歴ログ -世界史専門ブログ-

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名将サンタ・クルス侯爵とスペインの栄光の時代

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 近代スペイン海軍の父

サンタ・クルス伯爵アルバロ・デ・バサン(1526-1588)は、「太陽の沈まぬ国」と称された帝国の最盛期を支えた、スペイン海軍の最高司令官。

16世紀当時、地中海を勢力下に置いていたオスマントルコ海軍を打ち破り、当時新興国だったイギリスやオランダの挑戦を退け、

生涯において一度も負けを知らず、大海洋帝国スペインの全盛期を支えました

イギリスの勃興を予期していたバサンは、打倒イギリスの準備を進めますが、その途中に死去。

バサンなきスペインはアルマダの海戦でイギリスに敗れ、凋落の道を歩み始めます。

このエントリーでは、バサンの生涯とスペインの栄光の時代を追っていきます。

 

 

 1. 軍事エリートの家系に生まれ英才教育を受ける

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バサンはスペイン・グラナダの生まれ。

祖父は1492年、イベリア半島最後のイスラム王朝・グラナダ朝への侵攻作戦に従事。父は海軍の一員としてオスマン支配下のチュニス侵攻に従軍。文字通り軍事エリートの家系。

子どもの頃から父親の戦艦に乗船して、航海術、砲術、気象学、組織マネジメントなど、英才教育を徹底的に叩き込まれます。

 

2. 初陣・ムロス湾の戦い(vs フランス)

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イタリア・ナポリ公国の支配権を巡るフランスとスペインの争いから始まり、周辺の大国を巻き込み約100年の間、イタリアの覇権を巡る争いが続いていました(イタリア戦争)。

若きバサンは、オスマントルコと同盟を結んだフランスを懲罰する、という名目で、第5次イタリア戦争(1542-1546)に父とともに従軍。

北スペインのムロス湾に航行してきた25隻のフランス艦船を迎い討ち、わずか2時間半の間に壊滅せしめます

この結果、ビスケー湾は完全にスペインの制圧下に入り、フランスは船でのイタリアへの補給路を断たれてしまいます。

その後のイタリア戦争で、フランスはイタリアに持つ影響力を失い、ハプスブルグ家(スペイン、神聖ローマ帝国)のイタリア支配が深化することとなります。

 

3.サラセン海賊を攻略

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北アフリカ•サラセン海賊の基地を攻略 

現在のモロッコ沿岸にあるペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラは、当時はサラセンの海賊の住処になっており、ここを本拠に地中海各地で乱暴狼藉を働いていました。

1564年、バサンはビリャフランカ侯爵指揮のサラセン討伐隊に参加。スペイン軍船93隻は、この小さな島を包囲し占拠

サラセンの一大拠点を潰すことに成功します。

※ちなみに、現在でもこの小さな陸繋島はスペインの飛び地で、「世界最短の国境」と言われています。

 オスマン・トルコ海軍を攻撃

 翌1565年オスマン•トルコ帝国が、マルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)が籠るマルタ島を包囲。

バサンは抵抗を続けるマルタ騎士団を支援すべく、マルタ島を包囲するオスマントルコ艦隊に攻撃を加えます。3ヶ月の包囲の末、オスマン軍はマルタから撤退。

この勝利はキリスト教陣営にとって、ことさら大きな勝利となりました。

 

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4. レパントの海戦 冷静な指揮で戦線の崩壊を防ぐ 

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天下分け目の海戦レパント

 1571年、キリスト教連合(スペイン、ヴェネツィア、ジェノヴァ、教皇領、マルタ騎士団)の船300隻と、オスマントルコの船285隻が激突したレパントの海戦は、まさにその後の地中海の覇権を占う、天下分け目の一大決戦でした。

 的確な支援部隊の手配

上陣は、ヴェネツィアの元首バルバリーゴ vs サラセン海賊シロッコ、

中陣は、キリスト教連合総司令官ドン・フアン vs オスマン艦隊総司令官アリ・パシャ、

下陣は、ジェノヴァの海将ジャナンドレア・ドーリア vs サラセン海賊ウチャリィ。

戦いは、上陣、中陣の艦隊が激しくぶつかり、下陣は互いに回り込もうと陣を離れ南下していきます。

バサンは手持ちの30の船を率いて後衛に位置し、上陣と中陣の防衛戦が薄くなったとみるや、素早く援軍を送り込みます。

バサンの冷静な指揮のおかげで、キリスト教連合の戦線は維持。

結果、司令官のアリ・パシャと、海賊シロッコを失ったオスマン艦隊は崩壊。

 ウチャリィ隊は撤退し、キリスト教艦隊の大勝利に終わります。

 

