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「十字軍」で活躍した10の修道騎士団

異教徒との闘いで神に奉仕した騎士団

「騎士団」は現在にも存在する組織です。

しかし実際に戦闘をするわけではありません。

例えばマルタ騎士団は世界各国で医療活動を行う「国土なき主権体」であるし、金羊毛騎士団は世界の王族に授けられる栄誉勲章となっています。

かつてヨーロッパにあった騎士団は「異民族」との戦いに命を燃やし、その崇高な任務をもって神に報いようとしました。一般的によく知られているものからそうでないものまで、かつてその戦闘力で知られたキリスト教の戦闘騎士団を紹介します。

1. カラトラバ騎士団

レコンキスタ運動の強力な戦闘騎士団

カラトラバ騎士団はスペインにかつてあった宗教騎士団で、1158年にカスティーリャ王サンチョ3世がカラトラバ要塞を放棄する際に、フィテロのシトー会修道院長レイモンドに譲り渡し、イスラム教徒から防衛するように指示したのが起源です。

1164年、ローマ教皇はこの修道会を正式に承認し、シトー派のモリモンド修道院と密接に連携しながら砦を守り続けていました。

しかし、1195年にイスラム教徒の攻撃で砦が陥落。1212年に騎士団によって砦が奪還されています。それ以降、騎士団はレコンキスタ(再征服運動)に参加し、その功績でカスティーリャとアラゴンの両地域に土地を与えられるという報奨を受けました。

富裕になった騎士団は15世紀には会員数20万人、年間収入45,000ドゥカートの強力な騎士団となりました。騎士団は政治的にも力を持ち、カスティーリャの国内政治にも深く関わるようになりました。

レコンキスタ完了後、王権に対する潜在的な脅威を排除するため、1489年にフェルディナンドとイサベラの両君主は、ローマ教皇の認可を得て修道会の運営を引き継いでいます。それ以来、19世紀に解散するまでスペイン貴族の名誉団体となり、名前だけが引き継がれることになりました。

 

2. サンティアゴ騎士団

レコンキスタで強大な力を得た騎士団

サンティアゴ騎士団は1160年頃、スペインのイスラム教徒との戦闘とサンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう巡礼者の保護を目的にスペインで設立されたキリスト教の軍事・宗教騎士団です。当初は設立都市の名をとってカセレス騎士団と呼ばれていましたが、1171年に聖地の名を冠してサンティアゴと称するようになりました。

巡礼者を守る活動は次第に異教徒を排除する活動に発展し、レコンキスタ(再征服)に積極的に取り組む中で拡大。団員は常に少数でしたが、その精強ぶりはヨーロッパ全土に広く名声と土地を獲得しました。1174年、カスティーリャ王アルフォンソ8世は騎士団にウクレスの町を与え、ここに中央修道院が設立されました。

大きな富と権力を得た騎士団は、レコンキスタ完了直後の1493年には70万人近い会員と60,000ドゥカートの年間収入を得るようになっていました。

騎士団の強大な軍事力と富を警戒したフェルディナンドとイザベラのカトリック両王は、自らの権力を強化するために騎士団の武力を王室に組み込み、次いで権力は1523年に教皇アドリアヌス6世によってグランドマスターの職を王室に統合しました。

 

3. アルトパッシオの聖ジェームズ騎士団

資金力を持ちすぎて潰された病院騎士団

アルトパッシオの聖ジェームズ騎士団は別名タウ騎士団とも呼ばれたイタリアの騎士団。有名な聖ヨハネ病院騎士団と同じく、医療と戦闘を同時に行っていた騎士団です。

その起源は、952年頃、イタリアのアルトッパシオにアウグスティノ会修道士が病院を設立したことに始ります。当初はイタリア経由でローマや聖地エルサレムに向かう巡礼者の世話をする数人の修道士で構成されていました。しかしサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道を歩く巡礼者を山賊から守る役割を担うようになると、医療のみならず軍事分野も発展しました。1239年にローマ教皇から軍事騎士団として承認されるに至りました。

巡礼道の安全を確保しようとすると、必然的に土地を所有したり、騎士団領から得られる収入で通行料を全負担したりするようになり、聖ジェームズ騎士団は大土地を所領するようになっていきます。

