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サウナの文化史

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人類と蒸し風呂の長い歴史

現代はサウナが大ブームとなっています。

各地にサウナをメインとした温泉施設が作られ人気になっている他、野外サウナやサウナイベントが催されるなど、「かっこいい」文化として認識されているようです。

サウナー(サウナ愛好家のこと)が言うには、サウナの高温と水風呂の低温を繰り返すと、体が「ととのう」という状態になるらしいです(私はよく理解できないのですが)。サウナ通と呼ばれる人が出てきてメディアを賑わせるなど、ブーム真っ盛りといったところです。

現在一般に言う「サウナ」のルーツは北欧にあるのですが、「蒸し風呂」という文化は世界各地に存在し愛されてきました。一国だけでも一冊の本になるテーマですが、世界各地の蒸し風呂文化をざっくりまとめてみたいと思います。

 

1. サウナの起源とは

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サウナの来た道

現在蒸気浴はサウナと呼ぶことが一般的で、蒸気浴とか蒸し風呂という言葉自体あまり使うことがないかもしれません。

サウナ(Sauna)はフィンランド語で、厳密には石を高温に熱した上に薬草の成分を煮出した水をかけて蒸気を起こし部屋を高温にする風呂の方式を言います。日本の入浴施設でも「サウナ」と言いますが、遠赤外線機器を用いた熱気浴の一種である場合も多いです。

サウナとはフィンランドの蒸し風呂のことを言い、他にも国ごとに蒸気浴の種類がある(日本独自のものもある)ので、「蒸気浴=サウナ」ではないです。そして蒸気浴の発祥がフィンランドというわけでもありません。

蒸気浴の起源は正確には分からないものの、中央アジアから東ヨーロッパの草原地帯の遊牧民が起源である可能性があります。

ギリシアの歴史家ヘロドトスは『歴史』にて、黒海北方の草原地帯に暮らす遊牧民スキタイ人の習俗を書き残しており、その中で彼らがフェルト製のテントの中で焼いた石に大麻の種子を振りかけて煙を発生させる熱気浴を行っている様子が記されています。

同じ要領で、焼いた石に水をかける蒸気浴も遊牧民起源である可能性があります。溜めた水を沸かして浸かるよりも、蒸気浴のほうが水と燃料を節約できるというメリットがあります。資源が限られている遊牧民には打ってつけの入浴方法と言えます。

何も証拠がないので推測の域を出ないのですが、スキタイ人を始めとした遊牧民の蒸し風呂文化が各地に伝播し、ロシアや北欧、ヨーロッパ、インドへの伝わっていったのかもしれません。

北米大陸の先住民にも熱気浴・蒸気浴の伝統があり、原理的にはサウナと同じものなので、もし人類がサウナの技術を携えて北米に渡っていたのだとしたら、サウナの歴史はもっと古く1万年以上前にも遡る可能性もあります。

 

フィンランドのサウナ

人口500万人のフィンランドには約300万台のサウナがあるそうで、一家に一台あるレベルです。

フィンランドのサウナの歴史は紀元前7000年頃まで遡るそうで、古代はスキタイ人のようにテントで熱気浴・蒸気浴をしていたようですが、2000年前ごろにはサウナ用の建物(トゥルペ)の建築が始まりました。地面を掘って床に石を敷き詰め、その上に人が座れるスペースを作り、屋根の上に土を乗せ草を生やした建物で、石を木で焼いて暖めその上に水をかけて蒸気を作るものです。

フィンランドには木が豊富にあるため、火を熾すのに木材が使われますが、木材が燃える香りと熱気と一緒に楽しみます。これはサヴサウナ(スモークサウナ)と呼ばれ、煙突のない小屋の中で火を熾して煙を充満させ、小屋が温まったら煙を外に逃がして人が入るというものです。煙を外に出しても木の焦げた香りが残り、この香りこそがサウナ効果を最も高めると考える人もいるようです。

フィンランドでサウナ文化が発展したのはいくつか理由がありますが、最も大きな理由としてサウナの中は衛生状態が良いと考えたことがあります。高温状態が外気よりも清潔と考えたので、フィンランド人はサウナの中で過ごし、食事をし、お産をしたり死者を弔ったりしました。次に、氷点下になる気温で簡単に暖を取ることができたこと。そして薪となる木材に困らなかったこともあります。

