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「良妻賢母」とされる皇族・王族の女性たち

夫や子を陰から支えた「徳のある」妻たち

かつては女性のあるべき姿として「良妻賢母」が理想とされました。

夫の出世や大成のため、息子の健全な成長のため。自らを律し、贅沢は慎み、家の発展のために献身的に働くことが女性として最も理想的な生き方であるとされました。特に儒教の教えが強い東アジアは根強く語られてきました。ただこのような家や国への献身が評価されてきたのは、東アジアだけではありません。

 

1. 太任(?~?)

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胎児に良い影響を与えるとされる「胎教」

良い母とは生まれてくる子ども、特に跡継ぎとなる男子を健康的に育むと同時に、いかに王の器たる人物に育てるかが重要とされました。

太任は周の文王の母で、胎児に教育を施すという「胎教」で有名な人物です。

文王の息子の武王は殷王朝最後の皇帝で暴君とされる紂王を倒し周王朝を開いた人物で、徳の高い偉大な人物であったとされます。

太任は誠実な性格で、非常に徳深い女性だったとされています。

妊娠をした時に、「目には悪い色は見ず、耳には悪い音楽を聞かず、口には傲慢な言葉を言わず」日々を過ごしたそうです。

母が善を施すことで、生まれてくる子は顔が美しくなり、才能や徳が現れてくると考えられました。儒教では母親の状態が直接胎児に影響すると考えらえており、母親が徳のある人物だったからこそ、周の成王や文王といった偉大な王が生まれたと考えられました。
太任は前漢末に劉向が編纂したとされる『列女伝』に逸話が掲載されているのですが、前述の通り儒教の伝説の文脈が濃く、本当に彼女が胎教を施していたのか定かではありません。

 

2. ハディージャ・ビント・フワイリド(556年~619年)

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預言者ムハンマドの最愛の妻にしてイスラム教の最初の信者

妻として夫の偉大な仕事を献身的に支え、母として子どもを立派に育てあげる人物が「良妻賢母」とされます。それが称賛されるのは儒教的な観念が強い東アジア圏だけではありません。

ハデージャはイスラム教をおこした預言者ムハンマドの最初の妻であり、夫がおこしたイスラム教徒の最初の信者です。

彼女は元々メッカの有力な商人の妻でしたが夫を早くになくしたため、亡き夫の代わりに商売を切り盛りし、キャラバン交易集団の女主人として成功を収めていました。

預言者ムハンマドは25歳の時に、40歳になっていたハディージャと15歳の年の差婚をしました。15歳の姉さん女房ということで、当時はさぞ心配されたろうと思いますが、結婚はかなり上手くいったらしく、お互い尊敬しあう理想の夫婦であったそうです。

預言者ムハンマドは金銭的な余裕ができたので、山に籠もって修行を始め、「天使の啓示」を得てイスラム教をおこすに至ります。夫が商売そっちのけで怪しげな宗教を始めたら妻は止めるのが普通ですが、ハディージャは夫を信じ、夫のおこした宗教の最初の信者となりました

ハディージャの死後、ムハンマドは2人の妻を娶りますが、生涯彼女のことは特別視していたようで「人々が私を拒絶し嘲笑した時も、ハディージャはいつも私を支えてくれた」と言い残しています。

ハディージャとの間には娘ファーティマが生まれました。ファーティマもまた、家のことをしっかり守り夫を影から支えるという、イスラム女性的美徳の全てを兼ね備えた人でした。

ファーティマの夫アリーは第4代正統カリフ、初代イマームで、アリーとファーティマの子孫のみを預言者ムハンマドの後継者として認めているのがシーア派の人々です。

 

3. 沈婺華(582年~589年)

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敵にも尊敬される心が広く胆が据わった女性

偉大な妻は自らを飾ったり贅沢を好んだりすることは慎み、天下国家や臣民のことを第一に考えるべきとされました。

沈婺華(しんぶか)は魏晋南北朝時代の南朝の陳朝、最後の皇帝・後主(陳叔宝)の妃です。

569年に皇太子の陳寿宝と結婚し、妃となりました。彼女は物静かで賢く、機知に富んだ人物であったそうです。父が亡くなると、沈婺華は喪に服し悲しみでやせ細ってしまいました。陳寿宝は地味な沈婺華を避け、妾で派手な張麗華のほうを好みました。しかし 彼女は気にせず、嫉妬や恨みを抱くこともなく質素に暮らしました。

