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白人傭兵に乗っ取られた!インド洋の小国・コモロの近代史

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小さな島の混沌とした歴史

この南国らしいカラフルな国旗は、コモロ連合(通称コモロ)の国旗。

インド洋に浮かぶわずか2236平方キロメートル、大小多数の島からなる島国です。タンザニアとモザンビークの沖合約300キロに浮かび、気候は熱帯性。1月から4月が雨季で雨がよく降る。

人口は67万人ほどで人口密度は結構高いほう。人種は複雑でマレー人、インド人、アラブ人、アフリカ人が混在しています。 

 宗教はイスラム教徒とキリスト教徒がいますが、国の多数をイスラム教徒が占めるため国旗にも三日月と星が描かれています。ちなみに星が4つ書かれていますが、それは主にコモロを構成する4つの島、グランド・コモロ島、モヘリ島、アンジュアン島、マヨット島を表しています。

…ここまで書いて既にもう、揉める要素がいくつかありますよね。

フランスから独立した後のコモロはなかなか政治的に安定せず、取った取られの混沌とした歩みを見せました。

 

 

1. 独立前の歩み

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1-1. フランスの植民地に

コモロ諸島の先住民族は、インド洋を東から横断してきたマレー・ポリネシア人。

その後、アラブ商人の東アフリカ貿易が盛んになると、アラブ人、インド人、ペルシア人などが移り住むようになりました。

17世紀、島々にイスラム教徒のアラブ人による国家が乱立し、そこを拠点にアラブ人が東アフリカから連れてきた奴隷をヨーロッパ人に売りさばく奴隷貿易の拠点となりました。

追いやられた先住民族のマレー人は海賊となり、アラブ人やヨーロッパ人相手に乱暴狼藉を働くようになっていき、その被害に悩んだアラブ人はフランスに保護を求めました。その結果1886年に正式にコモロ諸島がフランスの植民地となったのでした。

そこから独立する1975年までフランス領だったのですが、太平洋戦争中には日本軍の西進に備えてイギリス軍が駐屯していたこともあります。

 

1-2. 自治から独立へ

1958年、フランス大統領ド・ゴールの第五共和制によって、フランス連合は「フランス共同体」に変わり、コモロもフランス共同体に残るか独立するかの国民投票で選ぶことになりました。投票の結果、コモロは残留を選びフランスの海外県として残ることになりました。

▽アーメイド・アブドラー

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しかし独立派は諦めず、1961年に「コモロ独立連合党」のアーメド・アブダラーの下に自治政府が設立。1972年の選挙で政敵のサルタン・サイード・イブラヒムに勝利し、翌年に3年以内の独立を取り付けますが、マヨット島では反対意見が多く、またフランスもマヨット島は維持する構えを見せたため、アブドラーは1975年に一方的に全島の独立宣言を行いました。

 

1-3. 四島対立

アブドラーはスパイスのプランテーションが広がる豊かなアンジュアン島の指導者でイスラム教徒。

一方でグランド・コモロ島の指導者はサルタン・サイード・イブラヒム王子で、両者は不仲でした。グランド・コモロ島は面積は広いが産業がなく貧しい島で、フランスもグランド・コモロ島とモヘリ島はどうでもいいと思っていましたが、キリスト教徒が多数を占めるマヨット島は親密感もあり手放したくないと思っていたのでした。

このように、宗教対立に加えて島同士の対立、さらにはフランスの介入もありその後のコモロの歴史を混沌としたものにしていきます。

 

 

2. 独立後4週間で最初のクーデーター発生

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アンジュアン島の都市ムツァムデゥの風景 Photo by Haryamouji

2-1. 最初のクーデーター発生

1975年8月30日、独立宣言から4週間もたたない内に最初のクーデーターが発生し、アブドラーは追い落とされてしまいした。

このクーデーターを指揮したのは、 親フランス派の野党・連合国民戦線のアリ・ソイリという人物。彼はクーデーター成功の後、アブドラーのライバル、サルタン・サイード・イブラヒムに国家元首を要請しましたが断られたため、彼の息子のサイド・モハメド・ジャファルが国家執行評議会議長として就任しました。なおこの時フランスはやはり三島の独立は認めますがマヨット島の放棄は認めず、サイド・ジャファル政権もそれを認めたのでした。

