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ブラジルの近現代史(4)- 経済発展「ブラジルの奇跡」

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Photo by Artyominc

安定と不安定の狭間で着実に前に進むブラジル

ブラジル近現代史、今回が最後です。

前回では、世界恐慌から始まった危機を脱するため、ヴァルガス政権が独裁的な手法でブラジルに構造改革をもたらし、それによって政治・経済は安定するも、民主化の動きの抗しきれずに時代の流れが進んでいった様子を見ていきました。前回はこちらからご覧ください。

 戦後ブラジルはヴァルガスが築いたシステムの元、苦難の道ながら経済発展を続け「ブラジルの奇跡」と言われる驚異的な発展を遂げるに至ります。

 

 

10. 民主主義の復活と崩壊

ヴァルガス自殺後の1955年の大統領選挙で当選したのは、ミナス・ジェライス州知事のジュセリーノ・クビシェッキ。

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クビシェッキはヴァルガスとは異なり積極的な外資の導入で耐久消費財工業を国内に次々と誘致しました。また、西部後進地域の開発を進めダムの建設や北東部開発管理丁を創設したりしました。

そんなクビシェッキ政権の目玉政策は、西部開発の象徴的政策である首都ブラジリア移転です。内陸部のジャングルが切り開かれ、野心的で先進的な町が建設されました。

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Photo by Mariordo (Mario Roberto Duran Ortiz)

 

▽大統領官邸

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▽国会議事堂

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▽連邦最高裁判所

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Photo by Leandro Ciuffo

 

クビシェッキ政権下で経済発展は年7%を記録したものの、大規模な汚職が蔓延しインフレが社会問題となりました。

 

軍によるクーデターで左翼政権が崩壊

1960年の選挙で当選したのは都市中間層の支持を集めた国民民主同盟(UDN)のジャニオ・クワドロス。彼はクビシェッキ政権下で蔓延した汚職の一掃を掲げてクリーンなイメージで当選しました。

しかし、議会は地方の農村保守層によって選出された民主社会党(PSD)とブラジル労働党(PTB)の議員が多く、クワドロスは議会の中で身動きがとれない状態になってしまいました。

 

1961年8月に突如クワドロスは辞任し、後任は民主社会党(PSD)とブラジル労働党(PTB)の副大統ジョアン・グラールが大統領候補となりました。

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グラールは議会と掛け合い、政策をスムーズに実行するための大統領権限の強化を打ち出し、国民投票で信任され大統領に就任しました。

この時既にクビシェッキ時代の輸入代替工業は限界に来ており、経済成長率は落ち込み悪性インフレ、失業率の増大によって社会不安が高まり始めていました。

グラールは1964年3月に労働総同盟の集会で「急進的民族主義路線」への転換を表明。民間製油所の国有化と農地改革の実行などを含む、急進的左派政策に取り組み始めました。

ここにおいて軍部はアメリカの支持を取り付けた上で、3月31日にクーデターを敢行。主要な州知事も賛同し、アメリカ海軍もリオ・デ・ジャネイロ近郊で軍事演習を行うことで暗にクーデターを支持。グラールは大量の地下資金を抱えてウルグアイに亡命しました。

 

軍による政治再編

実権を掌握した軍は、暫定政権であるカステロ・ブランコ政権を成立させ、左翼的な前政権の体制解体を試み、軍政令第一号を公布し前政権で政治に関与していた公務員や軍人、民間人から政治権を奪い、政権要人を逮捕または亡命に追い込み、左翼民族主義の拠点であったブラジル高等研究所や全国学生連盟などは解散させられました。

次に軍政令第二号を公布し大統領の間接選挙制と、既存政党の解散および政党の再編を敢行。与党の国家革新同盟党(ARENA)とブラジル民主運動(MDB)の二大政党に再編されました。

さらに続く軍政令第三号で州知事と県知事の間接選挙制が定められ、連邦政府の州政府への介入権限も追加されました。大衆扇動的な政治家の出現と地方の分離主義の両方を防ぐことが意図されていました。

またカステロ政権下では財政再建のための緊縮財政がとられ、赤字の国営企業の民営化、外資の誘致などが進められました。

 

 

11. 軍事政権下での高度経済成長

1967年3月、形式的な選挙を経てコスタ・エ・シルヴァ将軍が大統領に就任し、新憲法(1967年憲法)が正式に発効されました。

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 シルヴァ政権下では引き続き財政再建のための緊縮財政が採られる一方で、通貨価値修正制度や税制恩典制度などにより、資本投下が急増し再び経済成長が始まりました。