589年、隋が陳王朝を征服した際、隋の軍隊が到着したことを知った陳寿宝は怯え、妾の張麗華と孔貴とともに井戸に隠れたが、沈婺華は慌てることなく堂々と軍を迎い入れたとされます。そんなダメな夫でしたが、陳寿宝が死去すると彼女は哀悼の辞を書き、人々の心を打ちました。

彼女の徳の広さは有名だったため、隋の楊広の巡幸の際には彼女に同行を命じました。 618年、楊帝が江都で暗殺されると、沈婺華は碧嶺(現在の江蘇省武進市)の天鏡寺で出家し尼僧となりました。

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4. 長孫皇后(601年~636年)

穹蒼聖地へ

夫を盛り立てた「出来た女性」

内助の功という言葉がありますが、妻は夫を陰から支え、夫の偉大な功績や仕事のために献身すべきだと考えられました。

長孫皇后は唐の太祖の妻で、徳と教養のある女性として知られます。

614年、唐の将軍、李淵の次男である李世民と結婚。617年に李淵は李世民や兄の李建成らと共に隋王朝に対して反乱を起こし、首都長安を占領して楊帝を追放。その後李淵は禅譲を受けて皇位を授かり唐を建国しました。

李世民と長孫皇后との間には3人の息子と3人の娘が生まれています。彼女は礼法をよく守り、華美な生活を慎み質素な衣服を好んだとされます。

次期皇帝をめぐる争いが激化する626年、兄の李建成と弟の李元吉は、台頭する李世民を殺害するために兵を上げました。これを聞きつけた李世民は、自分のもっとも信頼できる人物のみで軍隊を動員するのですが、長孫皇后は彼らの前に立ち叱咤激励したと言われています。

李世民は2代皇帝となり、長孫皇后は正式に皇后となりました。太祖李世民は、彼女のことを愛し、亡くなってからは皇后を立てず、厚く弔ったそうです。

 

5. 成粛皇后(1132年~1203年)

南宋の繫栄を支えたとされる徳ある女性

立派な妻は「正しさ」を追求する必要があり、必要な場合は荒っぽい手段も必要です。

成粛皇后(謝皇后)はもともと、南宋初代・高宗の妻憲聖慈烈皇后(けんせいじれつこうごう)の侍女だった人物で、2代目の考宗の皇后である夏皇后が亡くなったため、2番目の皇后となりました。

成粛皇后は質素な暮らしを好み、倹約家であり、宮廷の食物の量を減らし、「数年間は汗ばんだ服を着ていた」ほどだったそうです。成粛皇后は、金への強硬策をとった将軍・岳飛の名誉を回復し、金への宥和策をとった秦檜の家族を厳しく罰したことでも、後の世に高く評価されています。

孝宗皇帝の治下の20年間は南宋は経済的に繁栄し、政治的にも清らかになり、「皇帝を支える成粛皇后の徳によるものだ」と人々に讃えられました。

1190年、孝宗は子の光宗に譲位し、成粛皇后は寿成皇后と称されました。

ところが光宗の妻の李皇后は傲慢で無礼、残虐で嫉妬深い性格で、気に入らない宮女を虐殺するような人物でした。彼女の策略で父の孝宗と不仲になり、諫言によって疑心暗鬼に陥った光宗は、考宗の死後に喪に服すことを拒否し、大臣を始め宮中の臣下の怒りを買いました。謝皇后は臣下たちと共謀し、光宗と李皇后の息子・趙玄(寧宗)を擁立。光宗と李皇后を権力の中枢から排除しました。

 

6. バヤン・クトゥク(1324年~1356年)

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嫉妬せず政治にも権力にも関心を持たなかった女性

皇后にも関わらず質素を好み、派手なことを慎んだ女性は中国の歴史では高く評価されてきました。一方で息子を使って権力を取ろうと「姦計」した女性は悪く言われがちです。

バヤン・クトゥクは漢語資料では伯顔忽都と表記され、元朝皇帝恵宗、トゴン・テムルの2番目の皇后です。モンゴル高原の有力部族であったコンギラト部出身の女性です。

恵宗の皇后とされたものの、恵宗は高麗出身の奇氏を寵愛しました。バヤン・クトゥクは息子チンキムを儲けますが2歳で夭折。恵宗は奇氏をますます寵愛し、彼女との間に長男アユルシリダラが生まれると、バヤン・クトゥクは第二皇后に格下げとなってしまいました。

