歴ログ -世界史専門ブログ-

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1858年ブラッドフォードお菓子中毒事件

ヒ素の入ったお菓子が売られ21人が死亡

1858年の「ブラッドフォードお菓子中毒事件」は、イギリスのブラッドフォードでヒ素が使われたお菓子が屋台で売られ、それを食べた20人以上が死亡、200人以上がヒ素中毒になったという、身も毛もよだつような事件です。

この事件がイギリス社会に与えた影響は大きく、後に食品の不純物混入を規制する法律が制定されるきっかけとなりました。

 

1. 混ぜ物が入った砂糖で作られたお菓子

イギリスでは14世紀に入るまで砂糖が鍵付きの樽で保管されるほど超貴重品でした。

しかし17世紀から18世紀にかけて西インド諸島のプランテーション農場で栽培された砂糖きびが輸入され国内で砂糖に精製されるようになりました。1750年にはイギリス国内に120の製糖所がありましたが、年間3万トンしか生産できず、価格は非常に高額でした。

砂糖は「ホワイトゴールド」と呼ばれるほど大きな利益を生み、政府は高額の税金を課しました。1815年にイギリスで砂糖から徴収された税金は300万ポンド(約200億円~300億円程度)にもなりました。

19世紀でも砂糖は市場には出回っていたわけですが、値段があまりに高いので、庶民はあまり気軽に使えるものではありませんでした。そこで労働者層向けの甘味料として、「ダフ(またはダフト)」と呼ばれる混ぜものが入った砂糖が売られていました。これは石灰や石膏などの粉末を混ぜた砂糖です。味は純粋な砂糖と比べるとはるかに落ちますが、健康面には問題がありません。

 

19世紀半ば、ウィリアム・ハーデカーという男が、ブラッドフォード中心部のグリーンマーケットの屋台でお菓子を販売していました。

ハーデカーはお菓子を作っているわけではなく、ジョセフ・ニールという男が経営する店から「ロゼンジ(lozenges)」と呼ばれるキャンディーを仕入れていました。

ロゼンジとは砂糖とガムをベースにペパーミントオイルを混ぜたキャンディー。

しかし、砂糖が高価だったためニールは粉末石膏を含むダフを利用していました。

 

2. ヒ素が混ざったお菓子

1858年10月30日、ニールは使用人のジェームズ・アーチャーに、ハーデカーのキャンディーに使うデフを、薬屋のチャールズ・ホジソンから買うように命じます。ホジソンの薬屋は3マイル(4.8km)ほど離れたベイルドンブリッジにありました。

ホジソンの薬局に着いたアーチャーは、さっそくデフを求めました。しかしこの時、アーチャーは病気で寝込んでいたため、若い助手のウィリアム・ゴダードが応対しました。ゴダードはあまりよく分かっておらず、ダフではなく12ポンド(5.4kg)の三酸化ヒ素をアーチャーに売りつけてしまったのです。まずこれが第一のミスです。

仕入れた「ダフ」を用いて、ニールの店で働くベテランの菓子職人ジェームズ・アップルトンがキャンディーを作りました。アップルトンは完成したキャンディーがいつもと様子が違うことに気づいていました。しかも彼は菓子製造中と製造後に数日間、嘔吐や手や腕の痛みで体調を崩しました。しかしそれが毒によるものだとは気づいていませんでした。第二のミスです。

 

3. 21人が死亡、200人がヒ素中毒に

こうして40ポンド(18kg)のキャンディーがハーデカーの手元に届きました。

ハーデガーは菓子がいつもと様子が違うことに気づきましたが、ニールに差し戻すことはしませんでした。低品質だとして、値下げ交渉の材料にしてしまったのです。第三のミスです。

ハーデカーはキャンディーを試食しすぐに体調を崩しました。しかしそれでもおかしいと思わず、その夜に屋台でキャンディーを販売しました。第四のミスです。

キャンディーを買って食べた人のうち21人が死に、さらに1日以内に約200人がヒ素中毒で重篤な状態になりました。後の調査で、一つのキャンディーに2人を殺すのに十分な量のヒ素が含まれていたこと、ハーデカーが販売したキャンディーは合計2千人も殺せる量であったことが明らかになりました。

すぐに調査がなされ、薬局の助手ウィリアム・ゴダードが逮捕されました。

後に、薬局の主人チャールズ・ホジソン、製造元のジョセフ・ニールも過失致死の罪で裁判にかけられました。後にゴダードとニールに対する起訴は後に取り下げられ、ホジソンは1858年12月21日にヨーク治安裁判所で審議され、無罪となっています。

現代だととても信じられません。

 

この事件は当時のイギリスに大変な衝撃を与えました。

この事件がきっかけとなり、1868年に薬局法が制定され、化学者や薬剤師が指定毒物の管理・販売に責任を持つとされるようになりました。それ以前は普通に免許を持たなくても売ることができたわけです。恐ろしい話です。

また、第一次グラッドストン政権(1868年~1874年)では、この事件をきっかけに食品の不純物混入を規制する法律が検討・導入されています。

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まとめ

今では考えられないような事件です。

途中、いくつもミスに気づくポイントがあったはずなのですが、すり抜けてしまっています。何で気づかないんだよ、と傍から見たら思ってしまいますが、現代の我々の仕事のミスも結構こういうものかもしれません。

「まさか、ダフだと言われてヒ素を売られたとは思わなかった」

「まさかキャンディーにヒ素が混じってるとは思わなかった」

という、当事者からすると想定外の「まさか」なのでしょう。

その後に政府が毒物の販売規制をしたように、人間の間違いは仕組みでカバーするしかないのでしょう。

 

参考サイト

"Dying for a Humbug, the Bradford Sweets Poisoning 1858" HISTORIC UK

1858 Bradford sweets poisoning - Wikipedia