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ブルガリアの歴史(4) - WW2枢軸国から社会主義国へ

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第二次世界大戦の敗北、そしてソ連の盟友へ

全4回でブルガリアの通史をまとめています。今回が最終回です。

 

前回までのあらすじ

reki.hatenablog.com

旧領土マケドニアの領有を目指すブルガリアですが、第二次バルカン戦争と第一次世界対戦の敗北でピリン・マケドニア以外の領土のほとんどを獲得できず、人々の間には不満が高まっていました。

この「旧領土再興」を目指し、ナチス・ドイツとファシスト・イタリアに接近していきます。

 

 

12. 第二次世界大戦への道

 

共和主義者の改革と軍事クーデター

退位したフェルディナントに代わり息子のボリス三世が国王となり、1919年の選挙では農民同盟の指導者アレクサンダル・スタンボリースキが首相に就任。スタンボリースキは土地改革を実行し農民への土地の再分配を行ったり、教育改革を行ったりなど、ブルガリアの社会インフラの整備に多大な貢献をしました。

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スタンボリースキは根っからの共和主義者で南スラヴ連邦の支持者でもあり、戦後はバルカン諸国との関係改善に努めました。

第一次世界大戦で敗れ領土を割譲させられたユーゴスラヴィアやギリシャに対しても宥和的であったため、「大ブルガリア」の復活を目指し第一次世界大戦の報復を主張する民族主義者からは恨みを買っていました。

1923年6月9日、軍隊内部の秘密組織「将校連盟」と「国民調和」によってクーデターが実行され、郷里に戻っていたスタンボリースキは捕らえられ処刑されました。

クーデター後、ボリス三世は指導者のアレクサンダル・ツァンコフを首相に承認し、農民同盟と共産党を内閣から締め出し、その他の政党と合同で「民主調和」を結成しました。

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あせった共産党はコミンテルンの支持の元、北西部で武装蜂起を敢行しますがすぐに鎮圧され、これを口実にツァンコフは農民同盟と共産党を大弾圧します。

共産党は非合法化されますが、以降も国王独裁に抵抗し「祖国戦線」などを結成し抵抗を続けていくことになります。

 

5月19日体制の成立

ツァンコフ政権の発足後、ピリン・マケドニア内部の武装勢力「内部マケドニア革命組織」は事実上ブルガリア南西部ペトリチを支配下に置き、南スラヴ連邦派の政治家を暗殺するなどのテロ行為を続けました。

社会不安が高まったブルガリアでは、1931年の選挙で民主党と農民同盟右派が勝利しマリノフが首相に就きますが内政・外交面での行き詰まりを打開できず、1934年5月19日に再び「将校連盟」によるクーデターが勃発。国王ボリス三世はキモン・ゲオルギエフを首班とする「5月19日体制」を承認しました。

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ゲオルギエフ政権は危機の打開のため、議会の解散、労働組合の禁止、新聞を検閲下に置くなどし、国王ボリス三世をトップに据えた独裁体制を構築。外交的にはナチス・ドイツとファシスト・イタリアに接近していきました。

 

第二次世界大戦への道

1933年1月に成立したドイツのヒトラー政権は、ヴェルサイユ体制の打倒を掲げ国際連盟から脱退し、翌年からシャハト計画に従って東欧・バルカン諸国との経済強化に乗り出しました。この計画では、世界恐慌以降農産物の価格が暴落し大打撃を受けた東欧・バルカン諸国の農作物をドイツが買い上げ、代わりにドイツ製工業製品を売るというもので、農作物の買い手がなく経済的に困窮していたバルカン諸国はこれを歓迎。経済的にドイツへの依存を強めていくことになります。

ドイツのバルカンへの干渉を受けフランスは、東欧・バルカン同盟諸国の地域相互協力機構の整備に着手していきます。1934年2月に成立したバルカン協商は、ユーゴスラヴィア、ルーマニア、トルコ、ギリシャで締結されますが、これらの国々も次第にフランスと距離を置き始め、ユーゴはドイツへ、ルーアニアは英仏独との等距離外交に舵を切っていく。

以降、英仏とドイツとのバルカンにおける影響力維持の争いは激しさを増していき、英仏はバルカン協商の維持を目指し、ドイツはハンガリー・ユーゴ・ブルガリアの枢軸国ブロックの形成を呼びかけました。

 

第二次世界大戦、日独伊三国同盟への加入

 1939年8月、ドイツとソ連が不可侵条約を結び、翌月ポーランドに侵攻して占領。翌年6月にはフランスが降伏し、ドイツ軍のイギリスへの侵攻が間近になってくると、今度はバルカン半島はソ連とドイツとの間でぶんどり合戦が始まっていきます。

