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強制収容所・人種差別と闘った日系アメリカ人

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様々な形で「収容所」を克服しようとした日系アメリカ人たち

第二次世界大戦中、日系アメリカ人がアメリカ政府の政策により強制収容所に収容されたことは非常によく知られています。

日系人に対する不当な扱いは後に問題視され、1989年に大統領ジョージ・H・W・ブッシュは、存命中の元収容者に対して謝罪と賠償金の支払いを行うことを表明しました。

戦後40年以上たってようやくアメリカ政府が過ちを認めたその背景には、収容所を生き延びた日系アメリカ人の人々の協力で粘り強い働きかけ、そして社会的な成功があってのことでした。

今回は非常に高名な日系アメリカ人で、日系や社会的弱者の地位向上、差別の撤廃を目指す運動など、それぞれの形で「祖国アメリカ」と向き合った人物をピックアップします。

 

1. ゴードン・ヒラバヤシ(1918-2012)

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Photo by "Image courtesy of the Korematsu family"

 平和主義者として強制収容所に抵抗した人物

ゴードン・ヒラバヤシは日系人強制収容所に対し身を挺して反対した人物です。

両親は長野県の農村の生まれで、一家は内村鑑三が興した無教会主義キリスト教の信者でした。ワシントン州シアトルで生まれたヒラバヤシも敬虔なキリスト教の信者で、ワシントン大学在学中にYMCAで活動してから、アメリカが平和主義と不介入主義をとるべきと信じるようになり、シアトルに戻ってからはクエーカーが設立したアメリカ・フレンズ奉仕団に参加しました。

太平洋戦争が勃発し大統領令9066号が発令され、日系人が強制収容所に入れられることになると、まさか合衆国が市民権を侵害したりはしないだろうと信じていましたがそうでないことを知ると、合衆国憲法の理念と明らかに矛盾する法律を前にし、「抵抗しなければならない」と決意しました。

「転居」の登録をする時が来た時、彼は代わりにFBIに出頭し、法の手続きなしに日系人を拘束する政府を批判した上で命令の拒否を宣言しました。彼は弁護士や人権団体の支援を得て最高裁判所まで戦いますが敗訴しました。しかし当局はなぜかヒラバヤシを逮捕しようとしなかったので、彼はヒッチハイクで自分の足でアリゾナ州ツーソンの刑務所に赴き、自分で収監されました。

ツーソンでは、ヒラバヤシは彼と志を同じくする良心的兵役拒否者や、先住民の徴兵拒否者、政治犯、移民法違反者、銀行強盗、アメリカ先住民に酒を売って有罪となった者などの犯罪者と知り合いになり大いに刺激を受け、キリスト教平和主義者としての価値観を貫いて生きる決心をますます固めたそうです。

戦後、ワシントン大学で社会学の博士号を取得し、レバノンやエジプト、カナダで教鞭を取りました。教職退任後、カリフォルニア大学サンディエゴ校のピーター・アイロンズ教授から、1942年にアメリカ政府がヒラバヤシの裁判に対し不正行為を行った事実が記載された資料が発見されたと電話を受けました。これを受けて連邦裁判所においてヒラバヤシの再審が行われ、1987年に有罪判決は覆され名誉の回復がなされました。

 

2. フレッド・コレマツ(1919-2005)

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Image from "Image courtesy of the family of Fred T. Korematsu"

 日系人強制収容所の不当性を訴えた活動家

フレッド・コレマツは日系人強制収容所の不当性を訴え、収容を拒否して逮捕された人物です。

彼は本名を是松豊三郎と言い、1919年1月30日にカリフォルニア州オークランドに花の苗木屋を営む日系移民の両親のもと、4人の息子の3人目として生まれました。

アメリカが第二次世界大戦に突入した後、州兵や沿岸警備隊に入隊しようとしたが、日系人であることを理由に拒否されます。その後、造船所で溶接工として働くもある日突然解雇されるなど、激しい人種差別を受けました。

太平洋戦争が勃発しルーズベルト大統領が大統領令9066号に署名し、日系人の強制収容が始まるとコレマツは命令に背くことを決意。目の整形手術を受け二重にし、クライド・サラと改名し、スペイン系とハワイ系を名乗って逃亡しました。しかし5月30日、カリフォルニア州サンレアンドロの街角で逮捕され、サンフランシスコ郡刑務所に収容されました。

