泣く子も黙る恐ろしい海賊どもの逸話
映画とか漫画のネタによくなってカッコいいイメージを持たれがちな海賊ですが、
歴史の中の海賊はそんなフィクションの世界とは違って、乱暴狼藉を働く無法者であり、まともな神経の者であれば絶対に近づかない方がいい連中でありました。
フランシス・ドレークとか、ヘンリー・モーガンとか、黒ひげとか、著名な海賊はたくさんいますが、今回は当時ガチで恐れられた海賊たちをピックアップします。
1. フランシス・ロロネー
スペイン兵の心臓を手でわしづかみにし喰らった男
フランス人の海賊で主に南米を荒らしまわったフランシス・ロロネーは、海賊家業を始めたての頃にスペイン兵に殺されかけたことを異常なほど根に持っており、スペイン兵をぶっ殺し、お宝を分捕ることを生きがいとしていたような男でした。
ロロネー海賊団はベネズエラを拠点にしながらスペイン船を襲い、次第に組織を拡大し8隻の船と数百人の野郎どもを率いる大規模な海賊団に成長していました。
そんなある日、本拠地ベネズエラに戻ろうとしていたところスペイン海軍に急襲を受けました。応戦しながら逃げまどい、多くの仲間が殺されるも辛くも逃げ切った。しかし、スペイン船の警戒は厳重で、どっちの方向に逃げたら安全か分からない。
そこでロロネーは戦いの中で捕虜にしたスペイン水兵を並ばせ、そのうちの一人を自分の前にひざまずかせた。そして突然、剣で胸を切り裂き、空いた穴に手をねじ込み、わしづかみで心臓を取り出した。そして飢えた狼のように心臓に食らいつき、こう言ったそうです。
「どっちの方向が安全だ。もしウソをついたら、テメエらもこのようにしてやる」
スペイン兵は恐怖し、安全な方向を教えたので無事にロロネーは逃げ切ったそうです。
恐ろしすぎる…。
2. ジャン・ラフィット
米英戦争でアメリカを助けたフランス人海賊
ジャン・ラフィットはその名の通りフランス人で、いつかは定かではありませんが、アメリカのニューオリンズにやってきて海賊家業を働くようになりました。
彼は交易船を襲って配下の海賊どもを使って縄張りで売りさばいており、相当な被害が出ていたため、ルイジアナ州知事は当時の国家予算の半分に相当する300ドルの懸賞金をかけたほどでした。ジャン・ラフィットはそれに対し、配下の海賊どもにルイジアナ州知事に1000ドルの懸賞金をかけたというから、豪儀な男ではあります。
1800年頃アメリカとイギリスの関係は悪化しており、イギリスはジャン・ラフィットに目をつけアメリカの商船破壊をするように持ちかけましたが、彼はそれを断りアメリカのためにイギリス人と戦うことにしたのでした。
ジャン・ラフィットはアメリカ船は攻撃を加えず、また略奪で得たり密輸したりした貴重品をニューオリンズで売りさばいたため、地元の人からは英雄扱いされたそうです。
米英戦争中、ニューオリンズは戦略的要所にあったことからイギリス海軍による攻撃が懸念されていましたが、合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンはジャン・ラフィットと取引し、彼の海賊団を使ってニューオリンズの町の防衛をさせたのでした。
ジャン・ラフィット海賊団のおかげでニューオリンズの町はイギリス海軍を寄せ付けず、アメリカは勝利を収めたのでした。
3. スティーブン・ディケーター
若き海賊頭領の無双伝説
スティーブン・ディケーターは、海賊というよりアメリカの海軍軍人としてのほうが有名です。アメリカ海軍史上最も若くして大佐になった人物で、米英戦争でも大活躍した人物です。
ディケーターが名を轟かしたのは1803年にアメリカとオスマン領トリポリとの間に起った「バーバリア戦争」でのこと。
戦艦USSフィラデルフィアがトリポリの海賊に捕らえられ、25歳のディケーターはマルタの船員と偽って、数人の仲間と共に剣とパイクだけで武装した敵の港に夜襲をかけました。
ディケーターと仲間たちは応戦するトリポリの海賊を剣でぶったぎりまくり、海賊が戦艦を使えないように火をかけて炎上させ、一人の犠牲者も出さないで帰還しました。