フィンランド人にとってサウナは生活の一部で、伝統的なサウナの日である土曜日はサウナに行くし、個人の住宅だけでなく、会社や国会議事堂にすらあります。世界各地のフィンランド大使館にも必ずサウナがあり、在外公使は外交としてサウナを活用しています。そもそもフィンランドサウナが有名になったのは、1936年のベルリン・オリンピックで選手村にフィンランド選手団がサウナを持ち込んだことがきっかけで、そこからサウナという単語が広がりました。

 

2. 古代ローマ人が楽しんだ蒸し風呂

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漫画『テルマエ・ロマエ』で一躍有名になりましたが、古代ローマ人は大変に風呂好きな人たちでした。

ローマ人にとってテルマエ(公共浴場)に出かけるのは一日の楽しみであり、大事な社交の時間でした。一日の仕事をお昼に終えた人々は、午後にテルマエに出かけて、おしゃべりをしたり、運動をしたり、ボードゲームを楽しんだりしていました。

ローマ式お風呂は「循環入浴」というものです。浴場によって多少差はあったようですが、基本的には以下のようなものです。

浴場に着いた人々は、まず運動をして汗を流す。脱衣所に行って服を脱ぎ、入浴用の布をあてがわれ、まずはテピダリウム(微温浴室)の湯船に入って体を適度にならし、次にカリダリウム(熱浴室)の湯船に移る。そしてラコヌクム(発汗室)に入る。ラコヌクムは焚火の炉の真上に作られた高温度の部屋で、ここで入浴者は思い切り発汗する。最後に体にオイルを塗り、マッサージを受け、アカを落としてもらって、最後に水風呂に入るかナタトリウム(冷水プール)で泳いで体を引き締める。

徐々に体を温度に慣らしていくというもので、現代的な交互浴よりは体への負担は少なそうです。

浴場はローマ人の社会生活の中心的な場所で、市民の衛生状態を良くしただけでなく、美しい肉体を維持することが善という古代地中海な観念の維持にも役立ちました。ローマ帝国がヨーロッパから現在の中東、北アフリカに征服地を広げるにつれて、風呂の習慣も広がっていきました。

当時は混浴が珍しくなく、浴場の中には売春宿を兼ねた場所もありました。風俗の乱れは社会問題にもなり、特にキリスト教が広がると欲望の解放が社会的に敬遠されるようになりました。また社会インフラの維持が困難になり、浴場への水の供給が困難になっていくと、風呂の習慣は段々と廃れていきました。

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3. トルコ式浴場ハンマーム

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ローマの入浴文化はイスラム圏に受け継がれました。
イスラム式の浴場はハマームと呼ばれ、基本的にはローマ人と同じ循環入浴方式を採用しました。ぬるいお湯にまず入って、その後熱い蒸し風呂で汗を流し、その後体を覚ましてリラックスする、というものです。ただし運動の要素は切り捨てられ、代わりに音楽や瞑想、マッサージに取って代わりました。落ち着いた雰囲気の中で心と体を落ち着かせる内向的な場所になったわけです。

例えばアル・アンダルス、イスラム支配下のイベリア半島では浴場が各地に建設され、後ウマイヤ朝の都コルドバだけで約300件の浴場があったそうです。ナスル朝の都グラナダにあるアルハンブラ宮殿の内部には、王専用だったと思われる美しいムーア式の浴場すらあります。

オスマン帝国でもハマームが人気でしたが、そのほとんどがビザンツ帝国時代の浴場を改築したもので、ローマ時代の水道を使って水が供給されました。インフラ面でもローマの遺産が再活用されていたわけです。

ハマームはイスラムの女性にとっては重要な社交の場で、家やハーレムから出て友人と会って語ることができる唯一に近い場所でした。女性たちは低温の蒸し風呂で何時間もおしゃべりをして、オイルを塗ってマッサージをした後、トルコ・コーヒーをゆっくりと飲みながらまたお話の続きをするというわけです。

17世紀には、このようなトルコ式の浴場はロンドンやウィーン、パリを始めヨーロッパ各地にも伝わり、大ブームとなりました。しかし中には売春のサービスを行う施設もあり、いかがわしいイメージがついてしまい、それが「トルコ風呂」という大変不名誉な名前になってしまいました。