拘置所の中で、アメリカ自由人権協会(ACLU)サンフランシスコ支部の支部長アーネスト・ビーシグの面会を受け、政府による日系人の投獄の合憲性を争うためのテストケースになってくれないかと頼まれました。コレマツはこれを受け入れ、ビーシグが支払った保釈金で一時的に保釈されるも、再び憲兵に逮捕され、行政命令9066号に基づき、軍命違反で有罪判決を受けました。そしてカリフォルニア州サンブルーノの収容所、次いでユタ州トパーズの収容所に収容されました。

1943年12月には控訴裁判所で有罪となったため、ビーシグは最高裁判所に控訴。しかし一年後、最高裁判所でも敗訴となりました。日系人は陸上から敵艦に無線信号を送っていて不誠実な傾向があるという陸軍の主張が正当化され、決して強制収容は人種差別によるものではない、としました。

それ以降コレマツは前科を持つことになり、家族を儲け穏やかに暮らしました。

1980年、カーター大統領により戦時中の日系人強制収容所に関する調査の命令が下され、二年後の1982年にゴードン・ヒラバヤシと同じく、ピーター・アイロンズ教授から、日系人がスパイを行っていたという事実は虚偽であったという連絡を受けました。コレマツは再び名誉回復のための裁判を起こし、1983年11月10日、北カリフォルニア連邦地方裁判所のマリリン・ホール・パテル判事は、正式にコレマツの有罪判決を覆しました。これはアメリカの公民権の歴史の中で非常に大きな功績であると位置付けられています。

この功績が評価され、1998年にコレマツはクリントン大統領により「大統領自由勲章」を受章されています。

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3.ノーマン・ミネタ(1931-)

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日系人初のアメリカ運輸省長官 

クリントン政権で商務長官、ブッシュ政権で運輸長官を務めたノーマン・ヨシオ・ミネタは、1931年にカリフォルニア州サンノゼに日系一世の両親の元に生まれました。

第二次世界大戦中、一家はワイオミング州コーディ近郊のハートマウンテン収容所の「エリア24、第7バラック、ユニットB」に抑留されました。ミネタ少年は野球が好きだったためバットを持ちこもうとしますが、武器として使用される可能性があったため当局によって没収されてしまったことを痛恨の思い出として語っています。

また、ボーイスカウトに所属していたミネタは収容中されている間、ワイオミングの少年アラン・K・シンプソンと仲良くなりたびたび遊んでいました。彼は後に共和党の議員となり、オバマ政権下では財政責任と改革に関する国家委員会の共同議長に任命されています。シンプソンとミネタは議員となった後も仲が良くと共に協力する仲でした。

収容所を出て勉学に励み1953年、カリフォルニア大学バークレー校経営学部を卒業。卒業後アメリカ陸軍に入隊し日本と韓国で情報将校として勤務し、父と一緒にミネタ保険代理店を経営ました。

政治のキャリアは、1967年にロン・ジェームズ市長からサンノゼ市議会の空席に指名されたことから始まりました。1971年にミネタは第59代サンノゼ市長となり、アメリカの主要都市で初の日系人市長となりました。1974年、ミネタはカリフォルニア州下院第13区から民主党所属で立候補し当選。

1988年、ミネタとボブ・マツイ、バーニー・フランクを含む下院議員は、上院法案の71人の共同提案者を得たスパーク・マツナガらと共に第二次世界大戦中に日系アメリカ人が受けた不正義をアメリカ政府として公式に謝罪しました。これにより被害を受けた存命の日系アメリカ人に対して経済的補償が行われることになりました。

ミネタは2000年にクリントン大統領から商務長官に任命され、アジア系アメリカ人として初めて大統領内閣に就任しました。また2001年には、次のジョージ・W・ブッシュ大統領によって民主党員ながら運輸長官に任命されました。

在任中、アメリカ同時テロ多発事件、911事件が発生。アメリカ中でアラブ系を中心としたイスラム教徒への憎悪が高まり、アメリカに来訪する人物の人種プロファイリングへの支持が強まる中で、ミネタは自身の強制収容所の経験からこれを断固拒否したのです。

 2001年11月には、彼の功績を讃え、地元サンノゼの空港は名前を「ノーマン・Y・ミネタ・サンノゼ国際空港」と改称しています。

 

