正統イスラムからは外れているとみなされる一派
キリスト教ではかつて「公会議」や「異端審問」など、正式な教え以外の教えを「異端」であると公式に裁定し布告する仕組みがありました。
一方でイスラム教では、ある一派や学派が異端であるかを「しかるべき人」が協議し正式に認定することはなかったので、何が異端であって何が異端でないかの判断は人によって分かれます。ただし、スンニ派やシーア派(十二イマーム派)など多数派の一派から見たときに「非正統」であるとみなされる一派は数多く存在します。
1. ハワーリジュ派
イスラム教団ごく初期に分離した一派
イスラム教の創始者ムハンマドが亡くなった後、人々は教団をまとめあげるために「カリフ」という役職を新たに設定し預言者の後継者であるとしました。
初代カリフはムハンマドのごく初期からの仲間のアブー・バクルで、2代目はその後継者ウマル。ところが3代目にカリフになったウスマーンは、教団の重要なポストを自分の出身であるウマイヤ家の重用を進めたため、他の信者たちの不満が高まりました。
第4代にはムハンマドの娘婿であるアリーが就きますが、ウマイヤ家のシリア総督ムアーウィヤはこれに反対し、教団内部での内戦が勃発。657年にアリー軍とムアーウィヤ軍がスィッフィーンで刃を合わせました。
戦いは膠着したため両軍は調停による解決を図ろうとしますが、アリー軍の一部で調停に反対する一派が戦場から離脱。彼らがイスラム史上初の分派であるハワリージュ派(出ていった人たち)です。
ハワリージュ派は自分の一族を重用したウスマーン、ウスマーンを支持するムアーウィヤ、ムアーウィヤと妥協しようとしたアリーも全て大悪人であると考え、「大悪人」の殺害を執拗に敢行。661年にとうとうアリーの暗殺に成功します。
ハワリージュ派は敬虔なムスリムであれば誰でもカリフになれるとしますが、ウスマーンなどの大罪を犯した者は背教者とみなし殺害を正当化するため、スンニ派やシーア派などからは異端的存在とされています。
ハワリージュ派はその後急進派のアズラク派と穏健派のイバード派に分かれ、イバード派のみが現在も存続しています。
2. イバード派
イスラム圏の一部地域にのみ今も存在するハワリージュ派の穏健派
イバード派は現在のオマーン、東アフリカ、北アフリカの一部地域(チュニジアのイェルバ島、リビアのナフス山脈など)に存在する一派です。
ハワリージュ派の中の穏健派で、「罪を犯した者」でもムスリムであると認め殺害などの極端な行為は行いませんが、ウンマの指導者であるイマームは「敬虔なムスリムであれば誰でもなれる」としています。ですが、イバード派は長年自分たちのイマームを持っていません。
オマーンでは伝統的に、イバード派のイマームが国王になるという習慣がありました。
17世紀初頭に興り現在も続いているブーサイード王朝も、初代国王アハマド・ビン・サイードも、王朝を創始するにあたって自らイバード派のイマームを名乗りました。ところが、2代目国王サイード・ビン・アハマド以降は国王はイマームを名乗らなくなってしまいました。飛び地であるザンジバル島を始めとした東アフリカが重要になるにつれ、イマームが支配するという文脈だと不都合が生じたのかもしれません。その流れで、イマーム不在のまま現代に至っています。
3. アレヴィー派
様々な宗教の教えがミックスされたシーア派の一派
アレヴィー派はバルカン半島の一部とトルコに現在も存在するシーア派の一派です。現在のトルコ共和国のムスリムの約20%はアレヴィー派であるとも言われています。
アレヴィー派はシーア派の一派で、ムハンマドの娘婿で第4代カリフ・アリーを正当な後継であるとし、初代カリフのアブー・バクル、2代カリフ・ウマル、3代カリフ・ウスマーンも認めていません。
ですがシーア派と違うのは、アレヴィー派は1日5回のメッカへの礼拝や、聖地メッカへの巡礼、ラマダン時の断食などの普通のイスラム教徒にとっての常識的な行為は行なわないこと。
アレヴィー派の教義には、ゾロアスター教や仏教、アニミズムなど多数の宗教の教えがミックスされており、またスーフィズム(神秘主義)の影響も色濃く、トルコのムスリムの多数派であるスンニ派の人々は異端的と考えています。
4. カイサーン派
Work by BukhariSaeed
アリーの末子を担いで反乱を興したシーア派の一派
カイサーン派は既に消滅したシーア派の一派。
