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「幸せの国」ブータン王国の歴史

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ヒマラヤの山岳小国の歴史

ブータンという国名の由来は二つあります。

一つ目はサンスクリット語の「ボータンガ(チベットの手足)」から来ているという説。もう一つが同じくサンスクリット語で「ボーターンタ(チベットの辺境)」から来ているというもの。いずれにせよ、ブータンはチベットの外縁として成長した国です。

 ちなみにブータンの共通語ゾンカ語では国名を「ドゥク・ユー」と言います。これは「ドゥク派の国」という意味で、チベット仏教のドゥク派のことで、ブータンという国の成り立ちを端的に表した国名です。

 

1. ドゥク派のブータン定着

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仏教のブータン到来

ブータンの歴史は国名の通りチベット仏教と密接な関係があります。

ブータンに仏教が伝わったのは7世紀、チベットを統一し仏教を導入したソンツェン・ガンポの時代であると言われています。当時のブータンは小さい地域ごとに首長が統治しており、中央政府は存在しませんでした。各地の首長は統治の手法として仏教を取り入れ、時間をかけて徐々に広まっていったと考えられます。

747年には、密教をチベットに伝えたパドマサンバヴァがブータンを訪れ、ニンマ派(古派)を全土に定着させたと言われています。

現在のブータンの仏教にもっとも近い宗派は、カギュ派の支流パクモドゥ派から派生したドゥク派です。ドゥク派は様々なルートでブータンへの定着を図っていきます。

ドゥク派自体は12世紀末から13世紀初頭にかけて開祖ツァンパ・ギャレーによっておこり、南部チベットのラルンに総本山を構えました。ラルン寺座主は、ティンプー、パロ、プナカ、ワンディポダンといったブータン西部の有力な町の一族と婚姻関係を結び、影響力を拡大していきます。

13世紀前半、開祖の甥である二代目座主ダルマ・センゲは、西ブータンに僧パジョ・ドゥゴム・シクポを送ってドゥク派の布教を開始しました。パジョ一族の勢力は以降強くなり、ラルン寺座主とも婚姻し中央ブータンにまで影響力を拡大していくことになります。

13世紀前半、ツァンパ・ギャレーの下で修業をしたオプツァ家の者が北西ブータンのラヤとガサにて寺院を構えて布教を開始しました。これがブータン国内のドゥク派の拠点としては初のものになります。

同じく13世紀前半、カギュ派の支流ディグン派の座主の命によりティンプーの南ツァムダク地方に定住したキュラ氏は、まもなくドゥク派に改宗し布教を開始。同じく13世紀前半、ドゥク派の高僧チカルワが西部の町パロに定住。

このように13世紀前半にドゥク派が西ブータンを中心に影響力を拡大していきます。

 

ドゥク派の後継者問題

ドゥク派の本拠地ラルン寺では16代座主の後に後継問題が起きました。

チベット圏では15世紀以降、叔父から甥への相続形態とは別に、「化身」による相続が一般的となり、最高権力者の死後にその生まれ変わりとなった人物が相続するようになりました。

13代座主ゲルワンジェ・ギンガ・ペンジョルは、チャ家のジャムヤン・チャキ・タクパに化身し、ジャムヤンはドゥク派最高学僧ペマ・カルポに化身し、ペマはゲルワンジェ系譜のチョンゲ領主の子に生まれ変わると遺言しました。ドゥク派のペマ・カルポの直系ガワン・ナムゲルと、チョンゲ領主が化身候補を争うことになりました。

結局16代座主はガワン・ナムゲルに座主を譲り、ガワンは17代座主となるも、ツァン地方の摂政がチョンゲ領主を支持したため、ガワンの地位は不安定になり、1616年に西ブータンに逃亡しました。

 

2. ガワン・ナムゲルによる国家形成

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西ブータンの統一

 西ブータンに入ったガワン・ナムゲルは、17代座主として有力者に三顧の礼で迎えられました。しかしドゥク派以外のラマ五派(サキャ派、ニンマ派、ラ派、バラ派、ネニン派)はドゥク派の支配が拡大することを恐れて軍事抵抗するとともに、チベットのツァン地方の知事に軍事支援を求めました。

 しかしチベットの介入は二度ともガワン率いるドゥク派の抵抗で失敗し、ラマ五派の抵抗も次々に粉砕されていきました。1637年にはブータンで二番目に大きなゾン(要塞・政治施設・寺院を兼ねる建物)であるプナカ・ゾンを建設し、支配を拡大。 

 ▼プナカ・ゾン

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Image by  Bernard Gagnon

1641年にはティンプーのラ派の有力なゾンを陥落させ、ティンプーを夏の首都として、冬の首都プナカと共に行政の中心となりました。こうして西ブータンはドゥク派により統一されました。

 

