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ブルガリアの歴史(3) - バルカン戦争とWW1の敗北

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大国を目指すブルガリアの格闘

全4回でブルガリアの通史をまとめています。

 

前回までのあらすじ

reki.hatenablog.com

第二次ブルガリア帝国はイヴァン・アセン2世の時代に史上最大の版図を手に入れ全盛期を迎えますが、東より迫るオスマン帝国に敗れて組み込まれてしまいます。

オスマン帝国下では他のバルカン諸国よりも独立運動の兆しは遅かったのですが、民族主義運動や民族解放闘争が徐々に盛んになっていきます。

 近代以降のブルガリアの歴史は、格闘と挫折、そして絶望とその間に見る微かな希望の繰り返しであります。

 

 

9. ブルガリア復興運動

 19世紀後半からバルカン諸民族の独立運動は、オスマン帝国の中央集権的な近代化政策に反発し独自の文化を維持したまま近代化を求める地域の政治的運動と、バルカン半島に影響力を持とうとするロシアの南下政策、それに対抗する英仏の策略とが連動し、一触即発の中で政治的枠組みが模索されていた時期でした。

クリミア戦争によってオスマン帝国はロシアに勝利を収めるも、英仏に多大な借金を背負い経済的な従属国に転じ、多額の負債は国庫を圧迫していきました。

バルカン諸民族はオスマン政府に対する反乱を繰り広げ、ブルガリアでも東北部ヴィディン地方でムスリム領主の土地支配に対するキリスト教徒の反乱が展開されました。

1875年7月、ボスニア・ヘルツェゴビナで大規模な農民反乱が発生し、バルカン各地でこれに呼応した蜂起が発生します。1876年春にはブルガリアでも一斉蜂起が準備されます。

1876年6月、スラブ人の一斉蜂起を受けてセルビアとモンテネグロが支援のためにオスマン帝国に宣戦を布告し、次いで1877年4月にロシアが宣戦布告。露土戦争が勃発しました。

露土戦争にはブルガリア義勇兵が参戦しており、シプカ峠の戦いでは5000のブルガリア兵が4万のオスマン兵相手に獅子奮迅の活躍を見せ峠を守り抜き、ロシア軍の勝利に多大な貢献をしました。

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オスマン軍はプレヴェン要塞でロシアに頑強に抵抗するも、12月にロシアによって攻略され、翌年1月にはロシア軍は首都イスタンブールに迫りました。

3月、ロシアに有利な状況で講和が開かれ、サン・ステファノ条約が締結されます。サン・ステファノ条約の骨子は以下の通り。

  • アルメニア、アナトリア東部のロシアへの割譲
  • ボスニア・ヘルツェゴビナへの自治権の付与
  • ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立の承認
  • ブルガリアへの自治権の付与

サン・ステファノ条約によって、ブルガリアはマケドニアを含む広大な土地を手に入れ、中世ブルガリア帝国の領土を彷彿とさせる大公国への道が開かれようとしていました。

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Work by Todor Bozhinov 

 

しかし、これによりロシアが地中海に拠点を持つことを危惧するイギリスとオーストリア=ハンガリーはこの条約に反発し、ドイツ皇帝ビスマルクを仲介に各国の利害を調整するために1878年6月〜7月にベルリンで国際会議が開かれました。

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この結果締結されたベルリン条約では、大ブルガリアは三分割され、ドナウ沿岸にブルガリア公国の建国は認められましたが、広大なマケドニアの地はオスマン帝国直轄領として残され、東ルメリアはキリスト教徒の総督の元で行政自治権を与えられた土地とされました。

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10. 大国ブルガリア復活への道

ベルリン会議の結果を受け、既存の領土を元に国家建設が推進されました。

後見人のロシアの支援の元、急ぎ憲法が作られ1879年4月に憲法が採択され、議会と内閣が成立し、ロシア皇帝一家からアレクサンデル・バッテンベルクをブルガリア公に向かい入れました。

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ロシアから来たブルガリア公と後見人であるロシア政府は、自由主義的なブルガリア憲法と議会に不満を持っており、専制的制度への改定を目論んだため議会とたびたび衝突しました。

 

東ルメリ州の統合とブルガリア・セルビア戦争

ベルリン条約によってオスマン帝国領となった東ルメリ州では、ブルガリア住民が公国との統合を求めて活動をおこなっており、1885年2月にはザハリ・ストヤノフを中心にブルガリア秘密中央革命委員会が結成され、東ルメリ州の民兵を組織し武装蜂起を結構。州都プロヴデフを含む州の主要地域が制圧されました。