1940年6月にはソ連はルーマニア北部ベッサラビアの割譲をルーマニアに要求。要求には不可侵条約に含まれていなかったブコヴィナの割譲も含まれていたため、ドイツは抗議し交渉の場で火花を散らしました。結局北ブコヴィナの割譲が認められ、ベッサラビアはソ連に割譲されます。これに乗じてブルガリアもドイツに要求を出して第一次世界大戦で割譲させられた南ドブルジャの返還を要求。ルーマニアはわずか2ヶ月で国土の1/3以上を失うことになりました。

 

ルーマニア分割で対立を深めたドイツとソ連は、1940年11月からブルガリアを巡って対立することになります。

ヒトラーはボリス三世をドイツに招き、エーゲ・マケドニアの割譲を条件に、日独伊三国軍事同盟へ加盟を迫りましたこれに対し、ソ連はブルガリアへの経済援助を申し出、トラキア地方の供与を条件にソ連軍の黒海軍事基地の使用を迫りました。

 

この他にもトルコもブルガリアに対し防衛条約の締結を持ちかけられ、イタリアからもエーゲ・マケドニアの割譲を条件にギリシャへの侵攻を呼びかけられるなど、各国がブルガリアとの連携を模索していました。

そんな中、マリタ作戦の発令でドイツ軍のブルガリアへの重要性は増し、ドイツ軍は数千人のドイツ軍関係者をブルガリアへ送り込み、対ギリシャ攻撃の準備を始めました。

 これに対しソ連は激しく抗議し、ブルガリアにソ連への協力を呼びかけました。アメリカもブルガリアに対し中立を呼びかけますが、ブルガリア国内では

「ドイツ軍の到来と連携は避けられそうになく、強力なドイツ軍が敵となるよりは、味方として旧領土回復の頼みとするほうが得策ではないか」

という意見が多数を占めるようになっていきました。ドイツによる世論工作もあったかもしれません。こうしてブルガリアは1941年3月1日に三国同盟へ加盟したのでした。

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ブルガリアの参戦

1941年3月、ユーゴスラヴィアで軍部クーデターが起こり英米への接近が図られると、ドイツは直ちにユーゴに軍事侵攻を決定。イタリア、ハンガリー、ブルガリアの軍が4方から攻め入りました。

 

▽ヴァルダル・マケドニアに進駐するブルガリア軍

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これによりユーゴスラヴィアは解体され、セルビアのネディッチ傀儡政権以外は全て他国に分割統治させられることになります。ブルガリアはこれにより「ヴァルダル・マケドニア」を獲得しました(下図の薄い茶色の地域)。

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ソ連による占領とブルガリア降伏

独ソ戦が始まると、ルーマニア、ハンガリー、スロヴァキア、クロアチアといった国も同時にソ連に宣戦布告するも、ブルガリアは親ソ派が多かったため対ソ戦への参戦は免除されました。しかし、国内では左派によるパルチザンが盛んで、共産党の武装組織「ズヴェノ」、農民同盟左派からなる「祖国戦線」などが国内で武装解放闘争を展開しました。

スターリングラード以降、ソ連軍が攻勢に転ずると、ブルガリア国内では英米との講和を呼びかける声が高まり、1943年春からアメリカとの和平交渉を開始しました。

アメリカはブルガリアの無条件降伏を求めますが、ブルガリアはヴァルダル・マケドニアと南ドブルジャを含む領土に固執したため交渉は破談。

1944年1月から英米軍によるブルガリア空爆が始まり、ソ連も圧力をかけ始めました。

その結果、ブルガリア政府は枢軸国からの離脱を決定。ドイツに対し全軍の撤兵を要求し、セルビアとマケドニアから駐屯軍を撤退させ、さらには共和主義者のムラヴィエフを首班とする救国政府を樹立させて英米との降伏交渉に当たろうとしました。

そんな中、ソ連が突如としてブルガリアに宣戦布告。

それに呼応して祖国戦線がクーデターを起こし権力を奪取し、ソ連のブルガリア駐留を手引しました。このようにしてブルガリアはソ連の占領下に置かれ、やがて共産圏の中に組み込まれていくことになります。

 

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13. 社会主義体制下のブルガリア

戦争終結前に左派によるクーデターが行われたことでブルガリアでは右派勢力の排除が徹底的に進められ、共産党は民主勢力や農民同盟左派すら排除して議会を独占し、1946年3月に元コミンテルン議長ゲオルギ・ディミトロフを首相とする「ブルガリア人民民主主義共和国」の成立が宣言されました。以降野党に対する弾圧は一層激しくなり、1948年までに実質的な共産党による一党独裁体制が成立しました。

