李氏朝鮮でもっとも議論となった朱子学論争の一連の流れ
四端七情論とは、朝鮮朱子学を大成させた李滉(イ・ファン)と奇大升(キ・デスン)との間で行われた論争。
この論争は1559年から8年にもわたり繰り広げられ、当時の朝鮮士族たちの話題の中心となりました。二人の論争が終了した後も論争は続き、李氏朝鮮末期まで続きました。
当時の朝鮮の人々の大きな関心ごとであった四端七情論とはどのようなものだったのでしょうか。
1. 四端七情とは
この論争を一言で説明すると、朱子学の基本的概念である「気」と「理」の関係性を明らかにしようとするものです。
まず、気と理とはなにかを解説します。
「気」とは世の中の物質や現象、運動などあらゆるものを構成する概念で、人の体も気によって構成されていると考えます。よく知られる「気功術」は、体内の気の流れを正したり対外から気を取り込むことによって、体を健康にしたり超人的な力を手に入れようとするものです。ただし気は人によって清濁があり、その質によって上は聖人から下は大悪党までを生み出すとされます。気とは突き詰めると個人が持つ善悪の素質とでも言うべきものです。
一方で「理」は行動や運動、変化を規定する法則、いわば万物の原理のようなものです。朱子は「理は形而上の道、気は形而下の器」とし、理は気に対して根源的な性格を有すると述べました。気は個人の努力によって変えられるが、理は普遍原理のため変えられないということです。
次に四端七情とはなにか。
四端とは「惻隠 そくいん(哀れに痛ましく思う)」「羞悪 しゅうお(悪しきことを恥じる)」「辞譲 じじょう(譲り人に譲る)」「是非 ぜひ(善を是とし悪を非とする)」で、内にある「仁・義・礼・智」が外に現れた状態です。
七情は「喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲」という感情のことを言います。
この四端と七情がそれぞれ「理」「気」とどのように関連しているか、という議論が李滉と奇大升との間で問題となったのです。
両者の論争の過程を追う前に、大前提として朱子学の生みの親である朱子(朱熹)が四端七情をどのように考えていたかを知っておかなくてはなりません。
2. 朱子が考えた四端七情
朱子の弟子たちが朱子の死後にまとめた『朱子語類』巻五十三にはこうあります。
(朱子曰く)『四端は是れ理の発、七情は是れ気の発なり』。(輔漢卿)問ふ『喜怒愛悪欲の如きを看得し来るに、却って仁義に近く似る』。(朱子曰く)『固より相似する処有り』
朱子は「四端は理より発し、七情は気より発する」と明確に述べています。
惻隠・羞悪・辞譲・是非は理で根源的であり万物の法則であり、喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲はその下にある気でありコントロールが可能ということです。
それに対して、朱子の弟子の輔漢卿は
「といっても先生、七情の中でも例えば、喜・怒・愛・悪・欲は理に属する惻隠・羞悪と似てるんじゃないでしょうか?」
と質問をします。朱子は
「固より似ている所がある」
と曖昧な回答をしています。この朱子の回答にも議論があり、弟子の鋭い質問にたじろいで答えになってない答え方をしたという解釈と、確かに四端にも気があり七情にも理がありそうだ、と弟子の指摘に納得したという解釈もあります。
ただしこれが朱子の結論ではありません。朱子の言行は時代や話し相手によっても変化し、所どころ矛盾するところもあったようです。朱子の死後に弟子たちは師の教えをなるべく矛盾がないように編集していったと考えられるのですが、他の資料では「四端は理より発し、七情は気より発する」を発展させたような論を展開しています。
『孟子集注』では、朱子は四端を以下のように説明しています。
惻隠・羞悪・辞譲・是非は情也。仁義礼智は性也。心は性情を統る者也。端は諸也。其の情の発に因りて性の本然得て見る可し。猶物は中に在りて諸は人の必ず有る所の者也。自ら能はずと謂ふ者は物欲之を蔽ふのみ。
仁義礼智が外に発動して惻隠・羞悪・辞譲・是非となるが、そこで初めて性の本然となることができるという前提がありますが、そもそも四端でさえ常に性の本然が現れるのではなく、理が物欲や私欲によって害されてしまうことがあると述べています。
次に「中庸章句」で七情についての説明です。
