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1983年世界核戦争の危機「エイブル・アーチャー83」

キューバ危機に次いで核戦争の危機が高まったNATOの軍事演習

冷戦の緊張が高まっていた1983年11月、NATO軍は核戦争が始まることを想定した軍事演習「エイブル・アーチャー83」を行なっていました。

このシナリオは、ソ連の指導者が交代し、代理戦争が激化し、ソ連がヨーロッパ諸国に侵攻するところから始まるもので、毎年行われていた軍事演習でした。

しかそこの年、ソ連の諜報機関はアメリカが訓練と称して核先制攻撃を行うのではないかと疑い、核兵器の発射準備を進めました。

結局軍事訓練の終了と同時に危機は過ぎ去ったのですが、のちにアメリカは実は知らず知らずの間にとんでもない核戦争の一歩手前の状態にあったことに気付いたのでした。

 

1. 米ソの緊張の高まり

1949年、アメリカと西ヨーロッパ諸国が結んだ安全保障条約「NATO」、そしてソ連と東欧諸国が結んだ防衛条約「ワルシャワ条約」の成立によって、世界は二大陣営に分かれ、東西冷戦が本格化しました。

1970年代に入ると、アメリカのニクソン大統領とソ連のブレジネフ書記長が軍備管理に関する一連の協定を結び、デタント(緊張緩和)ムードが漂うようになりましたが、1981年のアメリカのレーガン、1982年のソ連のアンドロポフの登場で、デタントムードは消滅しました。

「強いアメリカ」を掲げるレーガンは国防予算の倍増を開始。これに対しKGB 出身のアンドロポフは、NATO による先制核攻撃を強く信じ、「RYAN作戦(ロシア語で「核ミサイル攻撃」の頭文字)」を発動させました。これは NATO軍による先制核攻撃の兆候があれば、先んじてソ連が先制核攻撃を行うという作戦です。

アメリカはこのようなソ連の動きを知りつつも、「情報によって西側の判断を誤らせようとする」ブラフだと考え、ソ連が真剣に先制核攻撃を実行しようとしているなど想像できていなかったようです。

レーガンは3月の全米福音主義者協会での演説で、ソ連を「悪の帝国」と非難し、宇宙から飛んでくる核ミサイルを迎撃することを目的とした戦略防衛構想(通称「スターウォーズ」)の計画を発表しました。

レーガンはこれを純粋な防衛手段と考えましたが、ソ連は防衛力の向上による優越的な先制核攻撃が可能になると考えました。

また米軍の航空機や艦船はソ連国境に迫り、PSYOPS(心理作戦)と呼ばれる力の誇示を行い、ソ連をさらに精神的に追い詰めることになります。

1983年9月1日、アンカレジからソウルに向かう大韓航空007便が途中でソ連の領空を侵犯し、軍用機の侵入と勘違いしたソ連防空軍によってサハリン沖で撃墜される「大韓航空機撃墜事件」が発生。これもソ連軍の緊張と疑心暗鬼によって起こったものでした。

 

2. ソ連諜報機関のとんでもない勘違い

 

軍事演習「エイブル・アーチャー」は、NATOが定期的に行っている演習の一部でした。

訓練はブリュッセルのNATO本部を拠点に、西ヨーロッパ全域を巻き込んで実施され、ワルシャワ条約機構による侵略に対処するために同盟諸国の各司令部同士の連携をシミュレーションするものでした。

エイブル・アーチャーの演習シナリオは以下の通りです。

NATOを表す「ブルー」とワルシャワ条約機構を表す「オレンジ」を意図し、ユーゴスラビアがブルー圏に移行したことがきっかけで、オレンジ軍がフィンランド、ノルウェー、西ドイツに侵攻した後、シリア、南イエメン、イランでの代理戦争がエスカレートすることを想定していました

演習はオレンジが11月4日に侵攻を開始し、ブルーが一般警戒を宣言するところから始まります。

オレンジは11月6日に侵攻地域全域で化学兵器を使用。オレンジの軍は化学兵器を執拗に使用しながらさらに前進し、NATO諸国にも第二部隊を迅速に投入しようとします。そこでブルーは11月7日という早い段階で核兵器の部分的使用に踏み切る、というシナリオです。

1983年11月7日、NATO軍が核攻撃のシミュレーションを開始した際、ソ連の情報機関は「核攻撃の初期兆候」をいくつも検出しました。

まず、核先制攻撃の意志決定を行う人(首相や国防長官)、そしてその決定の準備と実行に携わる人(核ミサイルの発射施設や通信施設で働くスタッフ)の行動監視です。NATO加盟諸国間の意思決定者同士の通信がやたら多い。そしてイギリスとアメリカの間の暗号化された通信の割合が高い。

