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【世界史】史上最も在位の短い国王TOP10

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 在位期間が歴代もっとも短い国王を発表します

2019年に今上天皇が譲位なさる予定です。予定通り退任されれば、31年の在位期間だったということになります。先代の昭和天皇は62年の在位期間でした。

ちなみに2018年現在、在位期間が最も長い王はイギリスのエリザベス2世で66年です。

何となく国王の在位期間は最低でも十数年以上は続くような感覚がありますが、歴史上は信じられないほど早く国王の椅子から転げ落ちてしまった人が多くいます。

 今回は歴代の在位期間が短い国王TOP10を紹介します。

 

 10位:ロシア皇帝・ピョートル3世(185日)

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 妻エカテリーナのクーデターを受けて失脚

ピョートル3世は昔から大変なドイツ贔屓で、特にプロイセン王フリードリヒ2世の大ファン。ミリオタで、軍服を好んで着たり、部屋におもちゃの兵隊を並べて遊ぶことを好み、成人してからも子どものような言動が目立つ人物でした。

一方で妻ゾフィー(後のエカテリーナ2世)は読書を好む知的な女性で芸術や学問に造形が深く、また猛烈な野心家でもあり、貴族や軍人はゾフィーへの期待を強めていきました。

1761年末に女帝エリザヴェータが死亡し、翌1762年1月に皇帝となるのですが、彼はエリザヴェータが勝ち進めていた七年戦争において、部下たちの許可を一切とらず、勝手にフリードリヒ2世と講和し軍の撤退を命じてしまいます。

もう少しで勝利だったにも関わらずこれまでの犠牲を無駄にされてしまった軍人たちは激昂。1762年6月に皇后エカテリーナ2世を担いでクーデターを起こして皇帝を捕らえ幽閉してしまいました。

在位期間はわずか半年、日数でいうと185日になります。

 

9位:東ローマ帝国皇帝・イサキオス2世アンゲロス(179日)

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失明したにも関わらず復権し、またすぐに失脚

イサキオス2世アンゲロスは皇位の地位に2回就いており、179日は2回目の皇位の期間です。

1回目は1185年、東ローマ帝国を建て直すために独裁体制を敷いた皇帝アンドロニコス1世に対し、貴族と共に反乱を起こし皇位に就きました。

しかし、北で巨大化したブルガリアの脅威を取り除こうと遠征を興すも失敗。弟のアレクシオス(後のアレクシオス3世)のクーデターで捕まり、もう帝位に就けないよう目を潰され首都コンスタンティノープルの宮殿に幽閉されました。

それから8年後、神聖ローマ帝国に亡命していたイサキオス2世の息子アレクシオス4世は、資金集めに苦労していた第4回十字軍に対して資金援助を約束。

フランス、ヴェネツィアを中心とした十字軍はコンスタンティノープルを陥落させ、皇帝アレクシオス3世を追放。帝都に入ったアレクシオス4世は幽閉されていた父イサキオス2世を解放し、1203年7月に共同皇帝となりました。

しかし父子は十字軍に支払う資金を調達するために多額の税金の徴収を国民に要求したため反発を招き、1204年アレクシオス3世の娘婿アレクシオス5世のクーデターによって殺害されました。在位期間は179日でした。

 

8位:中華帝国皇帝・袁世凱(101日)

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皇位に就き中国を一つに取りまとめようするも失敗

袁世凱は一介の軍人からのし上がり、清朝内で出世しつつ、新たな中国を作るため革命勢力と結んで清朝に引導を渡し中華民国を成立させた傑物です。

清朝崩壊後、袁世凱は民国の臨時大総統の位に就きました。彼はバラバラになった中国に政情と民心の安定をもたらすためには強い指導者が必要と考えていましたが、宋教仁ら国民党の指導者は議院内閣制の政治体制を望み、都市部の大学生らを中心に強権体制への反発は根強いものがありました。

しかし袁世凱は孫文や宋教仁らを武力で排除し、自らの権限を強くしていき、とうとう1916年1月に年号を「洪憲」に改め、国号を「中華帝国」に変更、自らを皇帝であると宣言しました。

しかし時代錯誤の皇帝復活として国内はおろか海外からも非難が殺到し、101日後の1916年3月に渋々退位。その3ヶ月後に失意のうちに死亡しました。

 

7位:ローマ帝国皇帝・ペルティナクス(86日)