これを受けてブルガリア公アレクサンダルは東ルメリ州のブルガリア公国併合を宣言します。

これに反発したのが、ブルガリアの大国化を恐れるセルビアとギリシア。

かねてより宗教問題で険悪な中にあったセルビアはこれを機にブルガリアに宣戦布告し、軍を率いてブルガリア領内に侵攻しました。しかしブルガリア軍はソフィア近郊のスリヴニツァでセルビア軍を散々に打ち負かし、逃げるセルビア軍を追い首とばかりに追いかけセルビア領内に攻め込む有様でした。

ここにおいてオーストリア・ハンガリーが介入に入り、和平条約が締結されました。

この戦争ではブルガリア国内では「セルビアに対する勝利」と受け止められましたが、きっかけとなった東ルメリ州は「ブルガリア公の総督権を認める」程度に留め置かれ、統合が認められなかったため、ブルガリア国内では失望とブルガリア公アレクサンダルへの非難が噴出。

その後親露派将校のクーデターによりアレクサンダルは退位を余儀なくされました。

 

ブルガリアの独立

その後、政治の実権は首相のステファン・スタンボロフが掌握。

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自由主義者で反ロシアのスタンボロフは、アレクサンダル退位を契機としてブルガリアのロシアへの影響力を削ぐためにロシアと国交断絶を決行。親オーストリア・ハンガリー、ドイツ政策を採り国内の近代化を進めようとしました。

 スタンボロフは空位となっているブルガリア公に、ザクセンのコーブル家出身のフェルディナントを向かい入れました。

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ブルガリア公に就いたフェルディナンドはスタンボロフの影響力を嫌い、1894年に首相より解任してしまいました。これにより実権を握ったフェルディナンドは再びロシアに接近。ロシアの圧力でオスマン帝国にブルガリアを自治公国に昇格させました。

一方で国内では1897年の凶作で農民の暴動が盛んになり、農民政治組織はフェルディナンドの個人独裁体制が批判されるようになりました。

1908年、オスマントルコで青年トルコ革命が勃発し中央政府が混乱すると、フェルディナンドはブルガリアの独立を宣言。自ら「ツァーリ(皇帝)」を名乗り、国の名前も「ブルガリア帝国」に変更しました。

農民同盟を始めとする共和主義者は、皇帝の専制に反発し対決姿勢を強めていきます。

 

 

11. マケドニア問題→バルカン戦争→第一次世界大戦

19世紀後半、ギリシャ、セルビア、ブルガリアの間で争点になっていたのが、「マケドニア問題」です。

マケドニアは北はセルビア国境のスコピエから、南は古くからの港テッサロニキを抱え、農業に適した肥沃な土地が広がる地域。古代はアレクサンドロス大王のマケドニア王国が勢力を持った地域ですが、中世ではセルビアやブルガリアなどいくつもの国の支配を受けました。また、この地域の住民の多くは南スラヴ人ですが、オスマン帝国時代にユダヤ人やアルバニア人など多様な民族が混在していきます。

帝国末期の1870年、オスマン政府が総主教代理座の設置を認め、ブルガリア正教会の教区が形成されると、「総主教系はギリシア人」、「総主教代理系はブルガリア人」と認識されるようになっていきました。

当時のマケドニアのスラヴ人のアイデンティティは極めて曖昧で、

「自分たちの祖先はギリシア人で、今はブルガリア人だけど、セルビア人になってもさして問題はない」

というような意識であったようです。

 

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そのため、ブルガリア、セルビア、ギリシャはマケドニアの地域を自国に組み込もうと、教会や学校の設立、文化活動を通じて影響力を高めようとしました。

ブルガリアはマケドニアのスラヴ人の言語がブルガリア語と近いことを根拠に、セルビアは聖者の祝祭日の慣習を根拠に、ギリシャはマケドニアの人々をスラヴ化されたギリシャ人だとして、それぞれマケドニアの領有権を主張しました。

ブルガリアはかつての大国・ブルガリア帝国を再現するにはマケドニアの領有は必然であり、絶対に妥協してはならない問題だったのですが、これが20世紀のブルガリアの運命を大きく変えていくことになります。

 

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第一次バルカン戦争の勝利

1908年の青年トルコ革命によりバルカン諸国は自由や自治が認められるものと期待しますが、その実支配地域のトルコ化が強力に推進されたため、バルカン諸国は反発し対オスマンのバルカン同盟が模索されるようになりました。

マケドニア問題で険悪な中にあったセルビアとブルガリアも、ロシアを仲介にして1911年3月に友好同盟を結び、5月にはギリシャと、またモンテネグロとも同盟が結ばれます。

