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コンタクトレンズの歴史

国際的に発展してきたコンタクトレンズの発展史

コンタクトレンズは非常にシンプルな仕組みでありつつ、その開発の歴史は長く複雑なものがあります。仕組みはシンプルでありつつ、製造に使う素材や機材の発展によって大きく変化してきました。

かつてはコンタクトレンズは円錐角膜(角膜の中央部分の厚みが薄くなり、角膜が前方へ円錐状に突出する病気)などの角膜疾患に対して、眼科医が装着する特殊な装置でした。

角膜の生理学的な知識が発達し、素材や機材が改善され、値段も安価になると、一般の人も使えるようになっていきました。

 

1. コンタクトレンズが生まれるまで

コンタクトレンズのアイデアを最初に提示した人物はレオナルド・ダ・ヴィンチであると言う俗説があります。

彼は1508年に出版した目の写本で、水の入ったボウルに頭を沈めるか、水で満たされたガラスの半球を目の上に装着して、角膜の力を直接変化させる方法を説明しました。

ただこれは水の光の屈折の探求が目的であって、視力矯正に活用しようとは考えていなかったので、ダ・ヴィンチがコンタクトレンズのアイデアの発案者という説は否定されています。

現在のコンタクトレンズのアイデアの源泉を提示したのは、哲学者のルネ・デカルトです。

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1637年デカルトは、『La Dioptrique』の第7講で、液体を満たしたガラス管にレンズを装着した視力矯正器具を提案しましたが、これは角膜に直接液体を接触させるもので、「まばたき」できないので非実用的なものでした。

しかしこのアイデアを受け継ぎ、コンタクトレンズの実用化が加速していきました。

1801年、イギリスの物理学者トマス・ヤングはデカルトのモデルに基づき、一対の基本的なコンタクトレンズを製作しました。水で満たされたレンズを目に貼り付け、その屈折力を別のレンズで補正しました。

1827年、イギリスのジョージ・ビデル・エアリーはトマス・ヤングに影響を受け、ケンブリッジ大学のジョン・ハーシェルと協力し、自分自身の乱視の実験を行い、乱視の光学理論だけでなく、理論的な乱視用レンズによる矯正についても記述しました。

その後、イギリスの科学者ジョン・F・W・ハーシェル卿により、「動物製のゼリーで満たされたガラスの球状のカプセル」または「角膜の型にある種の透明な媒体を満たしたもの」を目に接着させるアイデアが提示され、ハンガリーの医師ジョセフ・ダロスなどの研究で人の目から直接型を作る方法が完成され、初めて目の実際の形状に適合するレンズの製造が可能となりました。

19世紀末ではレンズを装着するのは眼科手術の一つで、頻繁につけたり外したりは想定されておらず、再度付けるには手術を受けなくてはなりませんでした

加えて、当時問題になったのは、術後の痛みと眼球の腐食の問題です。

この問題解決のため、角膜に貼るゼラチンにコカインと水銀華を含めるレンズが開発され、角膜麻酔と感染を防ぐ防腐剤の役割を果たしました。

1886年には、コカイン点眼による局所麻酔が広く行われるようになり、19世紀末にはドイツの眼科では麻酔の使用がほぼ一般的になりました。

それにしてもハードルが高いです。いちいち手術を受けるのであれば、眼鏡でいいやってなりますよね。

 

2. ドイツで発達したガラス製強膜レンズ

ガラス製の強膜レンズが発明されたのは19世紀末のドイツです。

1887年に義眼製造一家のフリードリッヒ・A・ミュラーとアルベルト・C・ミュラーのミュラー兄弟は、近視と白内障で視力が低下していた患者に、白色の薄型軽量吹きガラスレンズで作った角膜の内に液体を入れて角膜の乾燥を防ぐ独自の「義眼」を提供しました。

涙でガラス面が腐食するため、1年半から2年ごとにレンズを交換する必要があったのですが、この患者は1887年以来、2年間ずっと昼夜を問わずレンズを装用し続けていたそうです。