 

4. 東アジアの蒸し風呂文化

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日本の蒸し風呂

現代の日本では風呂と言えば湯舟につかるのが一般的ですが、鎌倉時代には風呂と言えば熱気浴または蒸し風呂のことを言いました。熱気浴は室という小屋の中で窯で湯を焚き内部を100度くらいまで上げるもの。蒸し風呂は室の中で熱した石に水をかけて蒸気を発生させる「石風呂」です。フィンランドサウナと非常によく似ています。

鎌倉時代成立の惟宗具俊(これむねともとし)の『医談抄』には風呂に関する言及があります。

近代は上下風呂を好みて浴場を不用、不可心事なり。遊戯沈酔の人の所為なり、湊理(皮膚)をむしあげて冷水をかけあらはば、久しく雑談して風を引くなるべし

「皮膚を蒸して冷水をかける」とあるのでまさに蒸気浴のことです。蒸し風呂のほうが人気が高く浴場は使われなくなってしまった、とのことなので、蒸し風呂は鎌倉時代に生まれて当時大流行したのかもしれません。

中世では寺院が貧しい人のための施しとして「施湯(せとう)」を行いました。例えば、源頼朝の側室・北条政子は、鎌倉の南新法華堂に施湯の施設を建てて、毎月6日の決まった日に湯を人々に提供していました。施湯は外で掛け湯をさせるのが一般的でしたが、中には蒸し風呂を提供する寺もあったようです。

日本風サウナの石風呂は別名「伊勢風呂」とも言われ、戦国時代には伊勢は風呂が有名な場所として知られました。江戸初期に成立した『甲陽軍鑑』品第二十五にこのようなことが書かれています。

風呂はいづれの国にも候へ共、伊勢風呂と申子細は、伊勢の国衆ほど熱風呂を好みて、能吹申さるるに付て、上中下共に熱風呂にすく。在郷まで大方、村一つに風呂一つづつ候て、既に夫あらしこまでも風呂すくすべを存候は、あつき風呂すく故かと見え申候

当時の伊勢では村に一つは蒸し風呂施設があって、金持ちから貧乏人まで皆楽しんでいたということです。驚いたような調子で書いているので、これは伊勢に特有の文化で、他の地方ではちょっと考えられないような現象だったようです。

江戸に初めて登場した銭湯は、この「伊勢風呂」でした。

一五九一年に銭瓶橋(現在の東京駅の北のあたり)に伊勢与一という人物が銭湯を開業し、それが当時江戸では珍しい蒸し風呂だったので多くの人気を集めたそうです。その後江戸でも蒸し風呂が一般的になりました。風呂が現在のような湯舟の形式が一般的になったのは江戸も後期の頃です。このように日本の蒸し風呂は長い歴史を持つわけです。

 

朝鮮半島の汗蒸(ハンジュン)

朝鮮半島では伝統的に汗蒸(ハンジュン)と呼ばれる蒸し風呂がありました。

基本的には日本の伝統的な蒸し風呂と似ています。石をくんで泥土を塗り込んだドーム型の汗蒸所の中で松を燃やし、火が尽きた後に灰を取り出し、濡れた蓆(むしろ)を入れるというもの。貴族も庶民も男も女も好んで入りに来たそうです。

現在ではこのような伝統的な汗蒸はなくなってしまったようですが、現代では汗蒸幕(ハンジュンマク)または蒸氣房(チムジルバン)という名前で、現代的なサウナ施設として人気があります。

伝統的な汗蒸が高温なのに対し、汗蒸幕は50~90度程度の低温であることが特徴です。日本の健康ランドと似ていて、仮眠施設や食堂、売店、カラオケ、マッサージ、宴会場などを備えています。ほとんど24時間営業しており、安く泊まれるので旅行者が宿泊に使う場合もあります。

 

5. 宗教と蒸し風呂

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僧と蒸し風呂

宗教と蒸し風呂も古くから関連があります。日本に風呂が伝わったのは仏教の伝来と同時期と考えられています。仏教では水や湯を体にかけたり体を浸したりして、世俗のけがれを流し去る「沐浴の功徳」の教えがあり、日本に風呂の習慣が根付いたのは仏教の布教の影響が大きいとされます。先に述べたように、仏教寺院が人々に施湯をしたのもそういった教えの一環です。