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チェルヴェンコフの小スターリン体制

 ソ連の独裁者スターリンは、自国のみならず影響下にある国々の指導者に自身の息のかかった人物を就けていきます。これにより「東欧スターリン体制」と呼ばれる強固な体制が構築されていくことになりました。

ブルガリアの「小スターリン」は、ヴルコ・チェルヴェンコフという男で、1925年からソ連に亡命した筋金入りの親ソ派でした。スターリンの権力を背景に、チェルヴェンコフは農業の集団化や工業化、宗教の弾圧が進行し、ソ連型の国家建設が急ピッチで進められました。

しかし1953年3月にスターリンが死亡すると、ブルガリア共産党内でさしたる支持基盤がなかったチェルヴェンコフは影響力が低下し、トドル・ジフコフが代わって共産党書記長に就任しました。

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Discription: Portrét Todora Živkova Work by:Fredy.00

チェルヴェンコフはその後も首相の座に留まるも、中国の大躍進政策を取り入れた「ブルガリア版大躍進」が大失敗に終わると、ジフコフはチェルヴェンコフを全てのポストから解任してジフコフ独裁体制を固めました。

 

ソ連の忠犬・ジフコフ体制

ジフコフの権力奪取はソ連政界とも連動しており、ジフコフの後ろ盾はフルシチョフでした。ブルガリアはジフコフ体制の元で最もソ連に親密な国となり、1960年代から主に中欧の国々で反ソ連暴動が相次いだのに対し、ブルガリアではほとんどそれらしい反ソ連機運が高まることはありませんでした。

ブルガリア人はスラヴ民族としてのソ連への親密感があり、また独立闘争を支援してくれたという恩義に加え、直接の軍事的脅威がなかったこと、また農業国ブルガリアが工業化を推進するにあたってはソ連の援助が何よりも必要だったためと思われます。

ソ連の支援の元で、ブルガリアは軽工業や食品工業の発展に努めて順調に経済成長を達成しました。農民には借地が奨励されローンも組むことができ、農業生産向上の政策も積極的に打ち出されました。また、検閲はあるものの極端な表現の規制はなかったし、1970年代のブルガリアは比較的安定した国となっていました。

 

ジフコフ体制の崩壊

1970年末から東側諸国は一様に経済危機に陥り、それは大親分のソ連も例外ではありませんでした。ソ連ではペレストロイカにより市場の競争原理の導入、複数政党制の導入、民族による自治の付与などへ舵を切っていきました。

ソ連の不況をまともに食らったのがブルガリア。ソ連の多大な援助の元経済発展を続けてきましたが、ソ連が石油価格を引き上げ庶民の生活を圧迫。エネルギーが不足し食料生産も低調になり、食料を求めて店頭には長蛇の列ができ、人々の不満は高まっていきました。

1988年末より独立労働組合や少数民族団体などの市民団体が組織され、閉塞感を打破する動きが高まると、東ドイツのホーネッカー辞任・ベルリンの壁崩壊といった出来事に連動し、共産党の改革派がクーデターを引き起こしジフコフを辞任させ、外務大臣ムラデノフが当書記長に就任しました。

その後1990年2月にブルガリア共産党は「ブルガリア社会党」と自主的に名称を変更。その年の6月の選挙で自由選挙が実施され、国名も「ブルガリア共和国」に変更されました。

 

 

 

まとめ

かなり長くなってしまいましたが、古代から現代までのブルガリアの歴史をまとめてみました。 

近代以降のブルガリアは、民族主義の高まりとともに中世ブルガリア帝国の復興を目指して領土の回復に固執し、故にたびたび選択を誤って戦争に敗北し続け、第二次世界大戦でも領土に固執するあまり、アメリカとの平和裏の終戦を見逃したりしています。

共産圏に入って以降は、1970年代まではソ連の支援の元順調に経済発展をしており、かつての野心的なブルガリアは見る影もありませんが、「ちょうどよい発展途上国」といった様相でした。

ソ連崩壊後は市場経済に意向し、1996年には年500%という超ハイパーインフレを経験するも、現在は持ち直し健全な財政運営を行っているようです。

中編でも述べましたが、ブルガリアは歴史的にその時その時に関係が深い国と従属変数的な関係にあり、中世はフランク王国やビザンツ帝国、近世だとオスマン帝国、戦後はソ連と一蓮托生的な関係にありました。

現在はと言えば、ドイツやイタリアといったEU圏と親密な関係にあるようです。

しかしEUの危機とロシアの復活が進む中で、ブルガリアは果たしてどのような道で生き残りを模索していくのでしょうか。

 

 バルカン史 柴宜弘 山川出版社

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