喜怒哀楽は情なり。其の未は則ち性なり。偏倚する所無し、故に之を中と謂う。発して皆節に中る、情の正なり、乖戻する所無し、故に之を和と謂う。大本は、天命の性、天下の理皆此に由りて出ずる、道の体なり。達道は性に循(したが)うの謂いにして、天下古今の共に由る所、道の用なり。此れ、性情の徳を言い、以て道は離れるべからざるの意を明らかにす。
七情は人間の情なので悪に流れることも多いが、善もあると述べています。未発(心がまだ発していない状態)では「中」、已発(心がすでに発した状態)では「和」という表現で、七情には未発已発にも関わらず、気のみならず理が離れないとされています。
まとめると、四端は善になる場合が多く、七情は悪に流れることが多いが、共に理と気よりなるため、四端、七情、ともに善悪があるとされました。
朱子の時代はこの説明が受け入れられ、これ以上議論が先に進むことはなかったようです。 というのも、当時は四端七情の解釈を深める必要性が低かったからです。
当時は南宋の時代で、民衆の間では現世否定的な仏教が広まっていました。仏教では個別的なものは虚妄であり空であると考えたため、人々の間では活力が失われ社会発展が停滞し、北方異民族に対抗する力が蓄えらない、と朱子は考えました。
仏教に対抗するため、朱子は「気がある故に個別の人間は存在可能」と説きました。そうすると悪の個人の存在を許容することになる。理は気よりも根源的であるため、気を清浄にすれば大悪党も聖人になれるという考えを強調することで仏教に対抗したわけです。
そういうわけで、朱子や彼の弟子たちは仏教勢力の戦いに多くのエネルギーを注いだため、四端七情の解釈を深めようとはしませんでした。四端七情は共に理と気を含むため善悪両方あるが、それぞれで理と気がどのように関連しているのかなどは明らかになっていませんでした。
その表現や解釈をより明らかにしようとしたのが李氏朝鮮の四端七情論争だったわけです。
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3. 四端七情論争の経過
李滉(イ・ファン)は16世紀の朝鮮の儒学者。同時代の李珥(イ・イ)と並び「二大儒」と称される朝鮮儒学を大成させた人物です。
李滉はかつて天命図という朱子学を分かりやすくまとめた書物に改訂を加えたことがあったのですが、1559年の正月、「四端は理より発し、七情は気より発する」の説明を、当時33歳の若手儒学者である奇大升らが納得していないことを聞き及び、天命図を以下のように改訂し奇大升らに書き送りました。
四端の発は純理、故に不善無し。七情の発は兼気、故に善悪有り
この書簡に対し、奇大升は四端七情を理と気に分離するのは誤りではないかと反論したことから論争が始まりました。
この論争は足掛け8年続きますが、激論が繰り広げられたのは最初の3年だけで、論争によって李滉が天命図を四端は「理発して気之に随う」、七情は「気発して理之に乗る」と修正して歩み寄りをみせ、8年目に奇大升が李滉が提示した「四端発於理、而無不善」「七情兼理気、有善悪…故謂之気発」に同意したことで論争は終結しました。
これだけ読んでも何がなんだかよく分からないと思います。
両者がどのような立脚点からこの問題に取り組んだか見ていきましょう。
4. 奇大升の主張
奇大升は最初の書簡で自分の考えを述べています。
人間の心(心には理が備わっている)の未発(心がまだ発していない状態)は性で善であり、已発(心がすでに発した状態)は情(=気)で善悪がある。性は理であり、情となった場合理と気があり、四端七情共に情であるため、この理気によって構成されている。理と気の関係については、理は気の主宰であり、気は理の材料であるとして、一応理の気に対する根源性を認めつつも、論理的に二つは明確に交わらないとしています。しかし現実は明確に分離できないところがあるとして理の気に対する根源性に対して曖昧な書き方をしています。
奇大升は四端七情ともに「理より出でて気に乗る」ものであり、同じ種類のものであると考えていたようです。七情は情の全部を説明しており、四端は七情の一部を別の形で表現しただけであり、両者は区別されているが、それぞれ独立して存在しない、というのが奇大升の主張です。
奇大升は李滉が最初に述べた「四端の発は純理、故に不善無し。七情の発は兼気、故に善悪有り」にも納得できませんでした。
奇大升にとっては「四端は、性(理)が気のコントロールがままならぬまま発動したものであり、純粋な天理の発動であるが、七情の枠外に出るものではない」と考えていました。
