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【美術】仏像の姿形はどう変わっていったか

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仏様の姿形はどのように変わっていったか 

仏像に興味あるという人は多いと思います。

ただ、教養がないと理解できなさそうで何か難しそう、と思ってる人も多いと思います。

確かに、何何神とか神様がいっぱいいたり、全ての物に由来や意味があったり、よく覚えられない。

仏教はヒンドゥー教の台頭やイスラム教の侵入により、13世紀ごろにはほぼインドから姿を消してしまったのですが、今回はそれまでのインドの歴史と仏像の変化について、追っていきたいと思います。

 

 

1. 仏像が生まれる前 

実は釈尊(ガウタマ・シッダルータ)が亡くなってから500年以上、仏像というものは存在しませんでした。

仏像が作られ始めるのは1世紀後半からで、その頃には釈尊が半ば神格化された存在になっていき、同時に盛んに仏像が作られるようになっていきました。

では、仏像が作られる前は釈尊をどのように表現していたか。

 

まずは、「三宝」と言われる仏教で最も大切な「ブッダ(仏)」「ダルマ(仏教の教え)」「サンガ(仏教を護る人)」をWのような形で象徴的に表したもの

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画像転載元:CHRISTIE'S The Art People -A GRAY SCHIST RELIEF OF THE TRIRATNA ADORED

 

次に、釈尊の遺骨を釈尊そのものとして祀った「ストゥーパ(仏塔)」

釈尊が入滅してブッダとなると、仏の骨である釈尊の骨を人々が求めたため、インド8各国にそれぞれ分骨されました。釈尊の骨はそれぞれの国で土饅頭を作って篤く信奉されました。この「釈尊の骨が祀られた塔」がストゥーパ。後に別に骨が中になくても、釈尊そのものを敬う場所ということでストゥーパが各地に林立していくことになります。

日本でも仏塔はそこら中にあります。有名どころでいうと、法隆寺の五重塔や京都・一乗寺の三重塔がありますね。

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Photo by Sijoking

 

後は、あまり日本では馴染みがありませんが、仏弟子が釈尊に敬意を表すものの象徴だった「傘蓋」や、天上界から下界に仏が降りてこられたことを表す「仏足跡」も、釈尊を表したものとして、インドで盛んに作られました。

 

サーンチーの仏塔の最上部に備えられた傘蓋

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Photo from flickr.com/photos/chromatic_aberration

 

1世紀頃のガンダーラの仏足跡

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2. なぜ仏像が作られ始めたか

1世紀後半ごろから仏像が作られ始めます。

なぜ仏像が作られ始めたか、その明確な理由はあまり分かっていませんが、以下の3つの要因が挙げられます。

 

2-1.  ギリシア・ローマ文化の流入

当時ローマ帝国は陸路・海路でインドと交易を行っていました。

ヒト・モノの交流が盛んになると、当然現地の文化や風俗も入ってきたはずで、優れたローマの彫刻もインドにもたらされたものと思われます。

手先の器用な者が、ローマ人のマネをして作ってみたことも大いにあり得たでしょう。

また、アレクサンダー大王のインド遠征に従軍し、後に現地に定着したギリシア系の人々の影響もあったかもしれません。

 

2-2. 大乗仏教の普及

ナーガルジュナ(竜樹)によって体系化された大乗仏教は、厳しい修行を積んだもののみならず、そうでない普通の民衆も誰もが救われるとしました。

難しいことの分からない庶民に釈尊の難しい教えを伝えないといけないので、釈尊の歩みを物語化して神格化し、仏像として崇めさせたほうが手っ取り早くて効率が良かったと思われます。

 

2-3. 経済力を持った大国の出現

1世紀中頃に登場したクシャン朝は、西域からインド中部まで広大な領土を支配した大帝国でした。

三代目のカニシカ王は仏教を保護し、帝国への仏教の普及を推進しました。

莫大なカネの力で仏像を作りまくって、全国に配置しまくったわけです。

あんま夢のない話ですけど、やっぱカネの力が物を言うんですね。

 