 

同時期の1888年、ドイツの生理学者アドルフ・ガストン・オイゲン・フィックもガラス製の強膜レンズを発明しました。

彼は最初はウサギに、次に自分自身に、最後に少人数のボランティアで実験を行い、

「角膜の曲率半径は眼球の曲率半径よりも急である」

「結膜は角膜から離れるに従って平らになる」

「皮層混濁(角膜水腫)はレンズ耐性と装用時間の増加に伴い減少する」

「挿入時にコンタクトレンズの後ろに閉じ込められた空気が角膜混濁の発生を遅らせる」

「挿入時に2%のブドウ糖の煮沸溶液を使用すると、角膜混濁が発生する前にウサギが8~10時間装用できる」

「虹彩を切除して人工瞳孔を作り、その上に不透明な虹彩と黒い瞳孔を描いたコンタクトレンズを装着し、虹彩切除部に隣接して透明な開口部を設けることにより、円錐角膜として使用できる」

などを発見し、製作した強膜ガラスのレンズを1888年3月号『Archiv für Augenheilkunde』に「コンタクトブリル(Kontaktbrille)」として発表しました。これが「コンタクトレンズ」の語源です。しかし大きく扱いにくいフィックのレンズは、一度に数時間しか装着できませんでした。

 

眼科医が使用するコンタクトレンズを最初に製品化したのが、ドイツの光学技術者カール・ツァイスです。

ツァイスはイエナにて1846年にカール・ツァイス社を設立し、顕微鏡や眼鏡の製造を行っていました。その技術を応用してコンタクトレンズの量産を開始したのが1916年のことです。

20世紀初頭、コンタクトレンズはヴィースバーデンのミュラーズ社製の「吹きガラスレンズ」かイエナのカール・ツァイス社製の「すりガラス製レンズ」のどちらかしかありませんでした

 

▽ミュラーズ社のコンタクトレンズ

吹きガラスレンズは、光学的な品質の安定性では劣るが、装用感や持続性では優れていました。すりガラスレンズは適度な屈折矯正が可能でしたが、装用時間は最大でも30分から2時間でした。

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3. ポリメチルメタクリレート(PMMA)の発明

このガラス製のコンタクトレンズの課題を解決することになるのが、プラスチック製のレンズです。

1931年、イギリスのジョン・クラフォードとローランド・ヒルは、ポリメチルメタクリレート(PMMA)を開発し、「パースペックス」という名で登録商標しました。PMMAは、「アクリル樹脂」という名前でも知られます

1938年、アメリカのセオドア・オブリグは、アーネスト・ミューレンと共同で、PMMAを使ってプラスチック製コンタクトレンズを作成しました。この素材は軽量で、成形、研磨が容易で安価でした。しかし、オブリグはまだ液体を封入した強膜レンズを使用していたため、角膜水腫を防ぐために数時間ごとにレンズ内の生理食塩水を交換しなければなりませんでした。

1938年、ハンガリーの眼科医イシュトヴァン・ギョルシはヨーロッパで初めてPMMAをコンタクトレンズに使用しました。彼は1938年にドイツを訪れた際にこの素材に出会い、ブダペストに戻ってからプラスチックを成形し裏面と表側の視標面を研磨する技術を開発。1938年末にはPMMA強膜レンズの装用を開始しました。

ハンガリー生まれのイギリス人歯科医のジョセフ・ダラスと、ドイツ人のノーマン・ビールは、1946年通気性強膜レンズを開発しました。ダラスは、「ろ過痕」(トラベクレクトミー)の圧迫を緩和するため、ガラス強膜レンズに4mmの穴を開けざるを得なかったときに、偶然このアイデアを思いつきました。