1911年10月にモンテネグロがオスマン帝国に宣戦布告したことをきっかけに、ブルガリア、ギリシャ、セルビアも宣戦布告。各国軍は各地でオスマン軍を打ち破り、ブルガリア軍も首都イスタンブールの間近に迫りました。12月には早くも列強が介入し休戦状態になり、ロンドンで講和条約が結ばれました。

 

▽進撃するブルガリア兵

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講和条約ではセルビアとギリシャはアルバニアの併合を期待していましたが、講和条約によりアルバニアの独立が認められたため、両国はマケドニアの領有を主張。セルビアとギリシャは結託し、両国でマケドニアを二分割した国境線を引いたためブルガリアは反発します。

 

第二次バルカン戦争の敗北

1912年6月、マケドニアの展開するブルガリア軍がセルビア軍とギリシャ軍に発砲したことで第二次バルカン戦争が勃発しました。

ブルガリアはセルビアとギリシャだけでなく、オスマン帝国、モンテネグロ、ルーマニアからも多方面侵攻を受けました。北から攻め上がってきたルーマニア軍が首都ソフィアに迫ると、ブルガリア政府はたまらず降伏。わずか1ヶ月ほどで敗北してしまいました。

 

▽進撃するギリシャ軍

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第二次バルカン戦争の講和条約によりマケドニアは三分割され、それぞれ「ヴァルダル・マケドニア」「ピリン・マケドニア」「エーゲ・マケドニア」と命名されました。

ブルガリアが領有したのはピリン山脈を含む東部マケドニア、いわゆる「ピリン・マケドニア」で、豊かな農業地域や都市を含む「ヴァルダル・マケドニア」はセルビア、テッサロニキを含む沿岸地域「エーゲ・マケドニア」はギリシャが獲得。

さらにブルガリアは南ドブルジャをルーマニアに割譲することになり、民族主義が高まるブルガリアにおいてはこの戦争の敗北は屈辱で、「失った領土の回復」を求める声が高まっていくことになりました。

第二次バルカン戦争の結果は、この後の第一次世界対戦に直接つながっていきます。

 

▽ブカレスト条約によって定められた国境線

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第一次世界大戦の敗北

1914年6月28日、サラエヴォ訪問中だったオーストリア=ハンガリー皇太子フランツ・フェルディナントがセルビア青年に暗殺される、いわゆる「サラエヴォ事件」をきっかけに各国は第一次世界大戦に突入していきます。

バルカン諸国は参戦にあたり、三国協商国(イギリス・フランス・ロシア)、中央同盟国(ドイツ・オーストリア=ハンガリー)のどちらに就くか、条件やライバル国の動向を見据えながら注意深く伺っていました。協商国側はブルガリアに「トラキアとマケドニアの一部の割譲」を申し出ますが、同盟国側はそれに加えて「セルビア領マケドニアの割譲」を打診。これに乗ったブルガリアは、1915年10月に三国協商国に宣戦布告。セルビア王国に侵攻しました

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▽進軍するブルガリア兵

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一方、ギリシャは協商国派と同盟国派に分裂ししばらく中立でしたが、1917年7月に同盟国に宣戦布告。1918年9月に、イギリス軍、イタリア軍、フランス軍、セルビア軍、ギリシャ軍はテッサロニキからマケドニア戦線に大攻勢をかけ、ブルガリア軍は総崩れに。

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混乱の中、反乱軍が現れて首都ソフィアに迫り「ラドミル共和国」の設立を宣言。結局この反乱は鎮圧されるも、国王フェルディナントは退位を迫られブルガリアは降伏しました。

 

▽降伏したブルガリア兵捕虜

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この敗北でブルガリアはヌイイ条約を結び、エーゲ海への港デデアガチを含む西トラキアをギリシャに、西部国境地域の4拠点を新国家ユーゴスラヴィアに、南ドブルジャをルーマニアに割譲する羽目になり、多額の賠償金も課せられることになりました。

またも屈辱的な敗戦の憂き目に会い、ブルガリア国内では厭戦機運が高まり戦前から反戦を主張していた左派(農民同盟、共産党)が支持を高めることになりました。

 

 

まとめ

民族主義の高まりを受けて、中世のブルガリア帝国の再来を目指すブルガリアにとっては、旧領土マケドニアの領有は絶対に譲れない問題でした。しかし、領土に固執するあまり、第二次バルカン戦争、そして第一次世界大戦で敗れ、大国への野望はくじかれてしまいます。

「ブルガリアの野望」は第二次世界大戦も続き、この大国化への志向がブルガリアを枢軸国での参戦という選択に進めていきます。

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参考文献

 バルカン史 柴宜弘 山川出版社

バルカン史 (世界各国史)

バルカン史 (世界各国史)

 

 

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