しかし中間層は緊縮財政下での経済成長に実感が湧かず、また軍政への不満も相まって都市部で共産主義過激派「都市ゲリラ」が増加していきました。

折しもキューバでラテン・アメリカ連帯機構が開かれ、キューバのカストロはラテン・アメリカ全体の共産化を目指し、各地に革命家やゲリラを送り込んでいました。

ブラジルではキューバ革命に共鳴したカルロス・マリゲラが共産革命による政府打倒を呼びかけ、学生や知識人が動員され都市部でのゲリラ活動が盛んになり兵舎や企業、銀行の襲撃、外国外交官の誘拐が相次ぐようになりました。

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シルヴァ大統領は1969年に脳溢血で死亡し、その後任に就いたのはエミリオ・ガラスアス・メヂシ将軍。

 メヂシ政権は拷問・誘拐・暗殺などの非合法を含む強権的な手段を用いて都市ゲリラを取り締まりました。また言論弾圧・政治活動の制限をかけ、ブラジルは極めて緊張した警察社会となっていきました。

しかし治安はみるみる回復していったため外資が積極的に進出するようになり、また政府の強権による低賃金労働が実現したため、年率10%の極めて高い経済成長が実現しました。

 

次に大統領になったのはドイツ系移民にルーツを持つエルネスト・ガイゼル将軍。

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ガイゼルは民衆に高まる不満を受けて、徐々に自由化路線を進め言論の自由も緩和の方向に進めていきました。

1973年、オイル・ショックが発生。成長率は年々低下し、インフレが同時に進行していきました。経済の低迷を受けて1976年の選挙では野党ブラジル民主運動(MDB)が大勝。これを受け、ガイゼル政権は一部外資の抑制と国家による経済の介入に乗り出し、アマゾン横断道路やベネズエラに通じる横断道路の建設など巨大インフラ工事を進めました。

アメリカは人権抑圧を理由に軍事費支援の削減を宣言すると、ガイゼル政権はアメリカと距離を置き世界各国と等距離外交をスタートさせました。アジア・アフリカ諸国や南米諸国との関係改善に努め、また西ドイツと原子力開発協定を結び、秘密裏に核兵器の製造にも着手しました。

 

次に大統領になったジョアン・バティスタ・フィゲイレド将軍もガイゼル路線を継続して言論の自由・結社の自由の規制緩和を進め、6年後の民政移管を約束しました。

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過去の大統領が進めてきた外資の導入や緊縮財政が功を奏し、この時にはブラジルはラテン・アメリカで最大の工業国になり、耐久消費財はほぼ100%自国産を生産できるほどにまでなりました。旺盛な工業力を背景に、ウルグアイ・パラグアイ・ボリビアといった隣国を経済圏に取り込んでいきました。

 

一方で高度成長にあたって様々な社会のひずみが露呈しており、格差の拡大、地域格差、対外債務の累積、インフレの加速など、一般民衆にとっては経済成長を実感できるどころか軍政下で生きづらくなっていくように感じていました。都市部ではストリートチルドレンが増加し、スラムも拡大していました。

1980年には後の大統領ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァが組織するサン・パウロの冶金労働組合が6万人のストを起こし、また公務員や国営企業職員も賃上げデモを実施。ルーラは経済発展の恩恵を受けられない大衆・労働者の不満の受け皿となり、左派政党・労働党の党首となりました

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Photo by Roosewelt Pinheiro

 

 

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12. インフレとの戦い

次期大統領候補タンクレド・ネヴィスは民主社会党(PSD)を離党し自由戦線(PFL)を結成しブラジル民主運動党(PMDB)と連携し、さらに民主同盟(AD)を結成して立候補して勝利するも、なんと就任式の前日に倒れ、そのまま死亡してしまう。

憲法の規定により、副大統領のジョゼ・サルネイが大統領に就任しました。未だに軍部が特権を持つ不完全な形ではありましたが、サルネイ政権は21年ぶりの文民政権として期待されました。

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サルネイ政権で焦点になったのは、所得格差是正、貧困対策、インフレ抑制、財政赤字削減の取り組み。