5. ポンタ・デルガダの海戦、イギリスとの確執

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 1580年、ポルトガルの王位継承権問題から発生した、ポルトガル継承戦争では、

スペイン王フェリペ2世を後継者として推すスペインに対して、フランスがアントニオ・デ・ポルトガルを推挙。そのフランスを支援したのがイギリスでした。

伝統のフランスとスペインの対立に新たなプレイヤーとして加わったことで、イギリスは公然とスペインの覇権に挑戦をしてきた構図となりました。

ポルトガル沖で戦われたポンタ・デルガダの海戦では、バサンはわずか25の艦隊で、敵の50の艦隊を打ち破る大戦果を上げます。

 この結果、ポルトガルはスペインの勢力下として残り、イギリスの野望はくじかれます。

 

6. イギリス海賊 フランシス・ドレークの挑戦

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一方、スペイン領フランドル地方 (現:オランダ)では、新教徒によるスペインからの独立運動が起こっていました。これに目をつけたイギリスは、オランダの新教徒たちを支援し影響力の拡大を狙います。

「イギリスを徹底的に叩く必要がある!」

バサンはフェリペ2世に進言。そして自ら150艘にもなる大艦隊の準備に取りかかりました。

その情報を聞きつけたイギリス女王エリザベス2世は、海賊フランシス・ドレークに指示を出し28艘を率いさせ、艦隊の物資が集結していたカディス港を襲わせます。

ドレークは湾内で手当り次第に大砲をぶっ放し、 湾内にいる船16艘が炎上、遠征用の備蓄品を保管していた沿岸の倉庫群が多数被害を受けます。

ドレークは6艘を捕獲したうえでカディス港を後にし、その後スペイン沿岸の港を荒し回って、お宝をたんまり満載してイギリスに帰還。イギリス国民の大歓迎を受けます。

 

7. イギリスとの一大決戦の準備を進めるも死去

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ドレークの暴挙にスペイン中が怒り狂う中、バサンは艦隊の準備に追われていましたがその途中、63歳で死去。

カディス湾の事件の責任を負わされたたため、という説もあります

 バサンの死去を知ったフェリペ2世はしばし茫然自失したそうです。

「バサン以外にいったい誰が、大艦隊の指揮を執れるのか!」

 すったもんだの挙げ句、海戦の経験のないメディナ・シドニア公爵が推挙されます。

公爵は突然の抜擢に腰を抜かし、「船酔い」を理由に断ろうとしますが、

フェリペ2世はそれを許さず、とうとう大艦隊の出陣を迎えることなってしまいました。

 

 

8. 伯爵なきスペイン アルマダの海戦で敗れる

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ロンドン攻略作戦

メディナ・シドニア公は、良く言うと好人物、悪く言うと臆病者で、フェリペ2世と約束した作戦を忠実に守ろうとしました。

 それによると、リスボンからはほぼ海兵のみで構成されたスペイン艦隊で出航し、途中オランダのパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼの陸上部隊と合流し、イギリスに上陸、ロンドンを占領する、というものでした。

 地上部隊と合流できず、参謀間でも軋轢が

リスボンを出航しブルターニュ沖に到着しますが、いつまで待ってもパルマ公が現れません。

「イギリス艦隊と一戦を交えるべきだ!」

という将校たちの進言も、シドニア公は

「パルマ公と合流して作戦行動を共にしてからだ」

と聞きれいません。参謀の中でも軋轢が生じてきます。

そうしてイギリス周辺をウロウロするうちに、船内で疫病が発生したり、暴風で船が浸水したり、 事故で船が故障したりなどが続き、スペイン艦隊は徐々に消耗。

勃興するイギリス、沈むスペイン

結局、スペイン艦隊はイギリスに上陸するという最初のステップすら達成できず、グダグダなままスペインに引き上げます。

イギリスはこの海戦の勝利をきっかけに、スペインに代わって覇権国として成長。以降350年に渡る大英帝国の繁栄を築いていくことになります。

スペインは逆に、ポルトガル、オランダを失い、後のスペイン継承戦争で覇権国としての地位を完全に失ってしまいます。