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ブルガリアの歴史(2)- 第二次帝国の隆盛と崩壊

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 帝国の再興と亡国、そして再起の道

全4回でブルガリアの通史をまとめています。

 

前回までのあらすじ

reki.hatenablog.com

古代ブルガリアの土地にあったトラキア人の王国はマケドニアやローマとも覇権を争いました。その後遊牧民族ブルガール族が襲来し、ブルガリア帝国を建国。キリスト教を受容しビザンツ帝国と争いますが、ビザンツ皇帝ヴァシリオス2世の軍に敗れビザンツ帝国に飲み込まれてしまいます。

 

今回は第二次ブルガリア帝国による国の再興と、オスマン帝国下の支配、そしてブルガリア民族主義の高まりと独立闘争の芽生えまでです。

 

5. 帝国の再興・第二次ブルガリア帝国

ブルガリアを征服したビザンツ皇帝ヴァシリオス二世は、貴族や高位聖職者に対して既得権益の安堵を行ったため、従来の支配層はビザンツへ恭順しました。

しかしヴァシリオス二世が死亡すると、ビザンツはブルガリアへの支配を強硬なものとし、ブルガリア教会の主教をギリシア人に任命したり、農民の租税の金納を義務付けたり、支配層から一般農民までギリシア化とビザンツ従属化に伴う困窮化が進み、大規模な民衆反乱が相次ぐようになりました。

 

これにはビザンツ本国の事情が絡んでいます。

貨幣経済の進行により領主の大土地所有が進み中央権力が弱体化。それに伴い財政が悪化し、皇帝が短期間で何度も入れ替わり、ノルマンやセルジュク朝が侵入し領土が侵犯され、帝国全体が危機の時代に突入していました。

 

1185年、ブルガリアのトドルとアセンの兄弟が独立運動を起こし、ブルガリア民衆と遊牧民クマン人の武力を借りてビザンツ軍を破り、1187年に首都をタルノヴォに置き独立を達成しました。通称「第二次ブルガリア帝国」です

 

▽兄のトドル(左)、弟のアセン(右)

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兄弟二人の末弟カロヤンは、ビザンツ帝国を模範とした国造りを目指し活発な対外政策を展開しました。

1204年、第四回十字軍がビザンツ帝国を占領して傀儡国家であるラテン帝国を建てると、この機会に乗じてカロヤンは勢力拡大を企てます。

ブルガリア軍はアドリアノープル付近でラテン帝国軍と戦い、フランクの軍勢に大勝し皇帝ボードワン一世を処刑。その後マケドニアに侵入し大部分を占領しました。

次の国王イヴァン・アセン二世は拡がった国境の防衛力を強化し、始めて貨幣を鋳造し経済発展にも尽くしました。また、1230年には領内に侵入したテッサロニキ皇帝セオドロス・コムニノスの軍勢を破り、そのまま皇帝と重臣たちを捕虜にし帝国を滅ぼし、テッサロニキをも支配下に置きました。イヴァン・アセン二世の時代にブルガリアは最盛期を迎え、かつてのシメオン以上の領土を獲得し自他共に認める大国の地位にのし上がったのでした。

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▽イヴァン・アセン二世

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6. 帝国の混乱・オスマン帝国による支配の始まり

偉大なる皇帝イヴァン・アセン二世の死後、40年の間に6人の皇帝が即位するなど中央は混乱し、帝国の力は弱まっていきます。

中央の弱体化に伴い、教会勢力や封建領主が力をつけて大勢力になる一方で、農民の農奴化が進み階級格差の拡大が進んでいきました。力をつけた封建領主は都市の商工業にも手を伸ばし都市住民も封建的重圧を受けるようになり、北ヨーロッパやイタリアで発達したような商人の自由な貿易やギルドの発達などが起こりませんでした。

このように内部の矛盾が露呈し不満が高まる中で、ビザンツ帝国はブルガリアに遠征し黒海沿岸諸都市を支配下に置き、ハンガリーやキプチャク・カンも北部を侵蝕。

農民反乱も相次ぎ、1277年には豚飼いの農民イヴァイロが反乱に成功し、コンスタンティン・アセン帝を敗死させ、妃のマリアと結婚して帝位に就くなど混迷を極めていきます。

 

▽豚飼いのイヴァイロの反乱

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Image from "Ivaylo - the peasant with extraordinary military talent" bnr

 

イヴァイロの失脚後、北西部ヴィデン地方の領主シシュマン氏が力をつけ、1323年にミハイル・シシュマンがブルガリア皇帝に就き、シシュマン朝を開きました。

 

▽ミハイル・シシュマン

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ミハイル・シシュマンはブルガリア帝国の栄光を取り戻すべく、ビザンツ帝国遠征やセルビア遠征など積極的な遠征で帝国を拡大させようとするも、セルビアとの戦いに敗れ戦死。