するとレンズの装用時間は2倍になりました。彼は、溝や穴について実験し、小さな穴や柵の最も成功する位置は、辺縁に近いレンズの側頭部であることを発見しました。

プラスチック素材は現代でも使われる素材ですがパーフェクトなものではなく、例えば1967年にイギリス・Hamblins社のステファン・ゴードンが開発した「Apex lens」は、安定した視界が得られましたが、PMMA素材での長期使用により酸素不足が起こり、角膜新生血管が発生する場合がありました。

 

4. 偶然から生まれた角膜レンズ

1949年、角膜レンズが開発されました。これは、眼球表面全体ではなく角膜上に装着するため、従来の強膜レンズよりもはるかに小さく、1日に16時間まで装着することが可能でした。

角膜レンズの「発明」は、アメリカの眼科医ケビン・トゥオヒー(Kevin Tuohy)の功績とされています。

1949年、トゥオヒーがマイナス度数の高い強膜レンズを製造していたところ、レンズの一部が割れて完全な円盤状になってしまいました。このサイズは奥さんの角膜の大きさに近いものだったので、トゥオヒーは家に持ち帰って試してもらったところ、良く見えるし快適だった、というわけです。この成功により、彼は翌年角膜レンズの特許を取得しました。

実は角膜レンズ自体は昔からあって、カール・ツァイス社のカタログには、1912年、1923年、1932年、1965年、1966年にガラス製の角膜レンズが掲載されています。

しかしガラス角膜レンズは重く、目の中で下がってフィットしずらいという難点がありました。トゥオヒーのPMMAのレンズはガラスよりはるかに軽く、まばたきのたびに上まぶたで持ち上げられるため、より角膜にフィットするという利点がありました。

 

日本で角膜レンズを初めて作ったのは田中恭一です。

彼は1950年、航空機のPMMAフロントガラスから手彫りした国産初の角膜レンズを作成しました。その手作りコンタクトレンズは目にフィットして快適であったため、彼は同じ品質で一度に10枚のレンズを作る機械も設計しました。コンタクトレンズの量産のために彼は1957年に日本コンタクトレンズ株式会社を設立し、後に分社化して「メニコン」ブランドを築き、世界シェア第5位(2020年度)の大メーカーにまで成長させました。

 

角膜レンズは、1952年のフランク・ディキンソンによる「マイクロレンズ」を始め、角膜に合わせたカーブの調整や、「二重焦点角膜レンズ」や「旋盤カット連続非球面レンズ」「ケルビン連続曲線レンズ」の開発など、1960年から1970年にかけて、角膜用レンズの開発が続けられました。

PMMA角膜レンズの視界の質は、一般的に利用可能になりつつあったソフトレンズを上回りますが、快適性に問題があり、角膜の低酸素症がよく起こりました。また初期の角膜レンズは高価で壊れやすく、コンタクトレンズ保険の市場が発達しました。安価になった今では考えられませんね。

 

5. チェコスロバキアで生まれたソフトレンズ

ソフトレンズは水や酸素を通す性質がある素材を活用したもので、ガラスやプラスチックよりも快適性では大きく上回ります。

ソフトレンズを発明したのは、チェコスロバキア科学アカデミー・高分子化学研究所のオットー・ウィフテルレです。

彼は水に溶ける新しいゲルを研究しており、1952年にメタクリル酸ヒドロキシエチル(pHEMA)というゲルを作成しまた。このゲルは透明で40% まで水を吸収するため、ウィフテルレはHEMAがコンタクトレンズに適していると考え、最初のソフトレンズの特許を取得しました。

その後ウィフテルレはHEMAからコンタクトレンズを量産する装置の開発に没頭し、息子の工作セットを使って遠心鋳造装置の最初のプロトタイプを組み立てました。この装置を使って1961年に自宅の台所で最初の量産型ソフトレンズの第一号が作られ、1964年にはプラハのProtetika社で大量生産が開始されました。

初期のソフトレンズは長時間装着すると角膜浮腫になる場合があり、装用時間が8時間未満になることもありましたが、チェコスロバキア政府から国民に無料で支給されたこともあり、人気がありました。

