Photo by Bernard Gagnon
インドで廃れた仏教はアジア諸地域へ
前回の記事「仏像の姿形はどう変わっていったか」では、仏教発祥の地インドで、いかに仏教が広がり併せて仏像が発達・衰退していったかを書きました。
インドで消滅した仏教は、アジア諸地域に渡り当地で独自の仏教美術を開化させていきます。
今回は特に、南アジアと東南アジアでの仏教と仏教美術の特徴をまとめていきます。
1. 釈尊の死後の仏教
教団の分裂
釈尊が亡くなって約100年の間は、直弟子や直弟子に学んだ者たちが教団をまとめたため、釈尊の教えは変わらずに生き続けていました。この期間を初期仏教とか原始仏教とか言います。
ところが、100年ちょっと経ったころに教理や戒律の異説が生まれ、革新派のマハーサンギカと保守派のテーラヴァーダに分裂。前者は後の大乗仏教、後者は上座部仏教です。
この2派はどんどん分裂していき、前1世紀には18〜20もの宗派が存在していたそうです。
伝統的な仏教は瞑想や自己探求により悟りを目指しますが、革新派のマハーサンギカは利他行の実践、出来るだけ多くの人を救うことを目指す仏教運動を展開するようになります。
アジア諸地域への伝播
大乗仏教は前1世紀から2世紀にかけて大きく展開し、5世紀ごろには東南アジア諸国に広がります。インドネシアのボロブドゥール(8世紀〜9世紀)、カンボジアのアンコールワット(9世紀〜15世紀)は大乗仏教系の遺跡です。
一方の上座部仏教も5世紀ごろからスリランカや東南アジアに伝播。
5〜6世紀にビルマ、13世紀〜14世紀にカンボジア、13世紀にタイ、14世紀半ばにラオスに伝わっていきます。
仏教だけが伝わったのではなく、インドの物産や文化・風俗などとセットになって普及していきました。
では、それらの諸地域ではどのように仏教を受容していったのかを見ていきましょう。
2. ネパール
2-1. 歴史
ネパールはインド文化圏ではありますが、首都カトマンズは山に囲まれた盆地にあり、その天然の要塞はイスラム勢力の侵入を防ぎました。釈尊入滅から1500年近く経ったインドでは、仏教の教えはヒンドゥー教とミックスして密教化していきます。
イスラム勢力の侵入後、インド仏教の信者や教典はカトマンズ盆地に逃れたため、現在でも当時の流れを汲む密教色濃い仏教美術を見ることができます。
2-2. 仏教美術
釈尊像は、後期仏教の流れである「降魔成道印(右手を地面に触れる)」で作られています。また、蜜蝋が多くとれたため金剛仏が多く作られました。
Image from:The Metoropolitan Museum Of Art, Masterpieces of Tibetan and Nepalese Art
後期インド仏教で人気のあった、女性の菩薩・多羅菩薩も多く作られ、スーパーモデルのようなナイスバディーの仏像や絵もネパール仏教美術の特徴の1つです。
3. チベット
3-1. 歴史
チベットに仏教が初めてもたらされたのは、7世紀半ば。
英雄ソンツェン・ガンポがチベット高原を平定し、唐の皇女・文成公主を妻に迎えて以降のこととされています。
その際、唐の文物がチベットにもたらされますが、仏教も同時にチベットに入ってきました。ソンツェン・ガンポはサンスクリット文字を参考にしてチベット文字を作らせ、教典を翻訳して仏教を広めました。
9世紀半ばにランダルマ王の仏教弾圧によって廃れますが、11世紀には復活し学僧がネパールやカシミールで学び、帰国してチベットに多くの寺院を建立しました。
その後、経典や修法、氏族の結びつきによってサキャ派、カギュ派、ニンマ派、ゲルク派の4派閥に分かれて抗争を繰り広げ、最終的にゲルク派のツォンカパが統合し仏教改革を断行。その後も抗争が続き、16世紀後半にダライ・ラマ政権が誕生します。
3-2. 仏教美術
チベットの仏教美術は、ネパールから学んだこともあり後期インドの強い影響が見られ、仏像は「降魔成道印」が多く見られます。
Image from: The Metoropolitan Museum Of Art, Buddha Shakyamuni or Akshobhya, the Buddha of the East
またチベット仏教美術の特色として、チベットの偉大な僧、例えばニンマ派のパドマサンバヴァ、サキャ派のクンガーニンポ、カギュ派の詩聖ミラレーパ、ゲルク派のツォンカパなどの像が作られました。
以下はツォンカパの像です。
Photo by Tibetanmuseum
また、タンカと呼ばれる仏教掛け軸も盛んに作られ、人物像や曼荼羅の絵画が発展しました。しかし、チベットにある古い美術品の多くは文化大革命の中で焼き捨てられ、それ以前や動乱期に国外に持ち去られたものがわずかに残るのみです。
以下は12世紀〜13世紀に描かれた、釈尊を表したタンカです。
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4. スリランカ
4-1. 歴史
スリランカはインド南端の島国ですが、前三世紀に仏教が伝来してから、絶やすことなくその伝統を守り抜く仏教大国であります。
