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韓国政府が強力なトップダウン型の産業育成を図った理由

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Image by Lakshmix

「漢江の奇跡」を支えた韓国政府の産業育成政策

ここ10年あまりの韓国の社会と国民意識の変化には激しいものがあります。

息詰まる社会と経済の打破のために、朴槿恵政権時代から「大陸側」へ接近し南北統一を目指す文脈が醸成されていましたが、現在の文在寅政権はさらに急進的にそれを推し進め、南北統一によって「民族による自存自衛」を掲げ、広い支持を集めています。

もとより韓国では反米感情は根強くあったのですが、それよりも反北朝鮮感情のほうが強かったので西側諸国に留まっていましたが、北との和解ムードの高まりの中で「自立強国」「東アジアのバランサー」国家を目指すようになっています。

その背景には、韓国が急速な経済発展を果たし国際的なプレゼンスが高まり、アメリカや中国、日本といった周辺の大国と台頭な関係になった、という自負があるからなのですが、一方でこれまで世襲政治家や資本家が牛耳ってきた富や権力を民衆に奪い返そうという「民主化運動」があります。

現在の韓国社会で「敵対視」されがちな、かつての韓国政府の経済政策の方針について、梁義模氏の論文を元にして紹介します。

 

政府が強いリーダーシップを発揮した韓国

韓国は1960年代後半から〜1990年代前半まで「漢江の奇跡」と言われた急速な経済発展を経験しました。韓国の国内総生産は1960年の39.58億USDから、アジア通貨危機の前の1996年には5981億USDと、150倍近くになっています。ちなみに2017年は1.531兆USDで、20年でさらに約2.5倍に拡大しています。

韓国は押しも押されぬ先進国の一員であるのですが、一方で2010年の全企業のうち99.9%が中小企業で、全従業員のうち86.8%が中小企業であるにも関わらず、0.1%の大企業がGDPに占める割合は高く、2018年度では資産上位の「31大財閥」が占める割合は13.5%にもなるそうです。

このような「大企業偏重」の経済構造は急速な経済成長をもたらした一方、雇用問題や経済格差、地域対立、世代対立、党派闘争という社会の不公平と対立構造をもたらしました。

韓国の革新派の政権はこのような大企業偏重の経済政策の打破を掲げていますが、中小企業の財務基盤や基礎技術力の脆弱さから、どうしても「大企業頼り」にならざるを得ないというジレンマを抱えています。

このような経済構造を生み出した要因の一つが、韓国政府が採った産業育成政策。韓国政府は積極的にリーダーシップを発揮し、トップダウン型の産業育成をしてきました。戦前・戦後の日本の経済発展も他国に比べて政府の介入が大きいと言われていますが、韓国の場合は日本よりもはるかに政府の介入の度合いが強いです。

 

政府が行う財政支出による産業育成政策を「直接育成(政府自身の参入または補助金による支援)」と「間接奨励(技術教育や博覧会の開催など)」に分類して比較すると、日本は直接育成は大半が社会資本の整備に投入され、一般産業には間接奨励が多く実施されました。数少ない直接育成も、「製鉄業、造船業、林業」に約70%が集中し、一部の重工業に集中的に配分されています。

一方韓国は、「直接育成」はかなり多くの分野に広く投入され、補助金だけでなく政府自らが積極的に参入しました。農林水産業、鉱業、重工業、化学工業、運輸通信業、金融業など、あらゆる分野で政府傘下の公企業、また公企業が出資する企業が存在しました。

 そもそも産業育成予算も韓国の方が多く、韓国の政府歳出分類の統計の経済事業の比重を見ると、1957年に25.9%、1961年に31.6%、1962年に33.9%、1965年に28.5%、1969年に27.1%、1972年に28.9%と、国家予算の3割程度を産業育成に充てています

では、なぜこのような政府主導の政策が採られたのでしょうか。その理由を梁氏は3つ挙げています。

 

要因1. 資本主義世界からの経済支援

韓国政府が積極的な財政出動をして産業育成を図ることができた大きな理由が「アメリカを始めとする資本主義諸国からの援助をフル活用できた」ことにあります。

韓国は日本からの解放後に悲惨な朝鮮戦争を経験しました。しかし戦争の実質的な費用は連合国軍に依存することができたため負債は軽微で、さらにその後のアメリカの軍事的な指導の下で軍事費を含む軍事負担を比較的軽くすることができました。

日本の場合は、戦前の帝国主義の時代の中、欧米の植民地になるのを避けるために外資を排除し、安全保障と経済政策の観点から植民地獲得に乗り出し、そのための軍事費は財政に大きな負担をかけました。また、明治政府成立以降に藩主を中心とした封建制の解体にかなりの費用がかかっていました。一方で韓国では、日本の支配下で封建制の解体が進み、戦後の農地改革も受益者負担で済んだため政府の負担はありませんでした。また元よりアメリカの庇護にあることもあり、外資の導入による政治的なリスクはなく、アメリカや日本など資本主義諸国の巨額の財政・技術支援を受けました。外国資本と技術を蓄積したことで巨大な財閥が多く誕生し、これら大企業が韓国経済を牽引しました。

