自然や人に対する愛、平和と清貧を求めた偉大な聖人
アッシジのフランチェスコという人はあまり馴染みがないかもしれませんが、ヨーロッパ史とキリスト教史を学ぶ上で絶対に外すことができない人です。
フランチェスコはイタリアの町アッシジに住んだ司祭で托鉢修道院を開いた人物。彼が実践したのは徹底的な無所有と清貧、さらに自然保護や異教徒との対話を唱え実践した人物でもあり、そんな概念が希薄だった中世のヨーロッパにおいては突然変異種と言ってもよい人です。
フランチェスコ自身はただ無心に神の道を実践した男でしたが、その轍から次のヨーロッパ社会とキリスト教会のあり方も変える原動力が生まれていくことになります。
1. 道楽息子が神の道へ
フランチェスコは中部イタリアにあるアッシジの裕福な商人の生まれ。
小さい頃から陽キャで子どもたちの中心的存在で、成長した後は仲間と一緒に酒を飲んで騒いだりバクチに興じたりなど遊びまくっていました。
父ピエトロ=ベルナルドーネは息子に騎士になって武功を上げ、やがては貴族になり家の位を上げてほしいと思っていました。フランチェスコ本人も父の期待に応え騎士へ成り上がる憧れはありました。
隣町のペルージアとの戦いが勃発した時は勇んで戦いに赴きますが、捕虜になって1年の獄舎に繋がれてしまいます。次のチャンスは教皇インノケンティウス3世とドイツ諸侯との争い。フランチェスコは父に用意してもらった武具を身につけ馬をかけて戦場であるプーリアに向かいますが、道中不思議な夢を見たと言います。
この時見た夢は半ば伝説がかって本当かどうか分かりませんが、不思議な声に語りかけられ、故郷に帰るように促されたそうです。フランチェスコはこの声に従い、故郷アッシジに引き返してしまいました。
Photo by “Statue of St Francis, Assisi” at Flickr
その後、フランチェスコは郊外で出会ったハンセン病患者に意志に反して近寄り、その手に接吻をして「おれはいったい何をやっているんだ」と自分自身に驚くことになります。そうして不思議な体験を重ねる中、ある日十字架から語りかける声を聞き、これ意向自分の生き方を変え新しい生き方をすることを決意します。
フランチェスコはサン=ダミアノ教会という教会に住み、十字架からの言葉「私の家を建て直せ」の言葉通り、教会の修復作業に取り掛かります。
息子が常軌を逸した生活をしていることを知った父ピエトロは激怒し、フランチェスコを「家に帰るよう」求め法廷に訴えました。応じなければ廃嫡し、持っている金を全て返すことを要求します。フランチェスコはこれに応じ、金を全て父に返し、着ている衣服を全て脱ぎ去って父親の元に置いたそうです。
"La renuncia a los bienes terrenales" Giotto
2. 「小さき兄弟団」の設立
12〜13世紀、キリスト教会は大きな転換期を迎えていました。
中世で大きな力を持ったキリスト教会は政治と深く結びつき、司祭の中には封建君主である者がいたり、金で司祭の座を買って特権を得て資産の蓄えに熱心な連中がいたりなど宗教指導者の質の低下が起こっていました。
教会に対する世論の信頼の低下は世俗の皇帝や国王に対する教会の影響力の低下という形で現れ、司教の任命が皇帝や国王の干渉を受けることが多くなり、その役割を取り戻さんとする教会側と叙任権闘争を起こすことになります。
教皇やカトリック教会はこの事態を改善するため、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と闘って「カノッサの屈辱」事件を起こしたりなど権力闘争を繰り広げますが、末端の信者の信頼回復という点だと、教皇グレゴリウス7世の代から積極的に教会の改革運動を行なっており、特にフランスのクリュニー修道院を中心に修道院改革が行われていました。
この運動は、イエス・キリストと同じように精神の中で生き、自らの労働で糧を得て、私有財産を放棄し、ただ神への奉仕のために生きるという清貧運動でありました。