6世紀から11世紀までは南インドからヒンドゥー教を侵攻するタミル人が襲来し北スリランカに居住し、仏教勢力と長きに渡る抗争を続けました。11世紀にそのタミル勢力を打ち破り、パラークマバーフ1世とニッサンカマッラ王の代に仏教がもっとも盛んになり、国内に大規模な仏像が多く建てられました。
このスリランカの上座部仏教は後に東南アジア諸国に伝播。東南アジア各国の仏教のベースになっていきます。交流は長い間続き、大規模な寺院が建立される時はスリランカの僧が招かれることも多くありましたし、東南アジアの学僧はスリランカで仏教を学ぶのがエリートコースでした。
4-2. 仏教美術
さて、スリランカの釈尊像は後期インドの「降魔成道印」ではなく、上座部仏教に則って「施無畏印」か「禅定印」がほとんどです。
多くは手のひらを横にして座っているのがスリランカの釈尊像の特徴です。
Image from:The Metoropolitan Museum Of Art, Buddha Seated in Meditation
また、スリランカの仏教美術の大きな特色は、インドでははるか昔にイスラム教徒によって破壊されてしまった仏教壁画が多く残っている点にあります。
特に有名なのはシギーリヤの壁画で、5世紀頃のものです。
180メートルもある巨大な岩山の中のくぼみに、20人余りの天女が描かれています。
上半身は裸で、手には蓮や睡蓮などの花を持ち、下半身は描かれていません。
Photo by Bernard Gagnon
スリランカ最大の石窟寺院ダンブッラは前1世紀に始まり、何代もかけて壁画を描き、修復し、受け継いできました。
以下の赤が基調になった壁画は18世紀に描かれたものです。
Photo by Bernard Gagnon
5. ビルマ
5-1. 歴史
ミャンマーは現在でも仏教勢力が非常に強い地域で、国民の大部分は敬虔な仏教徒です。
ビルマは陸続きでベンガルと繋がっているため、仏教の伝来も早かったと思われます。
イラワディ河中流域に栄えた先住民族ピューがまず仏教を受容し、6世紀から8世紀ごろにかけて仏像が多く作られました。当時はヒンドゥー教、大乗仏教、上座部仏教が混在しており、インドの文物と一緒くたになって入ってきたことが分かります。
その後、北から南下してきたビルマ族がピューを排除し、イラワディ河一帯を支配下に収め、同時に先住民ピューの仏教を受け入れます。
その後、パガン朝、バゴー朝、インワ朝の時代で仏教は山間部にまで広がり、スリランカの上座部仏教を規範とし、歴代の国王は仏教を庇護して国の安定を図りました。
5-2. 仏教美術
さて、パガン朝の仏像はかなり特徴があり、丸顔で眉尻が上がっていて、左右を持ち上げた半眼、とがった鼻、デレーンと垂れた耳たぶ。
我々日本人にとってはちょっと見慣れぬ仏様の姿です。
Photo by Gerd Eichmann
ミャンマーの人たちにとって仏様の存在は生活の一部であり、形式にとらわれることなく自分と家族の健康と幸福を願って、仏像を彩り飾ります。
真っ白に肌が塗られ赤やピンクの紅で塗られた唇をした仏像は、やはり我々日本人には奇異に写るのですが、宗教が生活の中で生きている証でもあるでしょう。
Image from HUONG VIET TRAVEL, Things to know when you have Myanmar sightseeing tour
6. タイ
6-1. 歴史
タイは様々な宗教勢力が入り交じっており、ヒンドゥー教、大乗仏教、上座部仏教が複雑に入り交じって伝えられました。
タイ族が現在のタイ王国の領域を支配下に収めるに至ったのは、13世紀のスコータイ王朝と次のアユタヤ王朝を経てからです。これらの王朝では、仏教が篤く保護され寺院が数多く建立され、同時に大小様々な仏像も作られました。
6-2. 仏教美術
スコータイ王朝はスリランカ様式の寺院が建造され、タイ人の顔をした面長の仏像が作られました。
次のアユタヤ王朝では、アユタヤ式と称される形式化された仏像が多く作られるようになります。前期は慈悲に満ちた雰囲気がある仏像がいくつかあるようですが、いまアユタヤ遺跡に残る仏像は豊かな表現のものは少なく、魅力的なものが少ない印象です。
まとめ
インドの地を去った仏教は、北・南・東に伝播し、さらに土着の文化と混合してその土地ならではのユニークなものに発展していきました。ここでは細かく記述していませんが、教えも土着のものと融合し、そこから門派が分かれ、独自に発展していく。
文化人類学者の梅棹忠夫は、「文明の生態史観」の中で「宗教と伝染病は似ている」と述べました。マルクス主義的観点からではなく、
- 病原体の存在(=宗教的概念)、
- 伝播者の存在(=伝道者の存在)、
- 感染が個人の健康状態に依存すること(=誰もが受容するわけではない)、
- 衛生や居住様式など社会的要因(=貧困や抵抗運動などの社会要因)、
- 水利や気候などの環境条件(=宗教文脈と適合する土地の気候)
といったふうに、おおよそ伝染病と宗教は似たような特徴を持っている、というのです。
伝染病が土地で進化するように、宗教もその土地で独自の進化をしていき、段々と大本が何なのかよく分からないものになっていくこともある。
ここが歴史の面白いところであり、同時に人間という生き物の、愛すべきと同時に面倒くさいところが垣間見えるのであります。
前記事「仏像の姿形はどう変わっていったか」
参考文献:仏像の歩み 畑中光享 春秋社