その大胆な襲撃劇はアメリカ本国で称賛され、ホラーティオネルソン司令官は「世紀の最も大胆で勇敢な行為」と呼んだそうです。
ディケーターの別の逸話にはこんなものもあります。
ある時、彼の船の2倍の規模の船を襲って分捕ってきた。そして港に帰還すると弟が別の海賊によって殺されたことを知った。ディケーターは激昂し、クタクタに疲れた仲間を叱咤しそのままUターンしてその海賊の船に襲撃をかけ、弟を殺した海賊を撃ち殺し、仲間を捕虜にしたそうです。
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4. ベンジャミン・ホーニゴールド
著名な海賊たちを育てた海賊界のゴッドファザー
ベンジャミン・ホーニゴールドは海賊として活動した時期が2年あまりと短く、あまり有名な海賊ではありません。
しかし彼の海賊団からは、かの有名な「黒ひげ(エドワード・ティーチ)など名を馳せることになる海賊を輩出しました。
ホーニゴールドはバナハのニュープロビデンス島から小さな小舟で海賊家業をスタートし、短期間で30隻もの船を持つ大海賊団にまで成長させてしまいました。ホーニゴールド海賊団は当時最も重武装した船と屈強な隊員を乗せ恐れられた海賊団でした。
そんな大拡張を遂げたのだから、どんな乱暴者だったのかと思いきや、本人は実に紳士的な男だったらしいです。
例えば、ホンジュラスの商船を襲った時のこと。ホーニゴールドは金も人質も要求せず、唯一「帽子」だけを申し訳なさそうに要求したそうです。彼の部下が酔っぱらって帽子を海に捨ててしまったからでした。
ある時奪ったものは「ラム酒数本、砂糖、ショットグラス」だけでした。
これは彼のポリシーでもあったようで、ホーニゴールドは商船からモノを頂戴しているという意識があって、必要以上のモノを奪おうとしませんでした。
そのため、黒ひげなど彼の部下たちはそんな親玉に愛想をつかして出て行ってしまい、派手に暴れて悪名を馳せることになるのでした。
彼自身はその後海賊家業から足を洗い引退してコンドミニアムで暮らしていましたが、後にイギリス海軍と契約し海賊討伐隊の一員としてかつての仲間を取り締まる側に回りました。
5. ウィリアム・ダンピア
海賊兼科学者兼サバイバー
イギリス人のウィリアム・ダンピアは、海賊というより「初めて世界を3周した男」とか、博物学者としてのほうが有名です。
実際のところダンピアは科学者の顔を持ち合わせており、航海の最中に数多くの記録を残し、「バーベキュー」「アボカド」「チョップスティック」といったそれまで英語にはない言葉を収集・発明しました。オックスフォード辞書にはダンピアが収集・発明した言葉が数百も掲載されているそうです。
また、彼はオーストラリアの自然科学をいち早く西洋に紹介した人物で、カンガルーやコアラなどの珍しい動物の記録を残し、それらはダーウィンの進化論にも影響を与えましました。
このように科学での功績が大きかったダンピアですが、科学を進めるため「侵略と略奪」を眉一つ立てずに行える冷酷無比な男でもありました。
彼のキャリアの始まりは、南米でスペイン船を襲ってお宝を奪うことでした。略奪で財を成したダンピアは海賊団の組織を整え、ペルーの略奪にも参加。後に太平洋に進出し、東インド、東南アジア、中国の沿岸部を荒らしまわりました。
1688年、ダンピアは「科学的探究のため」数人の部下と共に自発的にタイ沿岸部で船を降り、木の根っこを食ったり過酷なサバイバルに耐えながら、自作のカヌーを漕いで、途中で博物記を記しながら、なんと3年後にイングランドの海岸に姿を現したそうです。
超人とは彼のような人のことを言うのでしょうね。
6. バーソロミュー・ロバーツ
大海賊時代の最後を飾るカリスマ海賊
「ブラック・バート」のあだ名でも知られる海賊バーソロミュー・ロバーツは、大海賊時代の最後の期間である1720年代に大西洋を荒らしまわった海賊。
他の海賊がイギリス海軍の取り締まりによって次に次に捕らわれて処刑されていくなかで、国家レベルの海軍力を有した彼の海賊団のみが捕まらずに略奪を続け、各国のシーレーンを悩ませました。