世俗の快適な生活を捨てたフランチェスコがとった伝道の方法も、当時の宗教改革運動の正道である「清貧」「托鉢」「巡回説教」の運動でした。
教会を修復する傍ら、粗末なぼろをまとって家々を回り生活の糧を乞い、人々の神の言葉を伝えて回心を説きました。
活動自体は目新しいものではなかったのですが、フランチェスコの「人たらし」のキャラクターや、本人の真摯さ・説教の真面目さから、次第に冷笑の目で見ていたアッシジの人々も見る目を変えていくことになります。フランチェスコの周囲には次第に彼を慕う人が集まるようになり、やがて「小さき兄弟会」という修道会が設立されました。
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3. 貧しくあること、兄弟として生きること
つねに神の前で貧しくあること
フランチェスコは、貧しい人やハンセン病患者など、社会の底辺にいる人々と共に生きることこそ神と共にあり神への敬意を示す行為だと考えました。貧しい人や虐げられている人の中にイエス・キリストを見ようとしたのです。
そのため自分自身は、徹底的に貧しさや無所有にこだわりました。「何も自分のものにしない」と語り、身にまとうぼろの服以外は一切何も所有しようとしませんでした。
フランチェスコは「物を持ちたい」という所有欲や執着心が平和を壊すと考えました。
物を多く持ちたいと願う心から支配欲や権力欲に繋がる。物に執着すると守るために武器が必要になる。物を欲する欲と守りたい欲の両方から自由になることで平和が実現すると考えたのです。
さらにフランチェスコは物質的な貧しさだけでなく、霊における貧しさ、無私の心、つまり自己追求からの脱却も神への謙虚さを表すと考えました。自己追求からも脱却するということは、学問の道さえも捨てなければならないということになります。学問を究めようとすると名誉欲や支配欲が心に現れ、それは慢心や傲慢となり平和の実現を妨げる。
フランチェスコはいかなる点でも「つねに神の前で貧しくあること」で真の幸福を得ることができると説いたわけです。
さらにもう一点フランチェスコの教えの特徴に「兄弟として生きる」というのがあります。
イエス・キリストの教えでは「人間は全て兄弟である平等」でありましたが、そのイエスの教えを実行すべきキリスト教会が支配する世界でもそれが実践されていない。フランチェスコは改めてイエスの「人間は皆兄弟」という教えを確認しそれを実行することを目指しました。
ある時、フランチェスコが弟子たちが住む庵を訪れた時、山賊が庵にやってきて食べ物を求めた。するとある屈強な修道士が山賊をどやしつけて追い払ってしまった。フランチェスコは激怒し、食べ物を持たせて山賊を追いかけ、非礼を詫びて食べ物を差し出したそうです。自分の元に来るものは誰でも「居心地の悪さを感じず自分のいる場所であると感じなければならない」のです。
フランチェスコにとって「全てが平等」という考えは人間だけでなく自然もその対象でした。
▽小鳥に説教するフランチェスコ
有名なエピソードに「小鳥への説教」があります。
ある時フランチェスコがスポレートの山間地方で伝道の旅をしていると、どこからともなく小鳥たちが集まってきた。嬉しくなったフランチェスコは小鳥たちに語りかけました。
「わたしの兄弟である小鳥のみなさん、あなた方は、あなた方の作り主を心から褒め称えるため、いつも感謝しなければなりません。なぜなら、そのお方は、あなた方の着る物として羽毛を、また飛ぶために翼を、そして必要なものを全てくださったからです」
中世のキリスト教世界では「物質は観念の影である」とみなすプラトン主義的二元論の流れがあり物質を軽視し自然を敵視する傾向があり、人間と自然の関係は戦いであると考えられました。しかしフランチェスコはこのような当時の常識から外れ、神が作った自然を讃え、その存在を善として見ています。
このようなフランチェスコの考え方は、「自然破壊」に対する「自然保護」の姿勢として、主に欧米の環境保護の考えに受け継がれています。