大きな政治力を持つようになると為政者から睨まれるようになり、1459年のピウス2世の勅令により騎士団は弾圧され、その財産はベツレヘム聖母修道会に移されました。その後も騎士団自体は存続はしたものの、「ベツレヘムの聖マリアの軍事教団」と呼ばれるようになり、イタリアでは1587年に聖ステファン騎士団に吸収され、フランスでは1672年に聖ラザロ騎士団に吸収され消滅しました。

 

4. 聖ステファノ修道会

バルバリア海賊との戦いに活躍したトスカーナの騎士団

聖ステファノ修道会は正式には「聖ステファノ教皇殉教者神聖軍事修道会」と言い、1561年10月1日、トスカーナ初代大公コジモ・デ・メディチが、教皇ピウス4世の許可を得て設立した騎士団です。

都市国家フィレンツェが共和制から君主制のトスカーナ大公国に移行し、大公と国家を守護する騎士団が創設されました。当初は主にバルバリア海賊の襲撃から沿岸の防衛を行っていましたが、次第にキリスト教諸国と連合してバルバリア海賊と戦うようになりました。

聖ステファノ修道会が参加した戦いで有名なものが、1565年のマルタ島包囲戦、1571年のレパントの海戦です。その後はバルバリア海賊の本拠地であるアルジェリアのアンナバの攻撃や、エーゲ海のオスマン領の島々への襲撃、ダルマチアの島々への襲撃などに参加しました。

聖ステファノ修道会が戦闘に参加した最後は1719年、大公コジモ3世によって使われたのが最後で、1737年に大公家がメディチ家からハプスブルク=ロレーヌ家に取って代わられると、騎士団の軍事部門が廃止されました。

修道会はトスカーナのエリート層の教育に重点を置く騎士団として再編成され、その後は名誉職としての機能のみ残されました。

 

4. リヴォニア帯剣騎士団

ラトヴィアとリトアニアの征服を目指す騎士団

リヴォニア帯剣騎士団は、1202年から1237年の間にリヴォニア(現在のラトヴィアとエストニア)の征服とキリスト教化を行ったドイツ人の十字軍騎士団です。

12世紀ごろまで、現在のラトヴィアとリトアニアのバルト海東岸地域はキリスト教化されておらず、当時のキリスト教徒からすると「最後のフロンティア」のような地域でした。

リューベックやブレーメンのドイツ商人がドヴィナ川河口周辺の土地に商権を獲得すると、ドイツ人宣教師がこの地域に参入。1202年、リヴォニア第3代司教アルベルト・フォン・ブクショーデンは、異教徒をキリスト教に改宗させるため、リヴォニアに常設軍事組織として、教皇の許可を得て帯剣騎士団を設立しました。

騎士団員は貴族出身に限られ、服従、貧困、独身を誓うことが要求されました。彼らは各地にある城に住み、それぞれの城には評議会と、グランドマスター(騎士団の最高位)が選んだ軍事責任者がいました。

1206年には、ドヴィナ川とガウジャ川の河口付近に住むフィン・ウゴル系のリヴス人を征服。1217年にはドヴィナ川の北側に住むラトヴィア人とエストニア南部も征服しました。

リヴォニア帯剣騎士団の征服業は順調だったかに見えましたが、ドヴィナ川以南に住むキュロン人、セミガリア人、サモギティア人から強い抵抗を受けました。1236年9月にはセミガリア人とサモギティア人の連合軍にザウレの戦いで敗北し、大将ヴォルクィンを始め騎士団の主要メンバーがほぼ殺害され、騎士団の軍事力は壊滅。

その後ローマ教皇によって解散を迫られ、プロシアに本拠を置くチュートン騎士団の支部(1237)として再編成しました。1525年からは再び独立した騎士団としてリヴォニア地方を支配しましたが、ポーランド・リトアニアの強大化もあり、1561年に騎士団は解散しました。

 

5. 聖トマス騎士団

アッコ要塞防衛を担ったイギリス人の戦闘騎士団

聖トマス騎士団は正式には「カンタベリー聖トマス騎士団」と呼ばる、カトリック教会の軍事騎士団です。メンバーはイギリス人に限定され、入団の際は清貧、貞操、服従の誓いを立てています。

第三次十字軍遠征において、1191年にイングランドのリチャード1世(獅子心王)とフランスのフィリップ2世がアッコを占領した後、ロンドンのセント・ポール大聖堂の教区長であったウィリアムが設立しました。修道会の目的は、病人や負傷者の看護と、聖地で戦死したキリスト教騎士の埋葬でした。