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Photo by Codrin.B

軍出身にも関わらず軍の支配に失敗して殺された男 

ペルティナクスは暴君として名高い第17代皇帝コンモドゥスの次に皇帝として擁立された人物です。

もともと一介の軍人としてキャリアをスタートさせ、軍団の指揮官、属州総督、執政官と出世を重ねていきました。

コンモドゥス帝時代は、ブリタニア総督、次いでアフリカ総督を歴任し、首都ローマの長官に就任。コンモドゥスの最側近となりました。

ところがコンモドゥス帝は次第に自らの神格化を始め、享楽的な生活を楽しむ一方で重臣の処刑など恐怖政治を敷くようになったため、ペルティナクスや近衛隊長ラエトゥスら側近グループは皇帝の暗殺計画を進め、192年にコンモドゥスを殺害。ペルティナクスは皇帝に就任しました。

ペルティナクスはコンモドゥス時代の放漫財政を再建しようと緊縮策を採り議員から反発を喰らいます。また、皇帝就任の通例だった近衛兵へのドナティブム(祝い金)をケチったことで軍からの支持を失ったことで、近衛隊長ラエトウスさえも反ペルティナクスに回すことになりました。

そして193年3月、ペルティナクスの武力排除を求める兵が宮廷に集結し、ペルティナクスは説得を試みるも刺殺されました。在位期間はわずか86日でした。

 

6位:フィンランド国王・カールレ1世(66日)

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ドイツの敗北と同時に退位させられた国王

後のフィンランド国王カーレル1世は、本名はフリードリヒ・カール・フォン・ヘッセンといって、ドイツの領邦ヘッセン=カッセル方伯家の出身です。

妃のマルガレーテの父はフリードリヒ2世なので、カールからするとドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は義兄にあたります。

ロシア革命でロマノフ王朝が崩壊した後、ドイツはロシア支配下の国々を占領しドイツの影響下で独立をさせようと画策します。

フィンランドも1917年12月にドイツの後押しで独立を宣言しますが、地主や資本家は王政を支持し、農民はソヴィエトの影響を受け革命路線を後押しし、とうとう内戦に突入。戦いはドイツ軍の支援を受けた白軍が戦いを優位に進め、1918年5月に首都ヘルシンキが陥落。赤軍はソ連に逃亡します。

そうして1918年10月、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は義弟のフリードリヒ・カールをフィンランドに送り込み、フィンランド国王カーレル1世として国王に就かせました。

ところが、その後ドイツ帝国は第一次世界大戦に敗北。

 ドイツの息のかかったドイツ系の国王は連合国に認められず、カーレル1世はわずか66日で退位することになりました。

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5位:ローマ帝国皇帝・ディディウス・ユリアヌス(65日)

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帝位を金で買ったボンボン皇帝

ディディウス・ユリアヌスの父はミラノの名家セウェルス家の当主で、母は皇帝を出したこともある名門サルウィウス家の出身。超名門出のおぼっちゃまでした。

名門出身であることもあって順調に出世し、ダルマチア、低地ゲルマニア、ビュティニア、アフリカ総督を歴任しました。

前皇帝ペルナティクスが兵たちの支持を失い殺害されたため、新たな皇帝を建てる必要があったのですが、近衛兵は今度はちゃんとドナティブム(祝い金)をもらうために、皇帝の位を競売に掛けることにします。

参加者はディディウス・ユリアヌスと、首都長官ティトゥス・フラウィウス・スルピキアヌス。

オークション形式で互いにドナティブムの価格を吊り上げていき、結局ユリアヌスがより高い金を兵たちに支給すると約束したため、近衛兵の支持を受け皇位に就きました。

就任直後から 「皇位をカネで買った男」として評判は最悪で、市民から石を投げつけられるほどでした。

これを聞きつけた地方の総督たち、シリア総督ペスケンニウス・ニゲル、ブリタニア総督クロディウス・アルビヌス、パンノニア総督セプティミウス・セウェルスは帝位を要求し軍を興します。

ユリアヌスは反乱を抑えようと近衛軍団を派遣しますが敗れ、とうとうセウェルスがローマ近郊にまで進軍すると、近衛軍もセウェルス側に寝返ってしまう。とうとうユリアヌスは皇位を退位。のちに暗殺されました。在位は65日でした。

 

4位:ローマ教皇・ウルバヌス7世(12日)

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教皇就任後すぐにマラリアで死亡

国王ではありませんが、宗教界のトップということでのランクインです。

教皇ウルバヌス7世は本名ジョバンニ・バティスタ・カスターニャといい、高貴な家庭に生まれました。

ボローニャ大学で法律を学んだ後、1553年にロッサーノの大司教に選ばれ、1555年から1559年までファーノの知事、その後1559年から1560年にかけてペルージャとウンブリアの総督を務めました。その後1576年から1577年までボローニャの知事を務め、1578年から1580年にフランダースとケルンへの教皇の遣いとしても働きました。