次王にはミハイル・シシュマンの甥イヴァン・アレクサンデルが就き、混乱を抑え一時的にブルガリアの内政を安定させますが、バルカン半島に進出してきたオスマン帝国によって南ブルガリアが占領され、ビザンツ帝国にも黒海沿岸を占領されてしまいます。

次の王イヴァン・シシュマンは、セルビアやボスニア王と連携し、キリスト教同盟を結んで反オスマンの軍を起こしますが、1388年にムラト一世の臣下に加わります。

その後、ハンガリー王ジグムンドが反オスマンの十字軍を結成すると、オスマン勢力を排除する最後の機会と見たブルガリアはジグムンドの軍に加わりますが、史上名高いニコポリスの戦いでオスマン帝国バヤズィト一世の軍に圧殺されてしまいます。

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この敗北で第二次ブルガリア帝国は完全にオスマン帝国に組み込まれ、次にブルガリアが独立を迎えるのは、20世紀に入ってからになります。

 

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7. オスマン支配下でのブルガリア

オスマン帝国は初期は遊牧民族の連合国家でしたが、多様な民族や地域を支配していくに従ってオスマン家の専制支配へと移行していきます。

これを可能にしたのが、職業軍人(スィパーヒー)を元にした「ティマール制」でした。

スルタンと直接契約した地方有力者であるスィパーヒーは、戦時にはスルタンの旗の元に集合して戦い、勝った暁にはより大きな封土を得られる。その富を原資にしてさらに軍事を拡大し再び戦で富を獲得していく、というのが基本サイクルでした。平時は地方行政に責任を持ち、農民の保護と治安維持を行う必要もありました。基本的に農地は国有地であり、スィパーヒーは王に代わって封土の徴税を担いましたが、ごまかしや不正は許されなかった上、世襲も認められていませんでした。

オスマン帝国の治世下ではキリスト教会の存在は認められ、東方正教会、ユダヤ教徒、アルメニア教徒など宗教ごとにミッレト(宗教共同体)に組織され、貢納の代わりに信仰の自由が認められました。

そのため、オスマン治世下でのバルカンはイスラムへと強制的な改宗が行われたわけではなく、地元有力者のスィパーヒーの元で宗教を基盤としたコミュニティが存在し、昔ながらの生活が営まれ多様な文化が共存していました。

 

スィパーヒーの没落と帝国再編

オスマン帝国の拡大は16世紀半ばに最盛期を迎え、スレイマン大帝の第一次ウィーン包囲とサファヴィー朝遠征という大規模な遠征で軍事費が増大し、帝国の拡大にも限界が来て新たな土地を獲得できずスィパーヒーも困窮し没落していくこととなります。

そこで台頭したのが地元の名士・アーヤーン層。昔から続く土着の豪族だった彼らは建前上の支配者であるスィパーヒーと結びつき、世襲の土地所有体系を作り上げて農民に対する二重支配を行いました。

この支配構造の中で農民たちは大土地所有者所属の小作人の立場に転落し、「従来のスィパーヒーによる統治の再来」をスルタンに求める運動が盛んになっていきました。

 

このような帝国の変化を受けて16世紀末にはバルカンでいくつかキリスト教徒による反オスマン反乱が起こっています。

ワラキアのミハイ勇敢公はオスマン帝国とポーランド・オーストリアの力関係を利用してモルドヴァ・トランシルヴァニアを制圧し一時的にルーマニアの領土を回復し、同時期にブルガリアでもタルノヴォでドゥブロヴニク商人が反オスマンの反乱を起こし、シシュマンの末裔と称するシシュマン三世が擁立されますが、オスマン軍に敗れ反乱は失敗に終わっています。

 

キリスト教社会の成長とヨーロッパとの結びつき

帝国拡大路線の行き詰まりとともに、キリスト教社会にも変化が起き始めました。

ヨーロッパとの通商拡大によって、キリスト教徒商人が商業の仲介者として支配的な地位を占めるようになり、バルカン各地の地場産業への投資と、輸出港テッサロニキからヨーロッパ各地への貿易によって、政治的経済的にも大きな力を得るようになっていました。

キリスト教徒の商人は地元の名望家となり地方行政に携わると同時に、進んだヨーロッパの啓蒙思想に触れることで、次第にナショナリズムと民族の自立に目覚めるようになっていきます

 

※以前に書いた、セルビアのカラジョルジェ・ペトロヴィチもこのような名望家から独立運動家となった1人です。

reki.hatenablog.com

 