4. マイク・ホンダ (1941-)

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従軍慰安婦問題の公式謝罪を日本政府に求める決議を提出

 マイク・ホンダはかつて民主党所属で下院議員を8期務めた人物。特に社会的立場の弱い人の地位向上や名誉回復に努めました。

マイク・ホンダは1941年6月27日、カリフォルニア州ウォルナットグローブの生まれ。生後6ヶ月の時にコロラド州の日系人強制収容所に送られました。父は1943年に米軍情報部(MIS)に入部するも、一家は投獄されたままだったそうです。

終戦後に一家はベイエリアに戻り、サンノゼに定住しました。マイク・ホンダは、1959 年にサンノゼ高校を卒業して軍に入り2年従軍し、退役後にサンノゼ州立大学を卒業。1970年代から1980年代にかけてサンノゼで教師として働き、教育委員会に勤めた後、1996年にカリフォルニア州議会議員に当選。その後1999年に下院選に挑戦し当選。その後8回連続で当選しました。

マイク・ホンダは任期中、旧日本軍が起こした人道問題の解決に熱心に取り組みました。特に功績として大きいのは、2007年に米国下院議会で「従軍慰安婦問題の対日謝罪要求決議」を提出し可決させたことです。彼はあくまで目的を「日本をバッシングしたり貶めることではない」「このようなことが続くことを許してはならないということを後世に教えなければならない」としています。

マイク・ホンダはその他にも、人身売買問題やLGBTの地位向上問題にも積極的に取り組んでいます。また、911の発生による人種プロファイリングを求める声に対しては、運輸大臣ノーマン・ミネタに賛同し、実施に反対しました。

 

5. ユリ・コウチヤマ (1921-2014)

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過激な黒人解放運動に参加した女性活動家 

ユリ・コウチヤマはアメリカで最も著名なアジア系アメリカ人の女性活動家で、日系人強制収容所への賠償、反戦運動、人種マイノリティへの支援活動などを行いますが、過激な黒人解放運動で知られたネイション・オブ・イスラムのマルコムXと懇意になり、黒人活動家への支援を通じて解放闘争に参画したことです。

コウチヤマは1921年5月19日、カリフォルニア州サンペドロの実業家の父とピアノ教師の母との間に生まれました。家は裕福で、派手な自家用車を乗りまわしていたそうです。コウチヤマは短大卒業後に教師となりました。

太平洋戦争勃発の日、自宅に3人のFBI捜査官がやってきて父親を逮捕。FBIによると、父は日本側の役人を接待したり、日本海軍協会に寄付をしたりしていました。また、スパイ容疑で逮捕された日本の海軍将校の手紙に彼の名前があったことで、スパイ嫌疑がかかったのです。父は6週間抑留され健康状態が悪化し、釈放された翌日に死亡しました。

彼女自身も強制収容所に入れられ、その中で約3,000人の日系二世の兵士に休日の挨拶や手紙を送る活動を始めるようになりました。この活動は話題になり、収容所から出て結婚した後も朝鮮戦争に従軍する日系や中国系の兵士への支援や援助活動を継続していきます。多くの兵士やその家族が助けを求め、コウチヤマの小さい家には一時100人もの人々が詰めかけていたそうです。

1950年代から公民権運動が発展するにつれ活動範囲が広がり、1960年にニューヨークに引っ越しマイノリティの子供たちに質の高い教育を要求するための学校のボイコットや、黒人とプエルトリコ人労働者の雇用を要求するための抗議活動を組織。

1963年10月には、ネイション・オブ・イスラムの広報官、黒人解放運動の過激な活動家として知られたマルコムXに出会い、その力強さに魅了され、彼の活動を支援をしていくようになります。マルコムXが講演会場で暗殺されたその場にも立ち会っていました。マルコム死後、コウチヤマは黒人民族主義組織「リパブリック・オブ・ニュー・アフリカ」を含む過激的黒人組織や政治犯を積極的に支援し、刑務所を訪問したり手紙を書いたり、講演をしたり資金を集めたりなど、休む暇なく奔走しました。

1960年代後半にはアジア系アメリカ人の活動家のリーダー的存在となり、ニューヨークでは、「アジアン・アメリカンズ・フォー・アクション」に参加し、「ヒロシマ・デー」のイベントで講演者を務め、ベトナムや沖縄などでのアメリカの蛮行を糾弾しました。その生涯を社会的弱者のために戦い続け、2014年に亡くなりました