修道会が軍事部門を持ったのは第6回十字軍で、ウィンチェスター司教ピーター・オブ・ロシュによって武装化されました。 1236年、教皇グレゴリウス9世は騎士団に教皇庁の承認を与え、騎士団は聖トマス・アッコ騎士団と呼ばれるようになります。

アッコは十字軍の後期の時代、キリスト教側にとって非常に重要な要塞都市であり、騎士団はより武力への期待が高まり、実質的に騎士団組織へと変わっていきました。

騎士団はアッコ防衛に尽くすも、1291年5月12日にアッコがマムルーク朝の攻撃によって陥落。修道院長と9人の騎士が殺害されました。

聖トマス騎士団はテンプル騎士団とともにキプロス島に修道院を移しました。しかしキプロスと本部のロンドンとの間に分裂が生じ、財政状況が急速に悪化。1360年以降、ニコシアのグランドマスターの消息すら途絶え、騎士団は存続可能な軍事組織ではなくなってしまいました。

その後は慈善事業と学校法人の運営を行う組織として存続されるも、1538年にヘンリー8世によって、イングランドの他の修道院とともに解散させられました。

 

7. 聖ラザロ騎士団

ハンセン病患者の救済を目的とした「癩病騎士」

聖ラザロ騎士団は、第一次十字軍遠征の後の1099年、エルサレム城壁のすぐ外にあるレプロサルムでハンセン病患者の救済を目的に設立された「レプロシス教会」が起源です。

修道院は土地や施設を拡大させますが、アイユーブ朝のサラディンのエルサレム占領に伴い、1191年に拠点をアッコに移しました。キリスト教徒の拠点の危機に、「癩病騎士」も戦いに参加するようになっていきます。アッコ防衛戦では、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、聖トマス騎士団、チュートン騎士団と共に戦っています。アッコに立てこもった聖ラザロ騎士団の戦闘員は全員玉砕しました。

聖地撤退後、聖ラザロ騎士団はフランスのオルレアン近郊のボワニーに本部を置きました。15世紀になると、ヨーロッパにおけるハンセン病の脅威は著しく低下し、聖ラザロ騎士団は徐々にその存在意義を失っていきます。

1489年、教皇イノセント8世は、聖ラザロ騎士団の所領をロードス島駐在の聖ヨハネ騎士団に移し、事実上二つの騎士団を合併させようとしました。ラザロ騎士団はこれに強く反発したため、1517年に教皇レオ10世は1489年の勅令を破棄し、南イタリアのカプアに聖ラザロ騎士団の拠点を移すことを決定。抵抗してボワニーに残留するメンバーとカプアに移るメンバーとに二分し、騎士団は分裂。

カプア院は1572年に教皇グレゴリウス13世によって聖モーリス騎士団と合併され、現在の聖ラザロ聖モーリス騎士団となっています。ボワニー院はしばらく独自の組織を貫くも、1608年にアンリ4世によってカルメル山聖母騎士団と統合されました。

 

8. 病院騎士団

Work by Ralph Hammann

現在も国家的地位を有する伝統ある騎士団

聖ヨハネ騎士団、病院騎士団、マルタ騎士団という名で知られる騎士団は、現在でもエルサレム・ロードス・マルタ聖ヨハネ騎士団という名で存在し、冒頭に述べた通り実質国家としての扱いを受けている団体です。

その名の通り、エルサレムからロードス島、マルタ島と拠点を転々としながらもその精強さで息づいている伝統と格式のある団体です。

病院騎士団の起源は11世紀、アマルフィ出身のイタリア商人が、病人や貧しい巡礼者の世話をするためにエルサレムに設立した病院にあります。1099年の第一回十字軍でエルサレムが征服されると、病院の院長であったジェラール修道士がエルサレムでの活動を強化し、聖地へのルート上にあるプロバンスやイタリアの都市に療養所を設立しました。1113年2月15日、教皇パシャール2世が発布した勅書により、修道会は正式に承認されました。

1120年にジェラールの後を継いだレーモン・ド・ピュイは、富と土地を獲得して資金力を高め、病人の治療に加え十字軍国家の防衛という任務を加えて軍事部門を強化しました。すぐに病院騎士団はテンプル騎士団と並んで、エルサレム王国における最も強力な軍事騎士団となっていきます。