18世紀からヨーロッパのオスマン帝国への軍事的優位性は確定的なものとなり、ハンガリーが1699年にカルロヴィッツ条約でキリスト教諸国の元に帰ると、キリスト教徒の反乱が相次ぐようになります。

また、地方の名望家となっていたキリスト教徒の地元有力者は中央政府から半ば独立した勢力圏を持つようになり、ブルガリアでも北部ルセを拠点としたアレムダル・ムスタファ・パシャ、西部のヴィディンを中心に勢力を誇ったパスヴォンオウル・オスマン・パシャなど地方が武力と経済力を持ち中央に対し力を行使するようになっていきました。

 

▽アレムダル・ムスタファ・パシャ(左)、パスヴォンオウル・オスマン・パシャ(右)

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一方で、ブルガリアを含むバルカン東部では没落した戦士や農民が馬賊や山賊となり、「本来自分たちが得るべき富を外に持ち出す」として都市や商業ネットワークを破壊し地域経済にダメージを与えました。

 

 

8. 民族主義運動の高まり

 18世紀以来、ブルガリアでは東方正教ミッレト内でのギリシア化の圧力が強まっていました。ギリシャは1832年にオスマン帝国より独立を果たしており、ギリシャ民族主義的な観点から正教会からスラブ的なものを除去してギリシア化させ、正教会ミッレトのギリシャ支配を正当化させようとしました。

 ブリガリア人教区民はこれに反発し、ブルガリア人が多数の教区にはブルガリア人の府主教を任命する要求を掲げますが、1830年に制定されたミッレト憲法にはブルガリア人の要求が盛り込まれておらずブルガリア人は反発。1860年に世界総主教の権威を否定し、ブルガリア人の教会の独立を宣言しました。

オスマン政府は1870年にブルガリア総主教代理座を正式に承認し、ここにおいてブルガリア人は「ブルガリア総主教」という存在を介して自らのアイデンティティを確認したため、宗教の共通性と国家と民族が統合されてみなされるようになっていきました。

 

ブルガリア民族主義

同時期に、ブルガリア民族主義を求める運動も起こっていました。

代表的な人物がパイシー・ヒランダルスキで、彼は著作「スラヴ・ブルガリア史」の中で中世ブルガリア帝国を賛美し、同時に強烈な反ギリシアを打ち出してブルガリア人は自身の歴史と文化に誇りを持つべきであると主張しました。

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しかし当時のブルガリアの名望家はオスマン帝国と物理的な距離が近いということも関係し、帝国の繁栄こそが自分たちの権益の安定にも繋がるとして、パイシーが主張するブルガリア民族解放への貢献は乏しいものがありました。

一方でブルガリア国外では、ゲオルギ・ラコフスキーが「民族解放のためにはオスマン支配の打倒が不可欠」として、ブルガリア解放のための武装闘争を掲げました。

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ラコフフキーはベオグラードでセルビアの援助を受けブルガリア人連隊を創設するもベオグラードを追われ、次いでブカレストに拠点を移し秘密結社「ブルガリア秘密中央委員会」を結成し、武装ゲリラをブルガリア領内に送るも、はかばかしい戦果は上げられませんでした。

ラコフスキーの死後、リュベン・カラヴェロフ、ヴァシル・レフスキ、フリスト・ボテフの三人によってブルガリア解放の闘争は引き継がれ、ブルガリア民衆の啓蒙活動や抵抗のための組織づくりを行うも、オスマン当局によって逮捕され処刑されてしまいます。

この間、ゲオルギ・ベンコフスキによってブルガリア各地に一斉蜂起のための組織づくりが進んでいました。

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彼らはボスニア危機の勃発を好機ととらえ1867年4月にコプリフシュティツァで武装闘争が開始されるも、オスマン当局は非正規軍を投入して残虐にこれを鎮圧。ヨーロッパ各国から非難の的となり、ブルガリア民族問題は世界的な関心事となっていきます。

 

 

まとめ

復興したブルガリアとその没落、そしてオスマン帝国下でのブルガリア民族主義の勃興までを見ていきました。

ブルガリアはビザンツ帝国やオスマン帝国といった大国の隣に位置していたこともあり、大国に従属して力が強まったり弱まったりする傾向が見て取れます。

すなはち、ビザンツの力が強い時は従属するし、弱まった時は大国化する。イスタンブール(コンスタンティノープル)が強い時はその力に頼ったほうが色々トクなんだけど、その反対の時は大国化を目指し権益を自分たちでぶんどってくる。

次回では20世紀に入り、これまで頼ってきたイスタンブールの力は弱まり、ブルガリアは中世の帝国のごとく、大帝国ブルガリア復興を目指して突き進むことになります。

 

第三回はこちら 

reki.hatenablog.com

 

参考文献

 バルカン史 柴宜弘 山川出版社

 

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