中央ブータンと東ブータン

当時、中央ブータンと東ブータンにはニンマ派が定着していました。

中央ブータンには、14世紀にチベットより僧ロンチェン・ラプジャンパ・オェセルが来訪しブムタン谷に多くの寺院を建立。15世紀にはブータン生まれの僧ペマ・リンパがやはりブムタン谷に寺院を多く建てました。ペマ・リンパの孫は現在でも大きな宗教的権威を持つ歴代活仏(=代々生まれ変わりが受け継ぐ)ガンテ・トゥルクの本山であるガンテ・サンガ・チェリン寺の建立を始めました。ペマ・リンパの子孫は東ブータンにも進出し、タシガン地方にダミツェ寺を建立しました。

政治的には中央ブータンは地元の貴族による支配が強く、東ブータンはチベット王の末裔を名乗る氏族の支配が続いていました。

ガワン座主は中央・東ブータンへの進出を図りますが、抵抗が激しく中央ブータンのトンサの町を支配するにとどまりました。

 

シャプドゥンの死の隠匿

ガワン座主は「高貴な僧侶」を意味するシャプドゥンの称号を名乗り、シャプドゥンという名前はドゥク派の政治・宗教の最高指導者 を象徴する言葉となりました。 ガワン座主の死後は、シャプドゥンの生まれ変わりとされたゲルツァプ(公式後継者)が国家元首となりました。

シャプドゥンは1651年に死去しますが、死によって体制が動揺し内乱やチベットの介入があることを恐れたブータンは、その死を隠しました。チベットはシャプドゥンの死の情報を掴んでおり、独自にシャプドゥンの化身を用意してブータンへの介入を図りますが、ブータン側が「シャプドゥンは瞑想中である」と公表したことで介入は失敗に終わりました。結局、シャプドゥンの死が公表されたのは50年も経った後のことでした。

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3. ブータン王国の内乱

「シャプドゥン瞑想中」の期間は、政治面では摂政が取り仕切り、宗教面ではドゥク派の大僧正(ジェ・ケンポ)が取り仕切る体制が敷かれました。

初代大僧正は、シャプドゥンにチベット時代から仕えた右腕のペカル・シュンネ、摂政には同じくシャプドゥンの側近テンジン・ドゥクゲが就任しました。

その後3代の摂政によって国土拡張政策が採られ、北は現在のブータン・チベット国境近くのリンシとガサに進出しゾンが建設され、東は東部のカリンにまで達しました。こうして現在のブータンの国土に近い領域が支配下に入り、地方は西部・南部・東部の3つに分けられ、それぞれ領主(ペンロプ)がおかれました。これらの領主は地方行政で力をつけ、その後摂政を排出するようになっていきます。

 

ブータン内戦

1679年、シャプドゥンの甥の家系であるテンジン・ラプゲが初代ゲルツァプとしてドゥク派座主に就任し、4代摂政も兼任しました。当時はまだシャプドゥンの死は隠されたままで、テンジンは発表前の地盤固めとして国内のニンマ派やサキャ派への寛容策を採り、他派の民衆をドゥク派政権の中に取り込んでいきました。

ラプゲの寛容政策はドゥク派内の保守派の反発を招き、プナカ城主ゲンドュン・チェペルが反乱を起こし、テンジンを追放。自ら5代摂政を名乗りました。しかし中央僧院はゲンドュン・チェペルの摂政即位を認めず、シャプドゥンの父の家系からキンガ・ゲルツェンをシャプドゥンの化身と認め、第2代ゲルツァプとなりました。

この後、とうとうシャプドゥンの死が公式発表となり、恐れていた権力闘争が勃発。内戦が始まります。

8代摂政ドゥク・ラプゲは第2代ゲルツァプ、キンガ・ゲルツェンを毒殺して第3代ゲルツァプに自分の息のかかったチョクレ・ナムゲルを就けようとしますが、中央僧院はこれに反対しジクメ・ノルプを化身と認め、二人の化身が国内に立つことになりました。国家は二分され、二派による争いは清とチベットの軍による介入にまで発展しました。

 

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ジクメ・ノルプの兄であるミパム・ワンポが10代摂政になり、チベットの支持を受けてゲルツァプに就任しますが、ミパム・ワンポはその代わりにチベット側と妥協し、チベット生まれの僧ジクメ・タクパをシャプドゥンの「意の化身」として認める密約を結びました。

 

シャプドゥン三化身論

乱立するシャプドゥンの存在を正当化するため、当時のブータンでは密教の「身・口・意」の三密の教理を当てはめ、シャプドゥンが死んだあと、身・口・意それぞれの化身が現れるというシャプドゥン三化身論という理論が作られました。