一方で神道や修験道では、修行者が川や滝で禊をしケガレを払う習慣があります。仏僧が修行の際に体を清めるのは自然な行為として受け入れられたことでしょう。

インドの仏教でも風呂は薬草などを入れた湯を沸かし、蒸気を浴堂内に取り込んだ蒸し風呂形式でした。日本の仏教でもそれを取り入れ修行僧は蒸し風呂で体を清潔に保ちました。

 

異世界と交流するための蒸し風呂

ロシアでも伝統的に蒸し風呂は利用されてきましたが、中世までは蒸し風呂は信仰の場所として重要でした。

中世ルーシでは、蒸し風呂で人生の通過儀礼のための魔術的な儀式が行われ、それはキリスト教会の様々な教会儀礼(洗礼や婚姻、葬儀)の代替的な役割を果たしていました。

11~12世紀に記された『過ぎし年月の物語』には、キエフ大公オレーグがコンスタンチノープルで、蒸し風呂の儀式を実施する権利をルーシのために得たこと、オルガ大公夫人が婚姻のための蒸し風呂の儀式の代わりに、葬礼の際の儀式を行ったことが書かれています。

古代ルーシの多神教の世界では、人々は蒸し風呂に入って植物を燃やし煙を吸い、汗を流すことで死者と魂の世界と交流できると考えていました。

このような古代からの宗教文化がキリスト教がルーシの宗教になった後も根強く残り、キリスト教信仰と混合して残っていたわけです。

 

スウェットロッジの儀式

蒸し風呂はネイティブアメリカンの文化で非常にスピリチュアルな儀式に唱歌されています。

ネイティブアメリカンの蒸し風呂は原始的なもので、木の枝でドーム状に組んだ骨組みの上にバッファローなどの毛皮をかぶせたもので、古代スキタイ人が作ったものと似ています。そうして簡易的に作ったスウェットロッジの中に、真っ赤になるまで焼いた石を入れ、水をかけて水蒸気を起こします。

参加者全員がテントの中に入ると、長老が歌と祈りを捧げ儀式を行います。暗闇の中で、神秘的な音楽と祈りの声が捧げられる中で熱気が体を包み、陶酔状態に陥ります。意識が朦朧とする中で神秘的な体験を得て神と交信し、精神と肉体の表裏一体の関係を認識し、熱は浄化を通して身体の健康を促進する、というものです。

幻覚を見るということなので、おそらく脳が酸欠状態になるまで長時間かつ高温で儀式をやっていたのだろうと思います。

人々がここまでサウナを愛してきた理由の1つには、この「陶酔感」があるのだろうと思います

脳を酸欠状態にしたり、高温と低温で交互浴をすることで、ハイな状態に陥る。極端にやりすぎると体に良くないと思われますが、そこは人間。サウナに関しても究極、もっと気持ちいい方法、快楽を得られる方法を追い求めています。

それはそれで、人間の一つの文化ということなのでしょう。

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まとめ

かなりまとまりのないものになってしまいましたが、サウナにまつわるあれこれをまとめてみました。

こうして歴史を眺めてみると、確かにサウナは陶酔感や快感を求めるものではありますが、美しい肉体を維持するためとか、精神の安定のためとか、楽しみ方は一様ではないことがわかります。

私個人はサウナは大好きで、しょっちゅう行っているのですが、「ととのう」を味わないと素人、みたいなサウナカルチャーは苦手です。急激に体の温度を変えるのが気持ちいいとどうしても思えなくて、水風呂は嫌いです。

日本人は「サウナ道」みたいに形式を決めてしまうのが好きですけど、色んな楽しみ方が許されるようになってほしいです。

 

参考文献・サイト

"ロシアにおける二重信仰について К вопросу о древнерусском <<двоеверии>>" ボブロフ アレクサンドル Бобров Александр Г. 国立国会図書館デジタルコレクション

「水と温泉の文化史」アルヴ・クルーティエ 著, 武者 圭子 訳 1996年2月15日第一刷発行 三省堂

「風呂と日本人」 筒井 功 2008年4月20日第一刷発行 文芸春秋

"東福寺浴室・東福寺見どころ(修学旅行・観光)" 京都ガイド