3. 初期の仏像の姿

では、初期の頃の仏像はどのような姿形をしていたのか。

当初は、仏像は釈尊像のみで、菩薩像は弥勒菩薩像(釈尊入滅後56億7000万年先に仏となるとされる)のみでした。 

仏像は釈尊の出家後の姿で、糞掃衣(死体焼場に捨てられた衣)をまとい、右手を開き前に突き出しています。

これは釈尊が説法をしている姿を表しています。

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上記は東京国立博物館に所蔵されているガンダーラの仏像ですが、説法をしている右手が破損しています。これは後に侵入したイスラム教徒によって破壊されたからです。

イスラム教徒にとっては、顔よりも「教えを説く右手の方が邪悪」と考えたからでしょう。

 

一方で、菩薩像は出家前の釈尊の姿をしています。

もともと釈尊は王族なので、アクセサリーをジャラジャラつけたチャラ男な感じで表現されています。

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現在の仏像には「お約束事」がたくさんありますが、当時は全然そういったものはなかったらしく、

例えば頭頂部がお団子のように盛り上がった「肉髻(にっけい)」や、眉毛の間にある毛の塊「白毫(びゃくごう)」は後に作られたものです。

また、手と指の間に水かきのようなものがあるのがお約束で、それは「曼網相(まんもうそう)」と言い1人でも多くの民を救うためとされますが、それは後付けの理由。

細かく指を彫刻してしまうと壊れやすいからそうしているだけです。

 

阿弥陀仏信仰の発展

阿弥陀仏はサンスクリット語で「アミダーバ(無限の光を持つもの)」と言い、西方にある極楽浄土を持つ仏です。

大乗仏教の発展で浄土信仰が盛んになり、極楽浄土へ導いてくれる阿弥陀仏を特に信仰する者が増えていったのです。

ただ、どれが阿弥陀仏か釈尊像かは専門家の間でも議論があるほどで、結論が出ていないものをたくさんあります。

簡単な見分け方として、両手で「転法輪印」を結び、蓮華座の上に座っているのが阿弥陀仏だそうです。

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Image From KENNETH JAMES SAUNDERS – EPOCHS IN BUDDHIST HISTORY

nucius.org/books/kenneth-james-saunders-epochs-in-buddhist-history

 

ブッダの物語

クシャン朝以降になると、釈尊に対するリスペクトから「釈尊の生涯」に関心が高まっていきます。仏伝では教えよりも、釈尊の苦悩や慈悲、努力の精神など、「人間ガウタマ=シッダルータ」を積極的に讃えようという試みが見られます。

 

釈尊の誕生

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Photo by Tttrung

 

釈尊の出家

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修行中の釈尊

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教えを説く釈尊

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釈尊の入滅

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南インドの仏像

北インドでクシャン朝が栄えていた頃、南インドではサータヴァーハナ朝が栄えていました。北インドから伝わった仏教は、このサータヴァーハナ朝でも広く普及しアマーラヴァティの地には巨大なストーゥパを初め、多くの仏教建築が作られました。

サータヴァーハナ朝が滅びイクシュヴァーク朝が興ると、南インドでも仏像がたくさん作られ始めます。 

しなやかな曲線で描かれた、ちょっと人間離れした釈尊の姿です。

頭部には螺髪(らほつ)が見られ、現代ではお決まりのくるくるパーマが当時から始まっていたことが分かります。

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画像転載元:FRONTLINE - INDIA'S NATIONAL MAGAZINE from the publishers of THE HINDU

 

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4. インド仏教美術の絶頂期

クシャン朝滅亡後に興ったグプタ朝で、インド仏教美術は最盛期を迎えます。

三代目のチャンドラ・グプタ2世の治政下でインド大陸の半分を占める大国に成長。有名な仏像制作地はマトゥーラとサールナート。現在見られる仏像の「お約束事」が決まったのもこの地においてです。

また有名なアジャンター石窟寺院が開かれ、地方色豊かな仏像が多く作られていきます。

クシャン朝時代には力強く説法する釈尊の姿が作られましたが、グプタ朝になると半分目を閉じて瞑想をしているような姿が作られるようになります。

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サールナートの仏像は一見裸に見えるくらい衣を省略しており、これは余計な装飾をして人々の目を引きつけなくてもよくなったこと、つまり仏教の教えや精神が広く行き渡ったことで、余計な表現をせずに「ミニマム」な表現で仏の慈悲や静寂を表現することが可能になったのです。