「身の化身」はシッキム王子だが死去したためブータンには来ておらず、「口の化身」は3代化身チョクレ・ナムゲル、「意の化身」はチベット人のジクメ・タクパです。

中央僧院はミパム・ワンポが勝手にジクメ・タクパを「意の化身」にしたことに怒り、ミパム・ワンポを毒殺しました。そしてシャプドゥンの嫡子ジャンペル・ドルジェの化身としてドゥクダ・ナムゲルを6代ゲルツァプに任じました。

1746年、13代摂政シェラプ・ワンチュクは、乱立する化身たちを首都プナカに集め会議を開きました。招待されたのは、

  • 「口の化身」シャキャ・テンジン(チョクレ・ナムゲルの後継者)
  • 「意の化身」チベット人ジクメ・タクパ
  • 中央僧院が認める6代ゲルツァプのドゥクダ・ナムゲル(シャプドゥンの嫡子ジャンペル・ドルジェの化身)
  • 初代ゲルツァプのテンジン・ラプゲが二代化身したジクメ・センゲ

の4人です。

会議では、化身順位としてドゥクダ・ナムゲルとジクメ・タクパが同順位で、次点でジクメ・センゲ、最下位にシャキャ・テンジンとなることが確認されました。

 

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チベットの介入

ところがドゥクダ・ナムゲルとジクメ・タクパが相次いで死亡したため、ジクメ・センゲが最高位に就きました。チベットのパンチェン・ラマ3世は、独自に「意の化身」としてチェキ・ゲルツェンなる人物を送り込んで最高位に就けようとしました。

16代摂政シダルは、チベット権力を背景に統治の安定化を図りチェキ・ゲルツェンを擁護したため、中央僧院は反発し対立が深まっていきます。

中央僧院はシダルが首都不在の機会を狙ってクーデターを起こし、最高化身ジクメ・センゲを擁してシダルの摂政職を排し、独自に17代摂政を置きました。17代摂政の死後は、ジクメ・センゲ自ら18代摂政となり、政治と宗教の再統一が成し遂げられました。

 

4. イギリス軍の進出とワンチュク王朝の始まり

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クーチ・ビハール戦争

少し時間がさかのぼって13代摂政シェラプ・ワンチュクの時代に、現在のインドのアッサム地方にあったタイ人のアーホーム王国の衰退に乗じて、ブータン軍は北西アッサム地方に進出して徴税権を得ました。

さらに、南にあるクーチ・ビハール王国の内紛に乗じて内政に介入し、1765年から15代摂政ドゥク・テンジンが首都に知事と軍を置き統治を執りました。16代摂政シダルの時代の1772年に傀儡の王を据えますが、人々はこれに抵抗したため、シダルはブータン軍を率いて鎮圧に向かいました。中央僧院がクーデターを起こしたのはこの時です。

ブータン軍の侵攻を受けたクーチ・ビハールは、イギリス東インド会社に支援を求め、ベンガル総督ヘースティングスは1773年に軍を派遣してブータン軍を撃退しました。これがクーチ・ビハール戦争と呼ばれる戦争です。

当時イギリスはロシアへの警戒からと通商ルートの開拓の二つの狙いから、ヒマラヤの北にあるチベットへの関心を強めており、その間にあるブータンの取り込みを画策しました。

戦争に敗れたブータンはクーチ・ビハールの行政権をイギリスに奪われ、アーホーム王国はその後コンバウン朝ビルマの攻撃をうけて疲弊した後、イギリス東インド会社によって1841年に併合されました。

ブータンはその補償金として年間1,000ルピーをイギリスから得ますが、アッサムとベンガルにまたがる肥沃なドゥアール地方の開拓権をめぐってイギリスとは対立が続きました。1864年にドゥアール戦争が起こり再びブータンはイギリスと戦い敗れ、アッサムとベンガルの領地をすべてイギリスに奪われました。

国内にはまだブータンの孤立保持やイギリスとの対決を主張する豪族らがいましたが、ブータンはイギリスとの交渉の上で外交・国防をイギリスに譲渡し内政は維持するというシンチュラ条約を結び、5万ルピーの補償金を得て、独立を維持しました。 

 

ワンチュク朝の始まり

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 19世紀に入ると再びブータンは内乱の時代に突入し、1830年にシャプドゥンの嫡子ジャンペル・ドルジェの化身系譜が途絶え、初代ゲルツァプのテンジン・ラプゲの化身系譜も途絶えました。そうしてプナカ会議で最下位とされた「口の化身」系譜が座主に就くことになります。

 その後「口の化身」の権力も弱体化し、中央部トンサ地方と西部パロ地方の領主が台頭。その中からトンサ領主ジクメ・ナムゲルが化身の座を奪い実力者となりました。ジクメ・ナムゲルの息子ウゲン・ワンチュクが1907年に初代国王となり、ワンチュク朝が開かれました。