 

6. リチャード・アオキ(1938-2009)

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Photo by oso

ブラックパンサー党の結成メンバーの一人

 ブラックパンサー党は1967年から1970年代半ばに党勢を誇った黒人解放組織で、共産主義と民族主義を掲げ、毛沢東に影響を強く受け武力による黒人解放を掲げました。アメリカ黒人社会をアジアやアフリカなどのヨーロッパの旧植民地(第三世界)と同一視し、連帯と相互支援を行おうと様々な活動を推進しました。

ブラックパンサー党の結成メンバーとしては、ヒューイ・P・ニュートンとボビー・シールが知られていますが、初期メンバーとしてリチャード・アオキという日系人がいます。

リチャード・アオキは1938年11月20日、カリフォルニア州サンレアンドロで、日系二世の両親の下に生まれました。日系人の強制収容が行われた時アオキは4歳。家族はまずカリフォルニア州サンブルーノのタンフォラン収容所に収容させられ、その後ユタ州トパーズの強制収容所に移されました。幼いころに経験した収容所での生活は、アオキの人生に極めて大きな影響を与えたようです。

トパーズ強制収容所から出た一家は、カリフォルニア州ウェストオークランドに定住しました。アオキはこの町で南部から来た黒人と出会い、彼らが受けた差別や暴力行為について聞き、また実際に警察が黒人に暴行をするところを目の当たりにし、アメリカの有色人種に対する差別的な扱いへの怒りを募らせていきます。

アオキは陸軍に入隊し8年間従軍しますが、ベトナム戦争が本格化するとベトナム民衆への残虐行為に加担したくないという思いから除隊。オークランドに戻ったアオキは、メリット・コミュニティ・カレッジに入学し、後にブラックパンサー党を結成することになるボビー・シールやヒューイ・P・ニュートンと出会い、公民権と過激主義について議論しました。

アオキは社会に実際に変化をもたらそうとする彼らの考えに共鳴し、ブラックパンサー党への参加を表明。従軍経験のあるアオキは軍事部門を統括し、党員の一部をショットガンで武装させ警察からの不当な介入や暴力から身を守ろうとしました。

アオキはブラックパンサー党のみならず、アジア系アメリカ人政治同盟(AAPA)にも参加し、フィリピン系アメリカ人の労働団体、ネイティブ・アメリカン学生協会、ラテン系学生グループなどの過激派学生グループに支援を行い、労働闘争や大学闘争を戦いました。

これらの組織は最終的に、「第三世界解放戦線(Third World Liberation Front)」という組織に統合され、行動で大学改革を行おうとしました。1969年の冬に147名のメンバーでストライキを開始。アオキを含む学生たちは逮捕されましたが、カリフォルニア大学バークレー校が民族学学部を作ることに合意したことでストライキは終わりました。大学院課程を修了して修士号を取得した青木は、この民族学のコースを教える最初の教師の一人となりました。

ブラックパンサー党は方向性の違いによって分裂し1970年代半ばに崩壊。過激派の黒人解放組織は極めて弱体化していきました。アオキは教職を続けながら、その後も政治活動は続け、1999年にカリフォルニア大学バークレー校の予算削減により民族学学部閉鎖の可能性が生じた時、継続を要求する学生のデモ隊を支援するためストライキに参加しました。2009年に70歳で亡くなっています。

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まとめ

 政治家になってトップから変える、法廷で戦う、革命闘争によって。方法は違いますが、どれも不当な差別を社会から根絶させようという点では一緒です。

 他にも日系人強制収容所を経験し、その後アメリカ社会で大きな成功を成し遂げた人物は大勢います。芸術家のイサム・ノグチ、俳優のパット・モリタ、ジョージ・タケイなど。今回ピックアップした著名な人々同様、強制収容所に収容され社会的な差別を受けたことが彼らの人生に極めて大きな影響を与えています。

 

参考サイト

"Mineta Legacy Project"

 "HONDA, Mike" History, Art & Archives United States House of Representatives 

"Gordon Hirabayashi" Densho Encyclopedia

"FRED T. KOREMATSU INSTITUTE"

"Biography of Richard Aoki, Asian-American Black Panther" Thought Co.