1720年にニューファンドランドのトレパシー港を襲った際は、港内にいた22の商船と150隻の漁船は彼の海賊旗を見ただけで恐れをなして降伏してしまったし、3日間で15隻のイギリスとフランスの船を拿捕したとか、大砲を52門も装備した重武装のフランス船を捕らえたとか、伝説的な逸話が数多く残されています。
バーソロミュー・ロバーツは一介の海賊船の船乗りからたたき上げで船長にのし上がり、商船や戦艦を次々に乗っ取って艦隊に組み込み、戦った敵の船長を味方に引き入れて海賊団を拡大させました。カリスマ性があったんでしょう。
バーソロミュー・ロバーツは自分自身が雑用から身を起こしていることもあって、自分自身もそうですが、船長や司令官のふるまいに大変厳しい男でした。
敵の船を拿捕した彼は、船乗りたちに船長や司令官に不満や不平がないかを聞いて回り、もし看過できない重大な問題があった時にはそいつを剣で切り刻んでいたし、軽い場合でも「尻にナイフやフォークやコンパスを突き刺して、10分間デッキを走らせる罰」を与えていました。船乗りたちには人気があったでしょうね。
ただし、彼は船乗りたちにも厳しく、「賭博禁止」「女性を乱暴目的で船に乗せること禁止」「8時には消灯」などの規則を作って、もし違反があれば死刑や孤島置き去りの刑など、厳しい罰を受けさせました。
7. バルバロッサ・ハイレッディン
地中海を「トルコの海」にした男
バルバロッサ(イタリア語で「赤ひげ」という意)は、16世紀前半に北アフリカを拠点に活躍した海賊。
バルバロッサはギリシャ人で、元々はギリシャで船乗りをしていましたが、北アフリカのチュニスに本拠を移してスペイン人やイタリア人をターゲットにした海賊行為で財を成し、その資産を元にしてアルジェの君主にまで登り詰めてしまいました。
配下の海賊どもを率いて手広く海賊ビジネスをしていたバルバロッサでしたが、時のオスマン帝国皇帝スレイマン1世は、そんな北アフリカの海賊の彼を「オスマン帝国海軍司令官」に任命し、海賊団をそっくりそのまま「オスマン帝国海軍」に任命してしまいました。
皇帝の支援を得たバルバロッサは、海防の拡大という名目でさらに手広く海賊ビジネスを展開。
これに危機感を持ったヨーロッパ諸国は、ジェノヴァの傭兵アンドレア・ドーリアを司令官に、ヴェネツィア、バチカン、ジェノヴァ、スペイン、ポルトガル、マルタ騎士団の連合海軍162隻と6万の水兵でバルバロッサの海賊団に挑みました。1538年9月、史上名高い「プレヴェザの海戦」です。
バルバロッサの率いる船は122隻、水兵はわずか1万2000人でしたが、キリスト教徒連合軍の連携の悪さを突き、陣形が整っていないところを速攻で攻撃をかけ、13隻の船を沈没させ36席の船を拿捕。形勢悪しと見たドーリアは撤退命令を出し、キリスト教徒vsイスラム教徒の大規模海戦はイスラム教徒側の勝利に終わりました。
この海戦の後、地中海はマルタ島とクレタ島を除くほぼすべてがバルバロッサの手に落ち「トルコの海」と化したのでした。
まとめ
何物にも縛られず、自由奔放にやりたい放題やる海賊の生き方には心惹かれるものがありますが、自由な分だけリスクが高いものです。常に命を失う危険があるし、ワガママな部下の統率も相当大変だし、戦略立案・財務・設備投資も考えなくてはいけないし、場合によっては為政者と交渉し妥協したり、騙し騙され、といったこともあったでしょう。
企業の社長並みに気苦労が多かったんではないでしょうか。
現代の経営者にも、人徳の高い人もいれば、平気で人を使い捨てる乱暴な人物もいるように、海賊の頭領にもいろんなキャラクターがいたんだろうと思うと、すごく親近感を感じます。
と同時に、自分だったらどの海賊団に入るかな、なんてことを考えるのも楽しいもんです。
参考サイト
"The 7 Most Terrifying Pirates from History" Cracked
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