こうしてシャプドゥンが政治と宗教の二面を担当する体制は終わり、国王が相対的に強くなり政治面で国の安定化に努めることになりました。現在でもシャプドゥンの化身系譜は残っていますが、役割は宗教面のみです。

 

5. 独立維持のための格闘

初代国王ウゲン・ワンチュクは1927年に亡くなり、息子のジクメ・チャンチュクが跡を継ぎました。

ジクメ・チャンチュクの治世下で、第二次世界大戦後のインドの独立運動によってインドとパキスタンが誕生し、インドはイギリスからブータンに関する権限を継承しました。1949年にインドとブータンの平和条約が結ばれ、インドはブータンの内政に干渉しない一方で外交はインド政府の「助言により指導を受ける」ことが憲法に定められています。これ以降、ブータンはインドとの関係が強くなります。

1950年に中華人民共和国はチベットへの進出を強化し、人民解放軍がチベットを占領してチベットが中国化するにあたって、インドはチベットの影響が大きいブータンが中国化することを警戒するようになりました。そのためインドはブータンに対する支援を強め、ブータンとインドの関係は不可分なものになっていきます。

 

開明君主ジグメ・ドルチ・ワンチュク

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ブータンの内政では、1952年に第三代王ジグメ・ドルチ・ワンチュクによって、全国に県が設置されて地方行政の制度が整い、議会と内閣が創立され、また首都がプナカからティンプーに移されました。

首都ティンプーの象徴して、もともとプナカにあったタシチョ・ゾンがティンプーに建てられ、国家運営と宗教が両方取り仕切られるようになりました。

 

▼タシチョ・ゾン

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Image from Bernard Gagnon

 ジグメ・ドルチ・ワンチュクはブータンの近代化に尽くし、1971年に国連加盟を果たすなど国際的なブータンの地位向上に努めました。

 

立憲君主制への移行

第4代国王ジクメ・センゲ・ワンチュクは国際協調路線を継続し、国際的な機関への加盟を推進する一方で、近代と伝統の調和をテーマにして「国民総幸福」という独自の国家指標を作り出し、国際的にも多くな反響を得ました。

さらに、絶対王政から立憲君主制への移行が国王自らの手で進められ、2006年に皇太子ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが国王に就任すると、2008年に政党の参加による下院の選挙が実施され、5月に国会が召集され、7月に憲法が施行されました。こうして議会制民主主義による立憲君主制が完成しました。

 

▼第5代国王ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク

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Photo by Royal Family of Bhutan

 

6. 「単一民族国家」ブータンの民族問題

現在のブータンは、建前上は「単一民族国家」であると主張しています。 

しかし、その歴史の過程でティンプーとプナカを中心とした西部に勢力を持つ、ゾンカ語を話すチベット系のガロン人が支配的です。一方で東部はブムタンパ人やツァンラ人といった東南アジアや南アジアにルーツを持つ民族が多数派を占めます。

ブータンの公用語はゾンカ語であり、東部が西部の圧倒的な支配下にあるというのが実情です。

さらには、南部を中心に1960年代から増加したネパール系移民が定住し、ガロン人に比するほどの人口にまで増加しました。ネパール系住民が増加した挙句、インドに統合されてしまった隣国シッキム王国の末路を辿りたくないブータンは、国の「ブータン化」を強力に推進しました。

国民にゴー、キラと呼ばれる伝統着の着用を義務化し、ネパール語教育を禁止してゾンカ語教育を推進しました。また、一部のネパール系住民の国内居住許可の更新を不認可にし、ネパールに追い出してしまいました。このようにして難民化したネパール系住民は約10万人にもなり、ブータンとネパール間での外交問題にも発展しました。

「国民総幸福量」に代表される「幸せの国」で名高いブータンですが、その実現の裏にはマイノリティの抑圧という側面があることを忘れてはいけません。

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まとめ

 政教一致の体制と、「化身」という独自の権力移行の文化は、我々には馴染みが薄く、ちょっと理解が追いつくのが難しいところがあります。

チベットという政治文化大国の下で成長したブータンは、そのくびきからの脱出に苦しみ、そして統一権力を得た後に拡大を図りますが、タイミングが悪くイギリスによって阻まれてしまいました。

 ブータンの歴史は小国のしたたかさと苦難、あるいはそこから生じる可能性のようなものを教えてくれます。

 

 参考文献

世界歴史体系 南アジア史2ー中世・近世ー 小谷汪之編 2007年8月20日1版第1刷印刷 2007年8月31日1版第1刷発行 山川出版社

世界歴史体系 南アジア史4 長崎暢子編 2019年3月20日1版第1刷印刷 2019年3月30日1版第1刷発行 山川出版社

ブータン―変貌するヒマラヤの仏教王国 今枝由郎 1994年11月15日初版発行 大東出版社