アイユーブ朝のサラディンによってエルサレムが占領されると、病院騎士団はアッコに本部を移しました。しかし1291年にアッコが陥落。1309年にはロードス島に拠点を移し、ロードス騎士団という名前で独立国家として統治するようになります。ロードス島からムスリム勢力どころかムスリムとビジネスをするキリスト教徒の船すら襲う騎士団の船はまさに「狂犬」でした。

ロードス島騎士団は、2世紀以上にわたって、ロードス島を統治しますが、1522年にオスマン帝国のスレイマン大帝によってロードス島は包囲され、騎士団は降伏。その後7年間、騎士団は拠点を失っていましたが、1530年に神聖ローマ皇帝カール5世は、シチリア島の総督に毎年「鷹を贈ること」の見返りとして、マルタ諸島を譲渡しました。

こうして騎士団はマルタ騎士団と名乗るようになり、1571年にはレパントの海戦で、マルタ騎士団を含むキリスト教勢力の連合艦隊がオスマン艦隊を打ち破り、西地中海の覇権を取り戻すことに成功しました。現在のマルタ共和国のバレッタを始めとする要塞郡は当時のマルタ騎士団によって築かれたものです。

その後、騎士団はマルタの領土主権国家として存続しますが、1798年にエジプトへ向かうナポレオンがマルタ島を占領し、騎士団は追放されてしまいます。1834年、マルタ騎士団はローマに拠点を置くようになり、もはや領土はありませんが、独自のパスポートを発行し、主権が存在する国家的地位にあります。

 

9. ドイツ騎士団

ドイツ人の東進の先兵となった騎士団

ドイツ騎士団はチュートン騎士団(Teutonic Order)とも呼ばれ、東ヨーロッパやバルト方面の異教徒への「北の十字軍」を実行した騎士団です。

その起源は他の騎士団と同じく、聖地の病院にあります。十字軍のアッコ包囲中、ブレーメンとリューベックの商人が資金を出し合い、負傷者を看護するための友愛組織を結成したのが始まり。ところが1197年、パレスチナへの大遠征を計画していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世が死去すると、パレスチナに到着していたドイツ兵が帰国することになり、戦力の重大な欠員が生じました。そのためエルサレム王アマルリック2世らは1198年、友愛組織に軍事部門を設置し宗教騎士団としました。

十字軍末期になるとドイツ騎士団はパレスチナから撤退を始め、東ヨーロッパとプロイセンにその活動の主軸を移し始めていました。ドイツ騎士団の武力は東ヨーロッパのキリスト教君主にとっては魅力的で、いくつかの王が辺境征服を依頼してきました。

ヴィスワ川下流域に領地を持つポーランドのマゾフシェ公コンラト1世が、異教徒のプロイセン人の征服をドイツ騎士団に求めました。ここで団長ヘルマン・フォン・ザルツァは、皇帝フリードリヒ2世と交渉し「リミニの金勅書」と呼ばれるものを手に入れました。この勅書によって、ドイツ騎士団は征服した土地を教皇の権威の下で支配権を得るという特権を手に入れました。

こうしてドイツ騎士団はその後50年間でプロイセンのほとんどを制圧。1309年にマリエンブルク(現在のポーランドのマルボルク)に居を構えた騎士団は、東バルト地方(クールランド、リヴォニア、エストニア)、東ポメラニア、中南ドイツを支配する強力な封建国家を形成。さらにはリトアニアの征服とリトアニア人のキリスト教改宗を試み、ハンザ同盟都市と連携し経済と軍事面で領土を拡大していきました。

ドイツ騎士団の脅威の高まりに、ポーランドとリトアニアは手を結び、グルンヴァルドでドイツ騎士団を撃破。ポーランド・リトアニアの大国化でドイツ騎士団の軍事力は低下し、15世紀にポーランド王の臣下となりました。

騎士団領もポーランドやロシア、スウェーデンに分割されていき、騎士団本体も1809年にナポレオンによって解散を宣言されました。

 

