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ヨーロッパに残るケルト人由来の地名

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Work by Feitscherg

現在のヨーロッパに多くに残るケルトの地名

大量の移民が中東やアフリカからやってきているので割合はよくわかりませんが、いわゆる「フランス人」の大部分はケルトの血を引くそうです。

フランスという国名は中世に西ヨーロッパを形作ったゲルマン系のフランク王国から来ていますが、支配層であるゲルマン人に先住のケルト人が溶解して現在のフランスが出来ていきました。

現在ケルトの文化を濃く残すのは、ウェールズ、スコットランド、アイルランドですが、古代はヨーロッパはおろかアナトリアにまでケルト人は拡散していったので、各地にケルト語由来の地名が残っています。

今回はケルト人の移動の歴史と、現在も残るケルトの地名を見ていきたいと思います。

 

 

1. ヨーロッパ先住民族ケルト人

一般的にはケルト人と言われていますが、フランスではゴール人、イタリアではガリア人、ギリシャではガラタイ人、アイルランドではゲール人など様々な呼ばれ方をしています。

それだけ多様な地域に彼らが移動していったわけですが、元々彼らの居住地はヨーロッパ中央部、ライン川とドナウ川の間でした。

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青銅器文化の時代から独自の文化を育んだケルト人たちは、鉄器文明に移行してから強大になりました。両刃の剣、馬、戦車をいち早く取り入れ、ヨーロッパ中西部を支配地域に治めていき、集落を作っていきました。

紀元前3世紀頃ごろになると、人口の増加や東のゲルマンの圧迫から各地に拡大していき、東はアナトリア高原、西はブリテン島、南はイベリア半島にまで進出しました。

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ケルト人拡大期に彼らに付けられた地名は今でも多く残っています。

 

自然地形

河川名で言うと、ライン(流れ)、マイン(緩やかな)、ルール(沼の溝)、セーヌ(ゆったりした)、マルヌ(母なる)、テムズ(暗い)、ハンバー(たっぷり)など、河川の特徴が表現されています。

ちなみにドナウとはケルト語で「河川」を意味するので、ドナウ川というのは「川川」という意味になってしまいます。

山の名前で言うと、アルプス(高地牧場)、ピレネー(尾根)、アペニン(峰)など、代表的な山の名前でもこれだけあります。

 

地方名・都市名

地方名だと、ボヘミア(戦士の村)、オーベルニュ(優れた戦士)が有名。

都市名はたくさんあり、例えばトゥール(水)、ポワティエ(彩色した人)、カレー(水路の住人)、シャルトル(石の山)、ランス(支配する人)、ルマン(頂きの人)、メス(谷の人)、など。

部族名がそのまま地名になった場合もあり、例えばベルギーの語源はベルガエ族だし、パリの語源はパリシー族です。

ちょっと様相は違いますが、ポルトガルの語源はラテン語のPorto(港)、Gallo(ガリア人の)に由来します。

 

 

2. ケルト人、南へ東へ

紀元前300〜400年ごろ、ケルト人は南下してアプルス山脈を超え、イタリア半島に侵入しました。

当時の北イタリア・ポー川流域には、先住のエトルリア人が居住していましたが、ケルト人は彼らを制圧してしまいました。

ローマ人はこれらのケルト人居住地を「ガリア・キサルピナ((アルプスの)こちら側のガリア)」と呼び、「ガリア・コマータ(長髪のガリア)と区別しました。

 

蛇足ですが、ローマ人はケルト人のことを「Galli(ガリ)」と呼び、ケルト人居住区のことを「Gallia(ガリア)」と呼びました。この「a」はイタリア語で「土地」という意味で、イタリアとかヴェネツィアとかシチリアも同じ。もっと言うと、旧イタリア植民地のソマリアも同じです。なので、ソマリア人というのは間違いで、ソマリ人と言わねばなりません。

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さて、ケルト人インスーブレス族はエトルリア人の都市メルプムを占領し、この地をMedhe-Ian(平野の中心)と名付けました。紀元前222年にローマ人によって占領され、ラテン読みの同義でMedio-Ianumと呼ばれるようになり、後に短縮されて「ミラン」となりました。

同じく西アルプスの山麓を占領したタウリニ族はこの地をタウラシア(タウリニの地)と命名し、これが後に訛って「トリノ」になりました。

 

チェコの西部に移住したケルト人はボイイ族(戦士族)であったため、この地はBoii-Haemm(戦士の村)と呼ばれ「ボヘミア」と呼ばれ、ドイツ読みではベーメンと呼ばれました。ボイイ族の一部は南下しドイツ南部に入植し、バイエルン(ベーメンが訛ったもの)を作り、そのまた一部が南下しエトルリア人の町フェルシナを制圧しBononiaを作りました。この町は後にイタリア風に訛って「ボローニャ」となりました。