バヤン・クトゥクは質素で嫉妬深くなく、礼儀作法に則った暮らしをしていたとされます。ある時の深夜、恵宗は宦官を遣わせて一夜を求めました。しかしは彼女は「皇帝が夜に出入りする時間ではありません」と言って断ったそうです。

バヤン・クトゥクが42歳で死去した後、奇皇后は残された服が全て質素な様を見て「どうして皇后がこのような服を着なければならないのか」と笑ったというエピソードがあります。

恵宗トゴン・テムルの統治はその後、皇帝の寵愛によって力を得た奇皇后と皇帝の側近たちとの内部対立が激しくなり、結局朱元璋の北伐軍に敗れて首都大都を放棄してモンゴル高原に撤退することになります。そのため、「悪女」奇皇后と比較する形で、バヤン・クトゥクが称賛される傾向にあるようです。

 

7. 馬皇后(1332年~1382年)

皇后になっても素朴な家庭人を全うした女性

夫が権力を得ると、せっかく好きにできるのだからと、豪華な宝飾や衣服、調度品、料理に囲まれた豪勢な暮らしを望むは、普通の人の感覚だと思います。しかし、権力を得ても昔ながらの質素で素朴な暮らしを維持するのはなかなかできないものです。明の初代皇帝・太祖(朱元璋)の妻である馬皇后は、そんな庶民の家庭的な感覚を生涯忘れなかった人でした

馬皇后の父は人を殺した復讐を避けるために国外に逃亡し、娘を親友の郭子興に託しました。その郭子興は元末の社会的混乱の中で反乱の首謀者として頭角を現しました。その郭子興の部下であった人物が、後に明を興す朱元璋です。郭子興は朱元璋を気に入り、彼に養女を与えました。
馬皇后は賢く献身的な女性で、軍がピンチになると、自らが持つ金銀を兵士に与えて軍を安定させ勝利に貢献しました。

朱元璋が皇帝になり明王朝を開き皇后になった後も、彼女は質素な家庭人としての生活を変えませんでした。毎日朱元璋の食事を作り、子どもたちの衣食住も、すべて自ら世話をしました。

朱元璋は権力欲が強く、疑心暗鬼にとらわれた人物でしたが、馬皇后のことは非常に大事にし、彼女の言うことは無視しませんでした。馬皇后のおかげで死を免れた人物は大勢います。

例えば燕州を守る義理の息子・李文忠が法に背いていると楊献という人物から訴えがありました。すると馬皇后は「燕州は敵と対峙する場所で、勝手に将軍を変えるのは不適切だ。李文忠は昔から知恵があり、賢明だった。 楊献の言葉を信じていいのでしょうか?」と言いました。 朱元璋は納得し、李文忠を罰することを辞めました。

1382年に馬皇后が倒れると、朱元璋は名だたる医者や祈祷師を呼び治療をさせますが、馬皇后は「もし薬が効かなかったとしても、医者が罰することはやめて下しさい」と言いました。彼女が亡くなると、 朱元璋は取り乱して悲しみに暮れ、政務をしばらく取れないほどでした。

 

8. 申師任堂(1504年~1551年)

全てが完璧な女性

夫の仕事を支え、優秀な子を育てつつ、自分自身も業績を残した人物こそ卓越した人物がもっともすぐれてるという評価は伝統と現代の価値観を包括した見方です。

韓国のお札の人物にもなっている申師任堂(シン・サイムダン)はまさにそういう「パーフェクト」な人物です。彼女は朝鮮時代の芸術家でありつつ、倹約をして家計をやりくりし、夫の出世を内助の功で助け、夫の両親と自分の両親にも孝行をしました

当時の朝鮮では儒教的な価値観が強く、妻は夫に服従すること、家事に優れている女性がが最良とされていました。しかし申師任堂は儒教や哲学、歴史、文学に対しても幅広い知識を有しており、夫の客を驚かせたそうです。彼女は文学や詩歌のほか、書道、刺繍、絵画にも長けていました。7人の子どもに教育を熱心に施し、三男の李珥(イ・イ)は大学者に、四男の李瑀(イ・ウ)と長女の李梅窓(イ・メチャン)は芸術家となりました。

