした。

 

5. ワーラント一家

ワーラント一家は14世紀前半のイングランドで活動した盗賊一家。

4人の兄弟ともう一人の親族の男で構成され、当時の水準で言うとそれなりの額の奪ったことで知られます。

ワーラント一家に関する最初の記録は、1321年にマチルダ、マージョリー、リチャードの3兄弟が盗品を受け取ったという告発で、この時に3人は処罰を免れています。しあし4番目の兄弟であるジョンは同年の後半に告発され絞首刑に処されました。

ジョンの罪は、当時の平均月収に相当する8シリング衣服と家財道具を盗んだというものです。一家の残りの者たちは、1325年に60シリング相当の布を盗んだ罪で逮捕され投獄されました。しかし裁判の結果、彼らは再び有罪を免れ、1326年には、32枚の布を盗んだ罪で告発されますが無罪となり、そのわずか4ヵ月後には、姉妹のうち2人が40シリング相当の布を盗んだという告発で逮捕されましたが、またまた無罪となっています。

なぜ処罰を免れたのかまったく不明ですが、これ以降はワーラント一家の記録はなくなっているので、無事に逃げおおせたのかもしれません。

 

6. アダム・ザ・レイパー

中世の農村や山岳地帯には多くの盗賊団がいましたが、町や都市にもギャングが出没しました。

エドワード3世の時代に名の知られた都市ギャングは、アダム・ザ・レイパーという人物。彼の有名なエピソードが、フィリッパ・オブ・エノーの宝石強奪事件です。

エドワード3世の妃フィリッパ・オブ・エノーは、信頼できる商人に彼女の私的な財産である宝石を預けていました。しかし、どういう経緯でそうなったか不明ですが、アダム・ザ・レイパーが彼が宝石を持っていることを聞きつけ、日没後にギャングを率いて商人の家に押し入り、商人を脅して宝石を渡すように要求しました。商人が拒否すると、ギャングたちは家に火をつけて焼き払い、宝物を強奪しました。

アダム・ザ・レイパーは罰を免れたようで、さらに20年生きたらしいこと以外はあまり知られていません。このような都市ギャングに関する記録は残されていない場合が多いのですが、彼は当時のロンドンの都市ギャングのリーダーであった可能性が高いと考えられています。

 

7. ロジャー・ゴッドバード

ロジャー・ゴッドバードは13世紀後半に活動したギャングで、義賊ロビン・フッド伝説のベースになったとされる人物の一人です。

シャーウッドの森でアウトローとして活動し、ノッティンガムの保安官に捕まって投獄された、という彼の経歴はロビン・フッドと似ています。

ロジャーが登場する最も古い裁判所の記録は、彼がジョーダン・ル・フレミングにスワニントンの荘園の10年間の借家権を与えたが、わずか1年で彼を強制的に追い出し、持ち物を奪ったというもの。

1264年、シャーウッドの森で鹿肉を密猟した罪で告発され、2年後の1266年には再び現れ、今度はガレンドンの修道院に貸していた土地の証書を奪い、剣で脅してそれを許させる文書に署名させるという事件を起こしています。かなり野蛮なやつですね…。

1266年後半、彼は「善行」を理由に、エドワード3世から恩赦を受けています。その理由もよく分かりません。

その後彼はレスター、ノッティンガム、ウィルトシャーのアウトローのリーダー格となり、犯罪行為を続けますが、1272年に逮捕されブリッジワース城に投獄されました。

1275年に裁判にかけられますが、その後どうなったか記録がなく、翌年獄死したとする説と、自由の身となりさらに20年も生きたとする説があります。

 

8. ジョニー・アームストロング

ジョニー・アームストロングは1520年から1530年の10年間スコットランドで活動したギャングです。

ジョニー・ギャング団はイングランドとスコットランド国境の砦を拠点にし、160名ほどの部下を引き連れて略奪を行ったということなので、山賊や匪賊のような連中だったと思われます。自らを守ることができない村や町を恐喝し、拒否されると家畜を勝手に持ち去ったり、家々を焼き払らったりしました。映画「七人の侍」に登場する野武士団みたいですね。

犯罪集団ではありつつも、彼らは公式に第5代マックスウェル卿ロバートの保護を受けていました。イングランド政府はジョニー・ギャング団の無法を取り締まるようにマックスウェル卿に求めますが拒否されました。1528年には第3代男爵ウィリアム・デイクレが軍隊を率いてキャノンビーにある拠点を焼き払うも、ギャング団は壊滅せず活動は続きました。

1530年、ジェームズ5世がスコットランド王になると、王はスコットランドから盗賊を一掃することを決意し、ジョニー・アームストロングと24人の従者を不意打ちで捕らえて全員絞首刑にしました。

ギャングスター、ジョニー・アームストロングは19世紀になると、サー・ウォルター・スコットやハーバート・マックスウェルの詩でロマンティックに読まれ、英語圏では知られています。

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まとめ

中世イングランドの王権が強くなく、スコットランドやウェールズ、フランスなど隣国、隣の諸侯の領土に逃げ込めば犯罪者の罪も不問みたいな、法律が機能してないグチャグチャな感じもかなり面白いです。アウトローが発生する条件がそろっているし、諸侯自体がアウトローになるケースもあって、キリスト教の倫理観が強いとされる中世とは思えない野蛮さです。

中世イングランド史は百年戦争前後は人気がありますが、今回紹介したあたりも今後人気がでるかもです。

 

参考サイト

"Brief Biographies (4): Malcolm Musard" Edward II

"Significant Scots Johnie Armstrong"

https://en.wikipedia.org/wiki/Coterel_gang

"10 Notorious Medieval Gangsters" LISTVERSE