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Photo by Baljeet Dhillon 

 

6. ヒンドゥー教の台頭

このように、グプタ朝では仏像が絶頂期を迎えますが、同時に民族意識の向上とともにバラモン教から発展したヒンドゥー教が台頭してきます。

地方各地に存在しバラバラだった民間神話の中の神様たちが、創造主ブラフマー、秩序を司るヴィシヌ、破壊の神シヴァにまとめられ、その神様たちがそれぞれ変容したり、別の名前になって登場したり、子どもを設けたりするようになります。

めちゃくちゃ汎用性が高い「箱」だったのでしょうね。

瞬く間に地域の神話はヒンドゥー教の箱の中に取り入れられて独自解釈され、色んな神様たちが作られていくようになります。

 

そんな中で、ヒンドゥー教の要素が仏教の中に段々浸食していくようになってきました。

例えば、戦闘の女神ドゥルガーやカーリーは、たくさんの手がありそれぞれ武器を持って悪魔と戦いますが、それが仏教に入ってきて「顔や手が多ければ多いほど多くの人を救済できる」と説明がなされ千手観音となりました。

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ちなみに、これは戦闘の神ドゥルガー

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仏教の密教化

グプタ朝が滅び、北インドはいくつもの王朝が覇権を争う戦国時代に突入。

仏教はそもそも瞑想的で、内に向かって探求していく宗教なのですが、ヒンドゥー教の影響や相次ぐ内乱や荒廃の中で、次第に戦闘的・能動的なものになっていきます

それまでは説法を描いた「施無畏印」でしたが、「降魔成道印」が中心になっていきます。

降魔成道とは、悪魔マーラの誘惑に打ち勝ちその証明のために右手で地面に触れて大地の女神を呼び出し、女神が証明したことで成道されたというお話のこと。

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画像転載元:Māra與“魔” - 明覺電子 

 

仏教の密教化に伴い、尊像のそれぞれが修法に結びつけられて体系化されます。

まず最初に本初仏があり、そこから五仏(大日如来、阿閦仏、宝生仏、阿弥陀仏、不空成就仏)が生まれ、大日如来を中心に東南西北の順番にそれらの仏が仏国土を形成する、とされました。

またヒンドゥー教の影響で、シヴァ神が大黒天になったり、多羅菩薩という乳房のついた女性の菩薩が生まれたり、どんどん変化していきます。

もともと仏の神様には性別の概念はないので、思いっきりヒンドゥー教の影響です。

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7. インド仏像の終末期

8世紀からガンジス中・下流域を支配したパーラ朝は仏教を保護し、仏教美術が栄えるとともに、釈尊の足跡を整備・保全する運動が盛んになります。

当時の仏像はグプタ朝時の豊満で豊かな表現に比べ、全体的にぎこちなくバランスを欠き、表情も険しく冷たい印象を与えます。

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また、この時の釈尊像には今までになかったような王冠をつけアクセサリーをつけた宝飾仏(クラウン・ブッダ)がみられるようになります。

都会的でシャレオツな感じじゃないと、もはや見向きもされなかったのかもしれません。

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 Photo by Hyougushi

 

10世紀以降、北インドにイスラム教が侵入。

イスラムは仏教寺院や仏像を破壊し、教典を焼き捨て、仏教徒を殺戮してしまいます。すでに力を失っていた仏教徒はひとたまりもなくイスラムの軍門に下っていき、インドから仏教は消滅しました。

 

 

まとめ

釈尊が入滅してしばらく内省的だった仏教は、 権力によって大衆化させられて統治の道具となり、その後ヒンドゥー教の影響を受けて複雑化し、どんどんよく分からないものになっていきました。

我々が仏教を学ぼうとする時に感じる「分かりにくさ」は、この辺りにあるような気がします。

釈尊が今の仏教を見たら、正直どう思うでしょうね。

 

参考文献:仏像の歩み 畠中光享 春秋社

仏像の歩み

仏像の歩み

 

 

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