四端は性(理)より出て気に乗る情であり、理のみではない。理は弱く気は強いため、理が気を制御できず、悪に流れることが多いが、時には理が制御して善となることもある。奇大升は四端をそのような七情中の善情であると考えていました。
5. 李滉の主張
一方で李滉は奇大升への最初の反論でこのように述べています。
四端も七情も「均しく是れ情」であり、四端七情ともに理と気より構成されていることを認めます。ですが、どの観点からいうかによって四端と七情は区別されるとします。
理(仁義礼智)が性中にあるが、四端はその理が情として外に現れた状態。従って四端は理気の合であるが、主要なものは理である。一方、外からの刺激が形気に触れて中に動いた場合、その刺激に感じやすく先に動くのは気であるが、七情は気の系統に属するものである。そのため、七情には理もあるが気を主に指して言うのである。
李滉はこのように述べ、性を「本然の性=理」と「気質の性=気」と理解し、理と気の違いを強調しています。
朱子も同様の立場ですが、さらに理の気に対する根源性を強調するため、人物にあっては気は器、理は道であるとしていましたが、「理は万物に超越する物(実体)」とさらに理の優越性を強調してもいます。こうして、理は人物に内在する道(道理)でありつつ、万物に超越する物(実体)であるという難解な概念となりました。
李滉は補足的に、情の次元では気が主になり善悪のある七情とは別個に、四端を理=仁義礼智より発し、純理、不純なしとしました。李滉は論理的に考えて、四端と七情は気も理も含むが異なる別個の情と考えたのですが、朱子語類の「四端は是れ理の発なり、七情は是れ気の発なり」という表現は「四端に気なく、七情に理なし」と読めるということも否定できません。
李滉も奇大升との議論の当初は朱子の言葉を額面通りに飲み込むよう主張しますが、途中から誤りを認めて二点修正を行っています。
一点目が「四端七情共に理と気を含むもの」とした点。
二点目が「四端も気を含む故に悪になる場合がある」という点。
朱子注をよく読めば、朱子が同様の考えに達していたことが分かったと思われますが、李滉は『朱子語類』の表現に形式的にこだわっていた側面があります。
基本的に李滉は朱子の考え方と同じで、朱子の表現をより論理的に正しく改めたのした。
奇大升の主張は理の根源性を明確にはしておらず、むしろ七情を強調する立場でした。
6. なぜ理は優越性があるか
ところで なぜここまで朱子も李滉も、理の優越性を強調したのでしょうか。
結論から言うと、政治的な目的のためであると考えられます。
朱子の生きた時代は南宋の時代で、 主力産業である農業の経営主体は佃戸(小作農)が主体であり、労働生産性は極めて低いものがありました。さらに南宋は北の騎馬民族の脅威にさらされ、人々は現世悲観的な仏教を信仰していました。朱子は理の優位性を説くことで、強力な統一権力の秩序を正当化し、天命を受けた皇帝による王道政治をもって人々をまとめ漢民族国家の国力を高めようと考えていたのです。
同じように李滉も極めて政治的な意図をもって四端七情説を理解していたと考えられます。
李滉の生きた時代、李氏朝鮮はエリート官僚が力を持って党派争いを繰り広げる一方で王権は極めて弱く、政治的に極めて脆弱な状態で北西の明、北の女真、南の日本という強力な外国の脅威に身を晒していました。
そのため李滉は、朝鮮の維持発展を図るには、弱体化した王権の強化を図らねばならず、理の根源性を強調することで、中国の冊封を受けた朝鮮王朝の権力を正当化し、国王による王道政治をもって国を建て直さねばならないと考えました。
四端七情論は一見、不毛な知識人の空中戦にも見えますがその実、儒教のロジックで遠大に叙述した国家論であったのです。
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まとめ
かなり難解な議論です。
朝鮮王朝は政治や経済などの各種政策論もこのような儒教の論理で議論する必要があり、相当高度な知性を必要とするものでした。
現代から見ると非効率の極みに見えますが、このような論争は人間存在の理解に対する論争でありつつ、朝鮮王朝の正当性や政治的枠組みを規定する論争でもあったため、国の安全保障や経済政策、ひいては自らの利益にも直接関わってくる大問題であったことがよく分かります。
参考文献
"李退渓の四端七情論--奇大升との論争を中心として" 辺 英浩 大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター年報 2003年