4. 異教徒との対話
フランチェスコが伝道を行なっていた時代は、中東で聖地奪還のための十字軍が派遣され、ヨーロッパ中で異教徒排除の声が多数派の時代でした。
そんな中でフランチェスコは、イスラム教徒にキリストの教えを説いて話し合おうと考えていました。1219年、フランチェスコはエジプト攻略を目指す第5回十字軍に合流し、エジプトの港町ダミエッタに上陸。そうしてフランチェスコは弟子の1人を連れてイスラム軍のスルタン、アル=カーミルの陣営に向かい謁見が実現しました。
アル=カーミルは教養のある英明なスルタンで、後に神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と協議の上で平和裡にキリスト教国側にエルサレムの統治権を与えるという、奇跡的な和平を成し遂げた人物でもあります。
フランチェスコは数日アル=カーミルの元に留まり、キリスト教の教えを説きキリスト教になるよう求めたと言います。アル=カーミルは初めは厳しい態度で尋問していましたが、フランチェスコの真摯さに態度を変え敬意を表し、最後は真面目に聞いていたそうです。
結局アル=カーミルはキリスト教に改宗することはなかったものの、彼はフランチェスコを手厚くもてなし、丁重にキリスト教徒の陣営まで送り届けました。
異教徒の頭に「キリスト教徒になりなさい」などと説くのは今考えると自殺行為のように思えますが、フランチェスコの説く教えが時代や場所を問わない普遍的な価値を持つものであったこと、そしてアル=カーミル自身が教養人でありフランチェスコの教えを理解できたため、このような異教徒間の交流が実現できたのではないかと思います。
フランチェスコはエジプトから帰国後にまとめた会則の中で以下のように記しています。
回教徒や非キリスト教徒のもとに行きたいと望む兄弟はだれでも、自分の奉仕者であり僕の許可を得た上で行かなければならない(略)ところでそこへ行く兄弟たちは、二つの方法をもって、彼らの間で霊的に生活することができる。一つの方法は、口論や争いをせず、神のためにすべての人に従い、自分はキリスト者だと宣言することである。もう一つの方法は、主の御心にかなうと判断するなら、神の御言葉を宣べ伝えて、全能の神・父と子と聖霊・万物の創り主を信じ、贖い主・救い主である御子を信じるように、そして洗礼を受けてキリスト者になるようにと、勧めることである。
ここで大事なのは「口論や争いをせず」「主の御心にかなうと判断するなら」という点で、異教徒と話す際は誠実に尊敬の念を持って接し、改宗を強制せず、もし状況が許せば改宗を勧めるべし、としているところです。
近代に入り、ヨーロッパの宣教師たちはフランチェスコが実践したように異教徒への宣教を行うために世界中に旅立っていきます。実際のところ、このような精神がどこまで後の人たちに守られたかは、後のヨーロッパ列強による植民地獲得競争の歴史を知れば相当に怪しいものですが、異教徒への宣教の根本的な思想にあるのは、フランチェスコの対話と協調の精神にあるのです。
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まとめ
環境保護や異教徒への布教、貧しさの希求など、フランチェスコはキリスト教的価値観が中世から近代へ移り変わって行く際の先駆者的な存在であります。
彼自身は教会を改革したり、世界を変えようなどとは微塵も思っておらず、ただ誠心誠意、神の前で正直にあろうとしただけなのですが、その姿勢は時代を動かす原動力になって行きます。
それにしても、フランチェスコの教えは、アプローチは違いますが、どこかブッダの教えと似たところがありますよね。
キリスト教がヨーロッパだけの宗教として終わらずに世界中に信者を獲得するに至ったのは、異教徒でも理解できる普遍性を得たためで、フランチェスコはそういう点でもキリスト教の発展に貢献しているんじゃないかと思います。
参考文献
アッシジのフランチェスコ (Century Books―人と思想) 川下 勝 清水書院