 

2-2. アブドラーの再クーデーター

政権を乗っ取られたアブドラーは故郷のアンジュアン島で再起のチャンスを待っていました。

1975年8月、コモロにアリ・ソイリが雇った白人傭兵が上陸しました。隊長ボブ・ディナール率いる4人の傭兵は、ソイリから100人のコモロ兵を預かり、アンジュアン島を急襲。アブドラーの従者を殺し、本人を軟禁状態に置いた後、フランスに逃亡させてしまった。

アリ・ソイリはその後、サイド・ジャファルを退けて国家元首に就き強権的な独裁体制を敷きました。

国民に不満が高まる中、1978年4月に白人傭兵ボブ・ディナールと45人の傭兵が漁船でフランスから希望峰を回ってコモロまでやってきて、突如大統領官邸を襲撃。傭兵たちは安々と大統領官邸に侵入し警備兵を殺し、2人の女性と寝ていたソイリを射殺しました。

このクーデーターを指揮したのは、フランスに逃げていたアブドラー。アブドラーは白人傭兵ボブ・ディナールに多額の謝礼金とクーデーター成功後の高待遇を約束していたのでした。

▽ボブ・ディナール

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かつて自分を襲った白人傭兵を味方につけたアブドラーは、安全が確認されるとコモロ諸島に帰還。国民の大歓迎を受けたのでした。

白人傭兵たちは約束通り、成功報酬である「カネと女」を手に入れた。それぞれ大統領警備隊や保安警察の重役に就任し、破格の待遇で「安楽な人生」を送るのでした。

 

 

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3. 白人傭兵のクーデーター

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首都モロニの海岸 Photo by Sascha Grabow

3-1. 傭兵の反乱 

大統領に復帰したアブドラーは伝統的な統治を復活させ、フランスともマヨット島の帰属を棚上げにして安定した統治を目指しました。

相変わらず白人傭兵は国家の要職に付いたり、実業家となってコモロの利権を牛耳っており、何軒も家を持ち妻も何人も娶り愛妾も囲い、文字通りの「パラダイス」な生活を楽しんでいました。

1982年3月の選挙でアブドラーは圧勝。権力基盤を強固にすると、かつての仲間であった白人傭兵どもが邪魔な存在に思えてきた

白人傭兵はコモロの産業を牛耳りやりたい放題で、コモロ人の反感は根強かったし、いつ自分の寝首をかくか分からず信用ならなかった。

一方の白人傭兵からすると、オレたちの力で大統領にしてやった恩を忘れやがって、と思う。またこの南国でのパラダイスな生活を手放すわけにはいかない。

1985年3月、野党「民主戦線」の党首サイード・シェイクが大統領警備隊と組んでアブドラー政権打倒のクーデーターを起こすも未遂に終わる。

1987年11月には元大統領警備隊員11人がクーデーターを起こすも、これまた失敗に終わった。

安心したアブドラーは1989年11月5日に任期を三期まで認める憲法改正案を国民投票にかけて信任され、1996年までの就任が認められることになりました。

ところがその21日後、白人傭兵ボブ・ディナールの指示により大統領警備隊員の手によりアブドラー大統領は殺害され、大統領警備隊のフランス人、ベルギー人がコモロの全権を手に入れてしまった

ところが直ちにフランス政府が介入してディナールに圧力をかけコモロからの退却を命令。そしして憲法の規定に従って最高裁判所の長官サイード・モハメド・ジョハルが暫定大統領に就任しました。

 

4. 分裂の危機

 

