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1942年アメリカ兵vsオーストラリア人「ブリスベンの戦い」

アメリカ兵とオーストラリア人が一触即発状態になった事件

ブリスベンの戦い(1942年11月26日~27日)は、第二次世界大戦中にオーストラリア・クイーンズランド州ブリスベンで、オーストラリア人と駐留アメリカ軍との間で起きた騒乱です。

騒乱は2日続き、幸い本格的な戦いになることはなかったものの、もし両軍が戦闘状態になっていたら日本軍への対応で少なからず影響が出たに違いない事件でした。

なぜ同盟国同士が一触即発状態になってしまったのでしょうか。

 

1. オーストラリア市民に歓迎されるアメリカ将兵

急激に増えるアメリカ兵人口

日本軍による真珠湾攻撃がおきてすぐ、アメリカ軍はオーストラリアの軍事基地化を検討し始めました。

1941年12月14日、アイゼンハワー准将はオーストラリアに軍事施設を建設することを提案し、3日後にマーシャル米陸軍参謀総長がこの計画を承認。12月22日にはブリスベンに4,000人以上のアメリカ兵が到着しました。ものすごいスピード感です。

その後最盛期には約8万人のアメリカ兵がブリスベンに駐留することになります。当時のブリスベンの人口は約33万5,000人で、人口の約20%がアメリカ兵という事態になってしまいました。

同じ英語を話すとはいえ町に急激に外国人が増えたわけで、何か問題が起きない方がおかしいのですが、当初は日本軍の脅威のほうが深刻で、アメリカ兵はブリスベン市民に温かく向かい入れられました。

 

消えた日本軍の脅威

1942年年3月、ダグラス・マッカーサー元帥がフィリピンからオーストラリアに拠点を移し、7月には司令部もブリスベンに変更になりました。

マッカーサーの最初の主要作戦は、ニューギニア島に上陸した日本軍のポートモレスビー攻略を阻止すること。ポートモレスビーが陥落するとオーストラリア本土が本格的に危うくなります。

伝染病が蔓延するジャングルで、武器も食料も乏しい中でシドニー・ロウェル元帥率いるオーストラリア軍は必死の戦いをみせ、最終的にポートモレスビーから約50キロの地点で日本軍の進撃を食い止めることに成功しました。

その後、ミッドウェー海戦(1942年6月3~6日)とガダルカナルの戦い(1942年8月7日開始)によって、日本軍の南下は停止しました。オーストラリア本土が日本軍に上陸される危険がなくなると、駐留アメリカ軍に対する不満と問題が一気に噴出することになりました。

 

2. 「不平等だ」「やつらのほうがいい思いをしてる」

ブリスベンでは、オーストラリアの民間人や軍人がアメリカ兵への不満を口にするようになっていきました。

アメリカ軍下士官の給料は、オーストラリア軍下士官の2倍もある。

アメリカ軍下士官の軍服は、オーストラリア軍将校のものより素材が良くスタイリッシュに仕上げてある。

アメリカ兵は性欲が強く、ブリスベンの娘たちをたぶらかす。

さらに戦時統制下での物資不足に起因した不満もありました。

アメリカ兵はブリスベン中心部にある郵便交換所(PX)内にある食堂を独占的に利用している。

アメリカ兵は俺たちが手に入れることが難しいタバコ、アルコール、チョコレートなどを豊富に手に入れている。

どういうことだ!こんな不平等があっていいのか!

オーストラリア軍では、第一次世界大戦のANZAC(オーストラリア・ニュージーランド軍)の参加の時から受け継がれた精神として「メイトシップ(仲間意識)」の概念がありました。これは仲間同士尊重し合い、お互い忠誠を誓い合うといったニュアンスがあり、平等主義的な感覚を重視していました。

そのためアメリカ兵が極端に「いい思い」をしていることを露骨に見せつけられることは「メイトシップ」に反しているようにオーストラリア人は思ったわけです。

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3. 11月26日の騒乱

11月26日午後7時ごろ。

アメリカ軍第404信号中隊のジェームス・R・スタイン上等兵は、酒を飲んでいたホテルを出て、 50メートルほど先の郵便交換所(PX)に向かって歩いていました。

スタインはたまたま近くにいた3人のオーストラリア人に話しかけるために立ち止まったところ、米軍第814憲兵中隊(MP)のアンソニー・E・オサリバン上等兵がスタインに休暇証の提示を求めました。

スタインが休暇証を探していると、憲兵は「逮捕するぞ」と言い放ちました。

日ごろからアメリカ人憲兵をよく思っていなかったオーストラリア人は、憲兵に悪態をつき「こいつに手を出すんじゃねえ」と言い始めました。

オサリバンがオーストラリア人の一人を殴ろうとして警棒を振り上げ、オーストラリア人2人が抵抗すると周りの憲兵もかけつけました。騒ぎに気づいたオーストラリア兵と数人の民間人も、同胞を助けるために寄ってたかって憲兵たちをタコ殴りにしました。

憲兵たちはスタインも含めPXに退却。

その間に、100人ほどのオーストラリア軍人と民間人が集まりPXを包囲し、ヤジを飛ばしながらビンや石を投げ始めました。

窓ガラスが割れ、建物が破損し、たまりかねた憲兵の一人がショットガンを持ってPXの入り口に立つと、興奮したオーストラリア人たちは武器を奪おうと憲兵に殺到。どさくさでオーストラリア軍のエドワード・ウェブスターがショットガンで撃たれ即死。

さらに2発の発砲があり、6人のオーストラリア人怪我をしました。

暴動は午後10時まで続き、ブリスベンの繁華街は一時的に平穏を取り戻したのでした。

 

4. 11月27日の混乱

11月27日、前日に事件があった郵便交換所(PX)は厳重に警備されました。

この日、オーストラリア兵たちが集まったのは通りを挟んだところにあるアメリカ赤十字社の前でした。オーストラリア兵の一団は、マッカーサーを襲撃しようとアメリカ軍の司令部ビルに向かいます。

ところがマッカーサーが出国していたことがわかると、オーストラリア軍人たちは町に散り散りになり、アメリカ兵を見つけると問答無用で殴りかかりました。オーストラリアの憲兵隊とブリスベン警察はこの騒動にほとんど介入せず、「させるに任せる」状態でした。ゲーム「ファイナルファイト」状態です。

結局、真夜中までに暴力は収まったものの、20人以上のアメリカ兵が重症を負い、病院に入院することに。

その後、上級指揮官から強い圧力を受けたオーストラリア軍憲兵隊が重い腰を上げて積極的に町をパトロールするようになり、アメリカ兵を襲撃するような連中を取り締まったため、ようやく終結しました。

ちなみにこのようなアメリカ兵に対する暴動はブリスベンだけでなく、クイーンズランド州ではタウンズビル、ロックハンプトン、マウントアイザ、他の州でもメルボルン、ボンダイ、パース、フリーマントルでも発生しています。

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まとめ

両軍が戦闘状態に陥ることはなく、その後対処を行なったことで単なる暴動で終わりました。しかし、似たような騒乱がオーストラリア各地で起こっていたということは、争いの種となる感情は人々に共有されていたもので、もしかしたら大規模な反米運動に発展していた可能性もあったかもしれません。

そうなったとしても戦争遂行への大きな影響にはならなかったでしょうが、両国の大きな遺恨にはなったに違いありません。

「経済格差、権力勾配を目の前で見せつけられる」ことの弊害というものを考えさせられる事件です。

 

参考サイト

"Battle of Brisbane" Britannica

Battle of Brisbane - Wikipedia