長年の働きが認められて教皇グレゴリウス13世によって1583年12月に彼を枢機卿に昇格。以降7年ほど枢機卿として働きます。1590年に教皇シクストゥス5世が死亡しコンクラーベが開催された時に、カスターニャは次教皇に選出されてウルバヌス7世として即位しました。

ところが即位後わずか12日でマラリアで死亡してしまいました。

 

3位:阮朝越南皇帝・ズクドゥク帝(3日) 

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先帝の意志を蔑ろにしたという理由で廃位

ズクドゥク帝は漢字では「育徳帝」と書き、阮朝越南第5代皇帝です。

先代の皇帝トゥドゥック帝(嗣徳帝)には子がなく、弟の瑞太公グエン・フック・ホン・イ(阮福洪依)の子3人を養子としていました。

トゥドゥック帝は危篤に陥った際に、次の皇帝には皇位順に従い長男グエン・フック・ウン・タッ(阮福膺禛)を指名しますが、次帝への苦言か、本心は望んでいないということか、遺言でズクドゥク帝の悪点を書き記しました。

それを見たズクドゥク帝は、遺言の自分の悪点の部分を削除するように要求。さらに皇帝の着任式に喪服でない服を着たそうです。このことで先代のトゥドゥック帝の妃トゥ・ドゥ(慈裕)皇太后の怒りを買います。

皇太后は先帝を侮辱したとしてズクドゥク帝の帝位を取り上げてしまいました。

この背景にはトゥドゥック帝の重臣グエン・ヴァン・トゥオンとトン・タト・トゥエットがズクドゥク帝の即位に反対していたことがあり、遺言と喪服は新帝廃絶の絶好の口実になってしまいました。

わずか3日でズクドゥク帝は廃位させられ、その後餓死しました。

 

 

2位:金朝・末帝(約12時間)

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モンゴルによって捕らえられて殺された金朝最後の皇帝

金朝の第9代哀宗の時代、金の領土は西のモンゴル帝国により圧迫され、哀宗は和議を求めますが、モンゴル側は一切受け付けず、あくまで金を徹底的に滅ぼす構えでした。

1234年に都の汴州(開封)が陥落し、哀宗は首都を脱出。蔡州城に籠城するも、モンゴル軍と南宋軍に包囲され、陥落は時間の問題となりました。

絶望した哀宗は1234年2月9日に帝位をいとこの呼敦(ホトン)に禅譲し、その後自殺して果てました

第10代皇帝となった末帝ですが、同日に蔡州城を脱出し再起を図ろうとしたところをモンゴル軍に囲まれて捕らえられ斬首となりました。在位期間は1日もなく、おおよそ半日と考えられています。

 

1位:フランス王・ルイ19世(20分)

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退任のサインをためらう間の20分だけ国王だった

ルイ19世は正式にはアングレーム公ルイ・アントワーヌと言い、父はアルトワ伯シャルル(後のシャルル10世)で、母はマリー・テレーズ・ド・サルディーニュ。

14歳の時にフランス革命が起きたため家族と共にイギリスへの亡命生活を余儀なくされました。亡命中、マリー・アントワネットの長女マリー・テレーズと結婚。1800年にはバイエルン軍を率いてフランス軍と戦い、結果も残しています。

ナポレオンがセントヘレナ島に追放された後の1815年にフランスに戻り、王党派の一員として共和派を大弾圧。また従兄弟のフェルナンド7世の復位を画策してスペインにも侵攻し、共和派から死ぬほど嫌われる存在になってしまいます。

1824年に父がシャルル10世として王位に就いたことで皇太子となりますが、1830年に7月革命が勃発。民衆によってルーブル宮殿は取り囲まれ、ギロチンを恐れたシャルル10世は退位に同意する文書にサインしました。

この時、ルイ・アントワーヌも一緒にサインしようとしますが、妻マリー・テレーズが強硬に反対して騒いだため20分近くサインをするのが遅れました。

そのためこの20分の間はルイ・アントワーヌは「フランス国王ルイ19世」であったと言われています。

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まとめ

本人の資質や失策もありますが、運がなかったというか、状況的にどうしようもない場合も多いですね…。何をやっても誰かが反発しどっかから刃が飛んでくるという状態で国王になるというのは、ほとんど死ねと言ってるようなもんです。

それでも大金を出しても犠牲を出してもなりたいのが国王という「魔の職業」なのかもしれません。

王たちの最期の日々 上

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参考サイト

"10 Of The Shortest-Reigning Leaders In History" LISTVERSE