格差是正策として貧困層に農地を分配する農地改革を実施しようとしますが、大土地所有者の圧力に屈し玉虫色に終わったため、土地の不法占拠や続出することになりました。

サルネイ政権下では環境問題についても取り組みがなされ、アマゾンの熱帯雨林の保護や資源の責任ある開発に関して近隣8カ国で協業する「アマゾン条約」を締結しました。

サルネイ政権の末期はインフレが1795%に達し、政治汚職が明るみに出たことで著しく人気を落とし、退陣することになりました。

 

1989年10月、民政復帰後初の直接選挙で勝利したのは、中道右派の新党・国家再建党のフェルナンド・コロール・デ・メロ。

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Photo by Ubirajara Dettimar/Abr

コロール政権はインフレ抑制を最優先課題とし、物価凍結、公務員削減、国営企業民営化、輸入自由化などをかかげますが、経済成長は低迷しマイナスを記録し、倒産が相次ぐ中でまたインフレが加速

大統領が関わる汚職事件が発覚し全国的な退陣要求運動が拡大。弾劾裁判にかけられコロールは停職され、副大統領イタマール・フランコが大統領代行となりました。

 

フランコ政権では行き過ぎた自由主義政策を抑制し民営化などを見直すことを明言します。輸出入ともに過去最高の数字を記録し、特に南米諸国との貿易は過去最大となりますが、インフレはとめどなく、1992年のインフレ率は1149%にも達しました。

凶悪なまでのインフレを抑えようと、経済大臣カルドーゾは「レアル計画」を発表し、通貨クルゼイロをレアルに置換しドルと対価とするデノミを敢行。これによりインフレは抑制され、直後に迫る大統領選で野党候補のルーラが優位に立っていた状況をひっくり返し、大差でカルドーゾは勝利を収めました。

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Photo by Agência Brasil

インフレ抑制に成功したカルドーゾは、電気・ガス・石油といった国営企業の民営化を実施。また通信事業の民間企業の参入を認め、また道路、通信、鉄道、教育、衛生の分野で大規模な投資も実施するなど、様々な形ので景気刺激策と企業の運営の効率化、資本の増強、サービス提供価格の低下を目指しました。

これによって再びブラジル経済は上昇するも、1997年に起こったアジア通貨危機の余波を受けて経済は再び低迷。 

さらには、農地改革を求める「土地なし農民運動」が組織され、貧困農民が土地に侵入し占拠する事件が多発。警官と農民の間で多数の死傷者を出す騒ぎになり、カルドーゾ大統領は農地改革の実施を明言し段階的な農地の配分を実施。

カルドーゾの任期の間に絶対貧困層の数は1300万人減ったものの、未だに人口の1/4が貧困層であり、彼らの生活向上が課題となりました。

 

2002年の大統領選で当選したのは、かつて冶金労働組合を組織し権力と戦った労働党のルーラ。

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Photo by Ricardo Stuckert/Presidência da República

ルーラは貧困層の出身で、極端な貧困層へのバラマキや企業の国有化、労働者の保護をするのではないかと経済界や保守層は警戒しますが、予想を覆し穏健な左派政策を採用。

カルドーゾ政権の財政健全化路線を踏襲し、公務員年金改革による財政支出の削減などを行い財政黒字を達成。国内外で賞賛されました。

かねてより問題となっていた貧困対策では、「飢餓ゼロ計画」を立ち上げて貧困世帯向けに食糧援助・教育資金補助・生活助成金を公布したり、廉価で食事を提供する「大衆レストラン」を設置したり、社会福祉に大きく力を入れました。

 

 

 

まとめ

 全4回でブラジルの近現代史を見てまいりました。

戦後のブラジル史は、経済発展と不振、政治の安定と混乱が断続的に襲ってきて、その中で都度軍が介入し国の安定化を図りながら、徐々に前進していきました。

 高い経済成長は所得の格差と悪性のインフレを招き、またお家芸ともいえる汚職事件によって大統領が追放されるケースも多く、政治の混乱と経済政策の一貫性への不安がつきまとっています。

ルーラの後に大統領になった初の女性大統領ルセフも汚職事件で弾劾され、2016年に副大統領のミシェル・テメルが大統領代行となっています。

大国ならではの身動きのとりずらさもありつつ、遅々とした歩みかもしれませんが、今後経済成長と貧困層の低下をどう達成していくかがブラジルの躍進の要と言えると思います。

 

p>参考文献

ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史) 増田義郎 山川出版社

ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史)

ラテン・アメリカ史〈2〉南アメリカ (新版 世界各国史)

 

 

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