ソ連の情報機関は、NATOがこれまで見たことのない手順や以前の演習よりも洗練されたメッセージフォーマットを使用したことが、先制核攻撃の接近を示唆していると思ったのです

また、エイブル・アーチャー83の間、NATO軍は戦争準備段階を指すデフコン(Defense Readiness Condition)を、平時の5から戦争準備体制である1までのすべての警戒段階を訓練しました。

警戒心の強いKGB諜報員はこの訓練を「実際のもの」として間違って報告しました。デフコン1は、軍事行動開始の準備の明白な兆候がある場合に宣言されるとKGBは理解しており、もはや核戦争は不可避、いつ始まってもおかしくないと考えたのです。

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3. 核戦争の準備

ソ連はNATOの攻撃より先んじて核攻撃することが生き残る唯一のチャンスであると考え、核兵器の準備を始めました。

ソ連の司令官は第4空軍の爆撃機に核弾頭を搭載し、在ドイツ・ソ連軍戦闘機36機に30分の警戒態勢をとるよう命じました。CIAはバルト海軍管区とチェコスロバキアでの活動を報告し、ポーランドと東ドイツの核搭載機が「核攻撃部隊の準備を伴う厳戒態勢」に置かれたと報告しました。

ソ連の核準備態勢が強化されているにも関わらず、それに対抗せず、NATO軍に警戒態勢の強化をしない決定を下したのは、在欧州米空軍参謀長補佐のレナード・H・ペルーツ中将です。彼は上司であるビリー・M・ミンター大将に東欧圏の「異常な行動」を伝えましたが、それが演習に起因するのかどうか、演習の終了まで待つことを提案しました。結局、その判断によって核の応酬の可能性は大きく減りました。

当時ソ連は1万1000発の核弾頭を最大限の警戒態勢に置き、重病のアンドロポフがモスクワ郊外の診療所で軍幹部と共にNATOの行動に関する報告を受け、攻撃をいつでもできるように警戒を続けていました。

結局演習は滞りなく終了しました。ソ連首脳部はホッと胸をなでおろしたことでしょう。

ウスチノフ国防相は、エイブル・アーチャーが終了した数日後、国営プラウダ紙にて「NATOの演習は、侵略のための武力行使と見分けるのがますます難しくなっている」と述べました。

 

4. 顛末に関する評価

「エイブル・アーチャー83」に対するソ連の具体的反応に関する情報が、いまだに明確に分かっていないこともあり、この顛末に関する評価は様々あります。

当時は「本当に核戦争の瀬戸際にあった」と主張する人もいれば、「伝えられるほどソ連は強烈に反応したわけではなかった」と主張する人もいます。

CIAのロバート・ゲイツ情報局次長は、「核戦争の瀬戸際にいたのに、気づいてなかったかもしれない」と語っています。

一方で「エイブル・アーチャー83」に対するソ連の公的反応がなかったことから、一部の歴史家は、ソ連は「エイブル・アーチャー83がソ連に直接的な脅威を与えているとは見ていなかった」と主張しています。

当時ソ連参謀本部の作戦本部長であったセルゲイ・アクロメーエフ元帥は、冷戦史家のドン・オーベンドルファーにエイブル・アーチャーのことは聞いたことがないと語っているという証言もあります。

レーガンは回想録で、このように述べています。

ソ連の上層部の多くは、アメリカやアメリカ人を心から恐れていたのだ。…ソ連の指導者や彼らを知る他の首脳と接するうちに、多くのソ連当局者が我々を敵対者としてだけでなく、先制攻撃で核兵器を投げつけるかもしれない潜在的な侵略者として恐れていることが分かってきた...。

レーガンは結局、1985年にジュネーブでソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長と会談し、その後の首脳会談で、1987年の中距離核戦力条約とその後の軍縮条約にサインすることになります。

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まとめ

現代ロシアがNATOの東方拡大をやたら恐れているように見えることや、ウクライナが西側陣営に入るのであれば武力を使ってでも強制併合を果たそうとする試みなど、当時のソ連のヒステリックな反応と重なって見える部分があります。

もしかしたら当時のソ連の指導者の、破滅的な思考回路が現代ロシアの為政者にも引き継がれている側面があるのかもしれません。現在のクレムリンの中枢には、プーチンを筆頭に元KGBの情報機関の人間が多数入り込んでいるので、この1983年当時の世界観のままアップデートされてない可能性もあるのではないかと勘ぐってしまいます。

 

参考サイト

"The 1983 Military Drill That Nearly Sparked Nuclear War With the Soviets" smithonian magazine

Able Archer 83 - Wikipedia