10. テンプル騎士団

陰謀論で人気のある悲劇の騎士団

テンプル騎士団はおそらく今回挙げた騎士団の中で最も有名と思われます。しかしその高名さはあまり健全ではありません。

例えば、テンプル騎士団は後にフリーメイソンになりユダヤ金融資本と組んでアメリカを始め世界秩序を裏から操っているという説や、テンプル騎士団がイエス・キリストとマグダラのマリアとの間に生まれた子の血統を守るための陰謀に関与していたという偽史など、テンプル騎士団は陰謀論とセットになって語られがちです。

テンプル騎士団は、1118年頃、フランスの騎士ユーグ・ド・パイヤンスが8人の親族・知人とともに、「キリストとソロモン神殿の貧しい仲間たち」という軍事教団を創設したのが起源です。

病院騎士団やドイツ騎士団のように医療活動からスタートしたわけではなく、初めから聖地巡礼者の安全確保と聖地の守護という軍事機能を目的に始まっています。

彼らはエルサレム王ボードワン2世の支援を受け、神殿(テンプル)の山に本部を置きました。そういうわけでテンプル騎士団と呼ばれるようになります。

テンプル騎士団は戦闘力の高さと苛烈さで知られ、寡兵ながらムスリム勢力相手に命知らずの戦いを繰り広げ、十字軍諸国の主力級の軍事団体に成長していきます。

1129年にはフランスの著名な修道院長であったクレルヴォーのベルナルドが、テンプル騎士団を絶賛し、カトリック教会の正式な支持を表明。1139年に教皇インノケンティウス2世は、テンプル騎士団に特別な権利を認める教皇勅令を発布しました。テンプル騎士団は税金免除を含むさまざまな特権を得て、軍事面以外の領域に拡大していきました。

中でももっとも成功したものが銀行ビジネスです。もともとは巡礼者が母国で預けたキャッシュを聖地で引き出したいというニーズからスタートしたものでした。銀行網は急拡大し、ヨーロッパ各都市に支店を持ち大きな経済的影響力を持つようになりました。

最盛期には大規模な船団を持ち、地中海のキプロス島を所有し、ヨーロッパの君主や貴族に対する主要な銀行や融資機関として機能していました。

1291年、要塞都市アッコが陥落するとのテンプル騎士団もパレスチナから撤退し、パリに活動の拠点を置きました。テンプル騎士団の、修道騎士団のくせに世俗の富と権力を追い求める姿勢には、王族、宗教指導者からの批判が増加するようになっていました。

このような声を受け、フランス王フィリップ4世はテンプル騎士団を解散させ、その財産を没収して自らの負債の返済に充てることを思い付きます。

1307年10月13日金曜日、フランスのテンプル騎士団の大師ジャック・ド・モレーを含む数多くの騎士が逮捕され、拷問され、自白を強要され、その自白を根拠にして火あぶりで処刑されました。フィリップ4世からの圧力を受けた教皇クレメンス5世は1312年、しぶしぶテンプル騎士団を解散させています。

テンプル騎士団の資産は病院騎士団に譲渡されたとされますが、フィリップ4世とイングランド王エドワード2世がほとんどを押収したとする説もあり、詳しくはよく分かりません。

 

まとめ

成り立ちは様々ですが、キリスト教を基礎にする修道騎士団ということもあり、医療、軍事、金融など部門を広げて際に教皇に支援を得やすかったり、王や諸侯からの支援を受けられやすかったりと有利に働き、団員も私利私欲がないので規模が拡大しやすい条件があったものと思われます。

ただし守るべき土地や大義名分が消えてしまうと、強大な軍事と資金力は世俗の王にとっては脅威以外の何者でもなくなります。ほとんどの騎士団はそうやって国の近代化の過程で軍事部門が廃止され、単なる慈善団体や医療団体に先祖返りしていっています。

それは時代の流れだなとは思いますが、その残骸のようなマルタ騎士団が現在も残っていて、国家的な機能を持っているのは非常に面白いし、修道院や騎士団という伝統があるキリスト教ならではだなと思います。

 

参考サイト

"Order of Calatrava, Spanish military order" Britannica

"Order of the Brothers of the Sword, German organization of knights" Britannica

"Order of Santiago, Spanish military and religious order" Britannica

"Hospitallers, religious order" Britannica

"Teutonic Order, religious order" Britannica

"The Knights of St Stephen of Tuscany" THE MAD MONARCHIST

Knights of Saint Thomas of Canterbury

"Knights Templar" HISTORY