第4代カリフのアリーがハワリージュ派に暗殺された後、ムハンマドの血筋をウンマ(イスラム共同体)の指導者とすべきと考える人は、多くはムハンマドの娘ファーティマの息子であるハサンとフサインを後継者と考えましたが、カイサーン派はそれに加えてアリーの末子で、ハサンとフサインの異母弟ムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤも後継者であるべきだと考えました。
685年、カイサーン派はハナフィーヤ本人を担いで軍事蜂起し、スンニ派のウマイヤ朝に対して闘争を繰り広げました。当時は現在のイラクのクーファがカイサーン派の一大拠点で、イラク一帯にセクトを広げることに成功しました。
ところがハナフィーヤが700年に死亡すると、カイサーン派は「長男イブン・アッラー・イブン・ムハマド・イブン・アル・ハナフィーヤを指導者と考える一派」と、「ハナフィーヤがどこかにお隠れになっていて、救世主としていつか姿を現すと考える一派」に分裂。
アッバース朝がウマイヤ朝を滅ぼすあたりまでは、カイサーン派はシーア派の多数派でしたが、大半のカイサーン派はアッバース家に忠誠を近い、スンニ派となって消滅しました。
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5. アラウィー派
シリア内戦の対立軸ともなっているシリアの少数一派
アラウィー派はシリアのイスラム教徒の約1/4ほどを占めるマイノリティで、シーア派の一派とされています。
彼ら自身は自らは「穏健派シーア派」であると考えているようですが、アラウィー派の教えではイスラムの五行(信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼)は必ずしも必要ないし、仏教的な輪廻天生やキリスト教的な三位一体の考えも含んでおり、イスラムの多数派の中にはアラウィー派を異端または別の宗教と考える人もいます。
もともとは10世紀ごろ、9世紀のシーア派のイマーム、ムハムマド・イブン・ヌーファイア・ナミリの教えを元にして集団化し、アレッポを本拠地とするのハムダーン朝支配下で勢力を強めました。しかしハムダーン朝崩壊後は、十字軍、マムルーク朝、オスマン帝国といずれも弾圧され、信者は内陸部から沿岸部の山岳地帯に逃げて行きました
アラウィー派はシリア内の少数派ではありますが、現シリア大統領のアサド政権の中枢はアラウィー派がその多くを支配しているとされており、アサド自身もアラウィー派です。
そのため、シリア内で多数派のスンニ派はアラウィー派による支配の打倒を図って反政府勢力を結成し、泥沼のシリア内戦に突入していきました。
6. ドゥルーズ派
ファーティマ朝第6代カリフ・ハーキムを神と崇める一派
ドゥルーズ派はレバノン、イスラエル、シリア、ヨルダンを中心に世界に100万人ほどがいるセクト。
ドゥルーズ派が生まれたのは8世紀、シーア派の一派イスマーイール派を信奉するファーティマ朝においてです。
6代カリフ、ハーキムは、イスラムの戒律に準じて国の改革を行った人物で、彼の元でエジプトはイスラム神学や各種学問が発達しました。彼は聡明な君主でしたが数々の奇行で有名で、その謎めいたカリスマ性からハーキムを崇拝し神と同一視する一派が出現しました。
ハーキムは1021年のある日、お供の者も連れずに砂漠に出かけたきり宮殿に戻りませんでした。ハーキムを神と仰ぎ「お隠れになった」と考える一派は、7代目カリフ、アル=ザーヒルによって弾圧され、国を追われてシリアやレバノンの山岳地帯に逃避しました。
彼らはかなり狭いコミュニティの中で閉じて暮らし、その宗教の秘密を守り抜いています。ドゥルーズ派以外の者とは結婚しないし、改宗も認められていません。そのため、外部の人間がドゥルーズ派の教義や宗教的儀礼を知ることは難しく、謎に包まれていますが、グノーシス主義やスーフィズムの影響を強く受けているそうです。
そのため多数派のムスリムの多くは、ドゥルーズ派をイスラム教の一派と認めていません。しかし当の本人たちは自らを「唯一神の信徒」であると考えています。
7. ニザール派
「暗殺教団」として有名な戦闘的イスマーイール派集団
ファーティマ朝第8代カリフ、アル=ムスタンスィル・ビッラーが亡くなった後、イスマーイール派は誰を後継者にするかで分裂。
順当に行けば長男のニザールが後継者になるのですが、有力者の宰相アル=アフダル・シャーハンシャーが、自分の妹婿でニザールの弟アフマドを擁立。アル=ムスタアリー・ビッラーという名で第9代カリフにしてしまいました。ニザールは激怒し彼に同調する者を引き連れて反乱を起こしますが、すぐに鎮圧されてしまいます。