 

その後、世界各地でHEMAに代わる新たな素材のソフトレンズの開発が始まりました。

1966年には、 アメリカで「エタフィルコンA」という独自のソフトレンズ素材が発明され、これが後にジョンソン・エンド・ジョンソンの人気シリーズ「アキュビュー」になります。

1970年、アメリカのジョン・デ・カールは、長時間装用時の快適性と安全性を向上させるため、角膜に近い含水率のソフトレンズ自宅のキッチンストーブで開発しました。彼はそのレンズをPermalens(HEMA/VP)と名付け、これが世界第2位のコンタクトレンズブランド「クーパービジョン」の始まりです。

1970年代にソフトレンズは大量生産方法が模索されます。

アメリカではソフトレンズはスピンキャスト法と旋盤加工で製造されていましたが、労働集約型であり、材料の無駄が多く、品質にムラが生じました。その後、イギリスのトム・シェパードが、キャストモールドのソフトレンズの特許を申請しました。これは2つの金型の間にレンズ材料を計量して注入し、金型が一杯になると重合させるものでした。レンズ材料が無駄にならず、レンズの生産が大幅にスピードアップし、これが使い捨てレンズの製造につながっていきます。

 

6. デンマークで生まれた使い捨てレンズ

使い捨てレンズを初めて製造・販売したのは、デンマークの眼科医マイケル・ベイです。

彼は長時間装用するソフトレンズの破損を懸念し、もっと良いレンズの作り方があるはずだと考え、新しいレンズの成型方法を開発しました。

スタビライズド・ソフトレンズ・モールド・システムと呼ばれるこのシステムでは、レンズを柔らかく保つために希釈剤で水分を補給して型から出し、包装前に生理食塩水と交換します。これにより、より安定したレンズが低コストで製造できるようになり、定期的に使い捨てても気にならないほどの低コスト化を実現しました。

デンマークの眼鏡チェーン店Synopticから発売されるとたちまち話題になり、この新しいレンズを手に入れるため人々は大行列を作りました。マイケル・ベイのシステムは1983年にジョンソン・エンド・ジョンソンに買収されました。

1988年、ジョンソン・エンド・ジョンソンの子会社ビスタコンが1週間装用タイプのレンズ「アキュビュー」ディスポーザルを発売しました。これは素材をエタフィルコンAにし、品質を向上させ、パッケージングを合理化したものです。

1989年には、スコットランドのロン・ハミルトンとビル・セデンが設立したAward社が、新しい成型技術で1日使い捨てのコンタクトレンズを開発しました。この後、Award社はボシュロム社に買収されています。

1995年に、ジョンソン・エンド・ジョンソンが「ワンデイ・アキュビュー」を発売しました。

設備と広告への莫大な投資により、1日使い捨てコンタクトレンズは世界中に普及しました。1人あたり1年に約730枚のレンズを使う計算だそうです。物凄い量です。

このようにして、高価で手間のかかるコンタクトレンズは、1日で捨てても問題ないほどのコストと手軽さになりました。

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まとめ

他にも色々な素材のコンタクトレンズがありましたが、長くなるのでざっくりカットしました。

コンタクトレンズは普及と安価化が実現し、ある種のコモディティ化された製品になりつつあります。またレーシックの技術も発展しかなり身近になってきたので、コンタクトレンズの需要も減っていく可能性もあります。

今後コンタクトレンズの発展があるとしたら、どういった機能があるでしょうか。

例えば、自動でピントを合わせる、暗闇でも暗視ゴーグルのように見える、という機能。グーグルグラスのように、インターネットにつないでデジタル情報をレンズに投射できるようになるかもしれません。そうなると、またコンタクトレンズの役割自体が大きく変わっていきそうです。

 

参考文献

"The History of Contact Lenses* - JACQUELINE LAMB and TIM BOWDEN"

Contact lens - Wikipedia