このように、韓国は極めて有利な財政基盤の下で、財政支出による産業政策を実施することができたのです。

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要因2. 脆弱な民間資本

韓国政府が産業育成にリーダーシップを発揮せざるを得なかった理由として大きかったのが、「韓国の民間資本が脆弱」で政府が引っ張らないとどうしようもなかったという点があります。

日本では江戸時代に支配層であった士族の中に、維新後も威信や影響力を生かして企業を設立したり、資金を集めたり、様々なプロモート活動をする者が現れました。その代表格が、日本資本主義の父と言われる渋沢栄一です。士族は維新前は行政官として実務に携わる者が多く、実用的な教育を受け、現実重視的な思想が強くありました。これら社会の中間支配層である人々が主導し、政府に頼らない民間主導の経済活動を行った点が、日本政府があまり直接的な財政支援をしなくても済んだ理由の一つです。

一方韓国では、社会の中間支配層である両班は概して保守的で、自らの威信によって資本を集めて企業を興そうといった人物は少なく、儒教的理念に基づいた社会と自らの利権の維持を目指しました。大韓帝国時代には韓相龍(ハン・サンリョン)や李載完(イ・ジェワン)といったプロモーターが登場し銀行や保険会社などの設立を行いましたが、この動きは社会全体のムーブメントとはならず、日本による併合によって「民族資本」による産業育成はますます困難になっていきました。

 日本による植民地経営により、確かに朝鮮半島の工業生産力は発展をみせますが、あくまで巨大な日本資本による資本投下と、日本帝国の対外拡充政策と緊密に連携した体制構築の一環に過ぎませんでした。

植民地時代にも民族資本はそれなりに育成されました。例えば、サムスン電子の大元となった三星商会は、1938年に大邸で李秉喆(イ・ビョンチョル)によって設立されています。しかし植民地解放、南北分断、その後の戦争など混乱が続き、民族資本は弱体化。韓国政府が産業育成による企業の育成を図ろうとした時には、民間資本の蓄積はほとんどなく、国家財政という「資本」を有する政府が直接介入せざるを得なかったのです。

 

要因3. 国家介入型の経済思想

中央銀行や経済官僚は、その時々の経済学・経済思想の影響を強く受け、経済政策を実行します。韓国の場合、大きな影響を受けたのが大恐慌を踏まえて発展したケインズとクズネッツの経済学です。

アメリカを中心にアダム・スミスの唱える自由放任主義の思想を元に採られていた経済政策は、破壊的な大恐慌を受けて、ある程度は「国家による介入」によってコントロールされるべきであるという意見が支持されるようになりました。フーバーダムの建設など、大型のインフラ工事を国家主導で行うニューディール政策を企画立案したアメリカの最新の経済思想は、経済専門家の派遣など人的支援の形で戦後すぐの韓国にも導入されました

さらには、1930年代から戦後の経済成長を支えた日本の経済思想も大きな影響を与えました。特に、韓国の経済成長を舵取りを果たした朴正煕(パク・チョンヒ)は、日本の陸軍士官学校を卒業した日本のエリート軍人の出身でした。彼は国家が経済に強く介入する戦前日本の国家体制に強い影響を受けていたと考えられ、また戦後の日本が急速に発展する様を見て、政府が強いリーダーシップを発揮する国家の構築を進めたのです。 

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まとめ

韓国は封建時代の資本と人的資源の蓄積が少なく、近代化以降に民間資本を育成することができず、さらに日本による植民地化によって「民族資本」の育成が困難な状態に陥りました。解放後は不運なことに南北分断と朝鮮戦争に巻き込まれ、元から脆弱な民間資本は打撃を受け、ようやく経済発展に取り組もうという時には既に、民間資本はないに等しい状態でした。そのような中で、有利な政府の財政基盤を生かして経済発展を成し遂げるには、政府が積極的に産業育成に乗り出すトップダウン方式しかない状況でありました。

結局、政府主導の経済政策は大成功を治め、韓国は1950年代の「最貧国」から一躍先進国の仲間入りを果たすわけですが、その代償は大きく、社会に大きな歪みをもたらしました。現在の韓国では1980年代後半の民主化運動を率いた世代が社会のリーダー層で、かつての政府や財閥による強権的で家父長的な雰囲気が嫌忌される傾向があります。

戦前世代の努力で今の韓国の繁栄があるのだから、鬼籍に入った人物をリストアップして糾弾するのではなく、偉大な先達に感謝を忘れず、ただ今の時代に合う社会を作っていけばいいじゃないか、と日本人は思ったりするのですが、そのような社会や世代の分断のきっかけに日本も一枚噛んでいる以上、偉そうなことは言えないよな、とも思います。

 

参考文献

岩波講座 世界歴史 <22> 産業と革新ー資本主義の発展と変容 "殖産興業の日韓比較" 梁義模

"日本産業革命期財政歳出による産業政策の性格の考察" 梁義模 1999/06/01 一橋大学リポジトリ

"規模別に見た韓国の産業構造の特性 ―韓国規模別産業連関表の作成と日韓の比較を通じて―" 居城 琢・明 素延 流通経済大学論集