イスマーイール派を信奉する地域の多くはアル=ムスタアリー・ビッラーのカリフ就位に同意しますが、イランとイラクの一部地域はニザールを支持。敗れたニザール派はこの地域に逃げ、独自のニザール派を築き上げたのでした。
当時はスンニ派を信奉するセルジュク朝が中東を席巻していた時代で、ニザール派はスンニ派と激しく戦います。特に有名なのがイランの山岳城アラムート城を根拠としたハサニ・サッバーフという男で、彼は信者に短剣を持たせ、標的を暗殺する手法で悪名を馳せました。
その噂はマルコポーロに伝わり、尾ひれがついてヨーロッパに伝わります。
若者に麻薬を吸わせた上で山の上の城に連れていき、酒池肉林の天国のような経験をさせ、「もう一度体験したくば神に報いよ」と言い標的に暗殺を行わせるという「山の老人伝説」です。
7. シャイヒー派
イマームが見た「夢」などの霊的直感を重視する一派
シャイヒー派は19世紀のイランで生まれた一派。
当時のイランの王朝カージャール朝は、ヨーロッパ列強に軍事的に屈し、治外法権を含む不平等条約を次々と結ばされたことで、政治面でも経済面でも支配されるようになり、経済的に困窮する人々の間で「マフディー(救世主)」が強く望まれるようになっていました。
そんな中、アフマド・アル=アフサーイーという人物が興したのがシャイヒー派。彼らは、ムスリムが「お隠れになっているイマーム」に近づくためには、聖典や法学の知識や論理的解釈ではなくて、「十二イマームが見た夢」などの霊的直感・神秘的解釈を重視することが重要であると主張しました。
霊的感覚を重視するのはスーフィズム(神秘主義)と似ていますが、スーフィズムは儀式を通じた神と自己の一体化から解釈や真実を求めるのに対し、シャイヒー派はあくまで十二イマームの見た夢を根拠にして正解を求めようとするところが違います。
1822年にシャイヒー派は異端として告発され、信者の中で人望があったサイード・アリ・モハンマドという男は後に自ら「救世主」であると主張し、バーブ教を興します。
そしてそのバーブ教からは、現在でも信者を増やしている「バハイ教」が成立していきます。
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9. アフマディーヤ
インドに出現した「預言者」が設立した一派
アフマディーヤは1889年にインド出身のミールザー・グラーム・アフマドという男が設立した一派。現代では200以上の国と地域に支部があり、信者数は数千万とも言われています。
アフマドはある時神の啓示を受け、自らが「ナザレのイエスの再臨」であり、「預言者ムハンマドにその出現を預言された神の案内者である」と主張しました。
アフマディーヤは、神が宗教戦争を終わらせ、道徳・正義・平和を地上に復活させるためにアフマドを遣わしたと信じており、イエスの再臨とされています。
多数派のムスリムは「ムハンマドが最後の預言者である」と考えるので、アフマディーヤの主張は認められず、イスラム教とは全く別の宗教と考える人もいます。
ですが、アフマディーヤたちは五行を行い、スンニ派の伝承を受け入れているため、自分たちはスンニ派の一派であると考えているようです。また自らを「一切のテロ行為を断固として拒否する最も有力なイスラーム組織」「モスクと国家の分離を是認する唯一のイスラーム組織」としています。
また、多数派ではカリフやイマームが途絶えて長いですが、アフマディーヤは独自にカリフを設定しており、現在は第5代目になります。
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まとめ
イスラム教の教えは曖昧さを嫌います。
「唯一絶対の教え」とか「最後の預言者」「生または死」など、異論を挟ませる余地がなく、白か黒かで決着をつけてしまう。
それはそれで分かりやすいのですが、素人的発想だと、厳密なルールを決めてしまったが故に後代のイスラム教徒はかなり苦労をしているような気もします。
人間社会の発達に従って人の考えも変化するし、柔軟に思考を変えていかないとなかなか発展も難しいのではないかと思ってしまう。
それはキリスト教徒の欧米が決めたルールがグローバル・スタンダートになっているからだ、我々はそんなものは無視する、という考えもありますが、なかなか人は付いてこないですよね…。
参考文献・サイト
"世界史リブレット 現代イスラーム思想の源流" 飯塚正人
"Alevism" HAVARD DIVINITY SCHOOL -Religious Literacy Project
"ʿAlawite" Encyclopedia Britanica
"Druze" Encyclopedia Britanica