夫の李元秀(イ・ウォンス)は妻の才能を嫉妬する小人物で、申師任堂は夫の学問のために10年間の別居を許し家を守ることを約束しますが、夫は3年で学問をやめて家に帰ってきてしまいました。しかも彼は妓生(キーセン)の權(クォン)という女性を愛するようになりました。申師任堂は自身の死後は彼女と再婚することを諫めるのですが、結局家に權(クォン)を家に呼び寄せて住まわせ、母を慕う子どもたちと衝突することになります。

ダメ夫と賢い妻としても申師任堂の逸話は現在でも教訓として語られます。

 

9. マリア・ルイーゼ・ファン・ヘッセン=カッセル(1688年~1765年)

財産を売ってでも国を献身的に支える

マリア・ルイーゼ・ファン・ヘッセン=カッセルは、オランダのフリースラント州・フローニンゲン州総督を務めたオラニエ公ヨハン・ウィレム・フリーゾの妃です。父はヘッセン=カッセル方伯カール。

非常に質素な生活と謙虚な性格で知られ、あらゆる階層の人々との友好的に交流したことでオランダの人々に非常に慕われました。人々は親しみを込めて「マライケ(おばさん)」と呼びました。

夫ヨハン・ウィレム・フリーゾはスペイン継承戦争に従軍中に溺死し、結婚生活はわずか2年半で終了。彼女は息子を身ごもっており、夫の死後6週間後に後のウィレム4世を出産しました。夫の死によって財政は火の車となり、彼女は61点もの絵画コレクションを競売にかけて国庫の足しにしました。さらには普段の生活もとことん切り詰め、後にレーワルデン郊外に土地を購入し屋敷を建設しました。

息子のウィレム4世は生まれてすぐフリースラント州・フローニンゲン州総督を引き継ぎますが、彼が成人するまで母マリア・ルイーゼが摂政として政治を舵取りしました。ウィレム4世は後にオランダ総督にも就きますが、忠臣たちの献身と人々の王室への支持が背景にあり、それは母マリア・ルイーゼの存在が大きなものがありました。

 

10. マリア・レティツィア・ボナパルト(1750年~1836年)

ナポレオンの誇り高い母

ナポレオンの母は貧しいコルシカ島出身で、質素で敬虔、慎まく、気高い女性だったと言われています。

ナポレオンが帝位を目指すことを知ると反対し、戴冠式には出席しませんでした。皇帝即位後は「マダム・メール」の称号を得て莫大な富を手に入れたものの、質素な生活を送り、常に厳しい家計のやりくりに励みました

家庭内教育しか受けていませんでしたが、誇り高いコルシカ人で、ナポレオンには常に「思いあがるな」「名誉を守れ」「嘘だけはつくな」と小言を言い続けていたそうです。

1814年にナポレオンが敗北しエルバ島に流刑になった後、共に島に渡りました。翌年、ナポレオンが復帰するとパリに戻りますが、ワーテルローの戦いでナポレオンが敗北すると、教皇ピウス7世の庇護におかれました。

ナポレオンがセントヘレナ島に島流しにあった後の1818年、彼女はもはや彼が世界の平和を脅かす可能性はなくなったとして解放を嘆願する手紙を世界の首脳陣に送りますが無視されました。

息子ナポレオンが死んだ1821年よりも長生きし、1836年に老衰で死亡しました。

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まとめ

今ではなかなか古い感じがしますが、ほんの少し前までは今回挙げる女性たちのような生き方こそ理想的とされてきました。今みると複雑な気分になりもします。

質素倹約をし、夫に尽くし、子を健康で賢く育てて、家を盛り立てる。それが彼女たちにとって喜びであり、全うした生き方だったのかもしれません。

彼女たちをパターナリズムの犠牲者だったと哀れむことはしたくはないです。

ただ少なくとも、現代においてこのような「良妻賢母」な女性像を伝統的な女性のあり方として押し付けるのは「絶対にありえない」と断言できるとは思います。

 

参考文献・サイト

「中国における胎教の思想」 長谷部英一

"Empress Zhangsun" Beijing Tourism

"沈婺華" 百度百科

"弘吉剌·伯顏忽都" 百度百科

"成肅皇后" 百度百科

"神靜太后" 百度百科

"高孝慈皇后" 百度百科

"MARIA LOUISE landgravin van Hessen-Kassel" Stichting Nassau en Friesland

"Letizia Buonaparte, mother of Napoleon" Britannica

Marie-Thérèse, Duchess of Angoulême - Wikipedia