 

さらに東方では、ケルト人は東方に移動しドナウ川沿いの小高い丘の上に要塞都市シンギドゥヌム(水上の砦)」を建設しました。後にローマ帝国によって制圧されローマ帝国のドナウ艦隊の基地となり、帝国の崩壊後9世紀頃にスラヴ人がこの街を再建し、ベオグラードとなりました。

 

ケルト人はさらにドナウ川を下り、ダキア(ルーマニア)にガラツを建設しました。

ガラツの東には黒海に注ぐドナウ川の最下流の三角地帯が広がり、歴史的にもドナウ川最大の貿易港として発達しました。

 

さらにケルト人は東南に進み、紀元前279年にギリシャを襲いますがこれに敗れ、小アジア半島に逃れていきました。その途中でボスポラス海峡と金角湾を望む一角を入手したケルト人の一部族ガラタ族の名が、現在でもトルコ・イスタンブールのガラタ地区に残っています。サッカーの強豪・ガラタサライは有名ですね。

小アジアに渡ったケルト人はビュティニア王国のニコメデス一世に仕え、現在のトルコの首都・アンカラに定住してガラテア国を作りました。

 

 

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3. ブリテン島に渡るケルト人

紀元前7世紀頃から、ケルト人はドーバー海峡を超えてブリテン島への移住を開始していました。彼らはプリタニ族と言い、後にブリトン人と呼ばれる人々になります。

言わずもがなですが、ブリテン島の語源です。

ロンドンとはLon-Dinosという人物または部族が語源だし、カーディガンも部族長の名前が由来だそうです。

他の地名でも、リーズ(強流の縁)、ヨーク(イチイの木)と数多くあります。後にアメリカに渡った移民により、オランダの植民地ニューアムステルダムの地が、ニューヨークと改名されるので、この世界最大の町の語源も、元を正せばケルト人なのです。

 

さて初期の移住者はテムズ川流域に居住しますが、次にやってきたパリシー族はハンバー川流域に移住し、ベルガエ族やトリノウァンテース族は南東部のコーンウォール半島に移住、カレドニア族はブリテン島北部に移住していきます。

 

紀元前1世紀、ユリウス・カエサルによる「ガリア征服」が完了すると、ローマの支配を嫌がるケルト人が大挙してブリテン島に逃れました。彼らは大陸のケルト人と連携し武器や兵士を支援したため、ブリテン島が反ローマの牙城と化しました。

ブリテン島に本格的に遠征をしたのは紀元後42年クラウディウス帝の時代。

ローマ軍はカトゥウェッラウニ族の支配するカムロドゥヌム(現コルチェスター)を占領しここに属州ブリタニアを建設。その後、軍団兵を駐留させて遠征し徐々に支配領域を拡大していきました。

 

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しかし、4世紀ごろになるとローマ帝国の弱体化に加え、東からはアングロ族・サクソン族が侵入するようになり、ローマによる安全保障を機能しなくなっていきます。

とうとう5世紀にローマはブリテン島から撤退。先住のケルト人とゲルマン人が衝突するようになります。

長年の平和に慣れたケルト人と、海賊暮らしの長いゲルマン人だと勝負にならず、ケルト人は居住地を終われ、ウェールズやコーンウォール半島に逃げ込み、さらにアイルランドや、逆に大陸側のフランス・ブルターニュ半島に逃げ込みました

ブルターニュの地名は、フランス語の「小ブリテン」という意味で、このような歴史的経緯から来ています。

 

ウェールズという地名は、ゲルマン人がケルト人のことを「Wealas(よそ者)」と読んだことから来ています。

また、スコットランドはアイルランドに渡ったケルト人の中で、内戦に敗れた者が逆流してブリテン島に再度渡った連中が作った国で、スコットとは「放浪者・掠奪者」という意味です。

 

アイルランドではケルト人が先住アイルランド人を吸収し、小中部族によって小王国が各地に建てられました。

現在のアイルランドの首都ダブリン(黒い湖)や、ボルティモア(大きな家の町)もこの当時に建設されたものです。

 

 

 

まとめ

ケルト人の放浪の歩みと、現在の地名について簡単にまとめました。

これだけてんこもりだと、探せばもっと面白い語源とエピソードがある気がします。

しかしまあ、これだけヨーロッパ各地に拡散し影響を与えていったのに、いまその末裔がアイルランドとスコットランド、ウェールズに一部残るのみ、しかも未だにイギリスのアングロ・サクソンに圧迫され続けているという歴史は壮絶というか、未だにその文化と血脈を残し続けているケルト人の誇り高さたるや、想像するに余りあります。

 

 

参考文献

世界地名の旅 蟻川明男 大月書店

世界地名の旅

世界地名の旅

 

 

 

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