4-1. ボブ・ディナール、四度目のクーデーター

 大統領に就いたジョハルは強権的な独裁体制を敷き、複数政党制選挙も形だけのものとなり野党側の不満は高まっていきました。

1993年の選挙でジョハル大統領の与党「民主再生再結集」は過半数の議席を確保したものの、野党は不正選挙と反発。それに対し政府は野党側のラジオ局を閉鎖に追い込み、野党側の支持者を逮捕する徹底的な弾圧策に踏み込んだ。

不毛な政治争いが繰り広げられる中、経済は不振続きで対外債務は拡大し続け、法は大統領が公然と無視する状態になっていき、大統領の不人気はひどくなっていきました。

 

そんな混乱の中、クーデーターに踏み切ったのはまたも白人傭兵のボブ・ディナール。あくまでコモロを傭兵のパラダイスとして奪回させようとするのが目的でした。

1995年5月、ディナールはヨーロッパから仲間の傭兵を連れてコモロに侵入し、地元コモロ軍のアヨウバ大尉ら300〜700名を加えてクーデーターを起こした。

傭兵軍はジョハル大統領の身柄を拘束し、空港と放送局を占拠、警察と軍の拠点を占領し、約半日で首都モロニの主要な拠点を制圧してしまいました。

ディナールは名目的なクーデーターの首謀者アヨウバ大尉をトップに据えて軍政を開始させ、二週間以内の総選挙を行うと発表しました。

 

この時代錯誤の傭兵のクーデーターに対し、フランスのシラク政権は介入を決定。

フランス特殊部隊900人がモロニ港に上陸し、空からは空挺部隊が空港を占拠し、傭兵部隊の司令部カシミダ兵舎を襲撃。銃撃戦で双方に死者が出たものの、傭兵部隊は降伏しジョハル大統領は救出されました。

 

4-2. コモロ分離の危機

1996年3月、大統領選挙が実施され長年野党に甘んじていた「コモロ民主連合」の党首モハメド・タキが大統領に就任しました。

ところが、長年に渡る四島の対立が顕在化。1997年8月にアンジュアン島とモヘリ島は広範囲な自治が認められましたが、傭兵に支援されたアンジュアンの反政府勢力は連合の分離を支持。

1997年9月、タキ大統領は非常事態を宣言し強権的な臨時政府を樹立します。

一方のアンジュワン島の指導者イブラヒムは一方的に独立を宣言し、アンジュアン島政府を樹立。1999年にモヘリ島はコモロへの復帰を宣言しましが、アンジュアン島は独自の統治を継続します。

2008年3月にはとうとうコモロ軍とアフリカ連合軍がアンジュワン島に軍事侵攻し、指導者のモハメド・ベーカーをマヨット島に追放し、強制的にコモロへ併合をしてしまいました。

現在でもグランド・コモロ島とアンジュアン島との対立は激しく、また現在でもフランス領のマヨット島の問題は解決しておらず、いつクーデーターが起きるか分からない不穏な状態が続いています。

 

 

まとめ

こんな小さな島同士でどうして揉めるかね?と思いますが、民族・宗教の対立に加え、利権の問題、伝統的な価値観、それに私利私欲を求める腐敗の問題もあるでしょう。楽して富を求める人々と、金持ちへの妬み嫉み。

腐敗したトップが公然と法を無視することは、国を統括する規範が不在であることを意味し、さらに言うと対立する民族や宗教への敵対心によって、共通の土俵に立つことを最初から拒否してしまうことにもなります。 どれをとっても一朝一夕で解決できる問題ではありません。

そんな隙を付いて自分たちのパラダイスを作り上げようとした、ボブ・ディナールを始めとした白人傭兵ども。本当にもう、ここ20年の間に起こった出来事とは思えません。

ただ、何もかもが小さく未整備で未熟な国だから表面的な武力として現れているだけであって、このような富と権力の闘争は我々の気づかない場所で密かに行われているのだと思うと、ちょっとゾッとします。

 

 

参考文献

 現代アフリカ・クーデーター全史 叢文社 片山正人

現代アフリカ・クーデター全史

現代アフリカ・クーデター全史

 

 

 

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