極寒の地への冒険の歴史
地球にある6大陸のうち、もっとも人間の開発が及んでいない大陸。
言わずもがな、南極です。
各国の研究機関の基地に駐在する研究員の他は、有閑観光客以外はほとんど訪れない秘境中の秘境。地球に残る最後のフロンティア。
そんな南極の歴史は、冒険野郎の命がけの探検の歴史であります。
今回はあつい夏にぴったりの、涼しすぎる南極の歴史です。
1. 未知の大陸の存在の予言
南の未知の大陸
古代ギリシアの時代から、はるか南にある陸地の存在は哲学者や科学者によって予言されていました。
伝聞があったのではなく単なる予言で、
「北極と南極には同じだけの大きさの陸地があって、この世界のバランスをとっているはずだ」
というもの。
ヨーロッパ人が船で初めて赤道を超えたのが1473年、ポルトガル人のロペス・ゴンザレスの航海によってで、ヨーロッパ人はこの時初めて、自分たちが結構北の方に住んでいることを知ったわけです。
であれば、南にはもっと大陸が存在しているのでは?と推測されるようになります。
その後1487年、バルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達。1520年、マゼランがマゼラン海峡を通過。これにより南の未知の大陸とアフリカ大陸&南米大陸は繋がっていないことが証明され、ヨーロッパ人は「まだ見ぬ南の大陸を」Antártidaと呼ぶようになりました。
南へ南へ
オーストラリアが発見されたのは、1606年スペイン人ペドロ・フェルナンデス・キ・ロスによってです(諸説あり)。
その後1642年オランダ人アベル・タスマンによって、タスマニア海峡が発見されました。タスマンはさらに南に向かい、氷に閉ざされた海域に到達しますが、南極大陸に足を踏み入れるまで行くことはできませんでした。
1774年に南極圏を探検したジェームス・クックも、南緯60度線まで到達しますがその先へは進めず、「もし仮にこれより先に大陸があったとしても、氷と雪に閉ざされてアクセス不能だし、何より経済的価値は皆無である」と結論づけました。
2. 南極大陸の発見
南極大陸の発見
南極大陸が発見されたのは1820年のこと。
しかし、その第一発見者が誰かは議論があり、未だに確定していません。数日〜数ヶ月の間に複数の人物によって発見されたためで、誰が1番最初になるかがあまりはっきりしないためです。
候補者の1人目は、ロシア帝国海軍の軍人ベリングスハウゼン。
2人目はイギリス海軍の軍人エドワード・ブランスフィールド。
3人目はアメリカ人アザラシ漁師のナサニエル・パーマー。
アフリカ南部から近づいたベリングスハウゼンは1820年1月28日にフィンブル・アイス・シェルに到達。
1月30日にはブランスフィールドが大西洋側のトリニティ半島に到達。
パーマーはトリニティ半島南部に1820年11月に到達しました。
日付が本当に正確か?
彼らが到着した場所は島や氷河ではなくて本当に「大陸」だったのか?
などがよく分からんからきっと議論になっているんでしょう。
南極への初上陸
南極に初めて上陸したと言われているのが、アメリカ人船乗りのジョン・デイビスという男で、1821年2月7日のことです。
ところがこれもまた異論反論があるのだそうです。彼が到達したのは本当に大陸だったのかという点で。そこまで行ってんだからもういいじゃんって気もしますけど…
その後は怒濤のように様々な探検家たちが南極大陸各地に上陸していきます。
1821年12月には先述のアザラシ漁師ナサニエル・パーマーが南極半島に上陸。
1823年イギリス人船乗りのジェイムス・ウェッデルがウェッデル海に到達。
1840年アメリカ海軍のチャールズ・ウェイクスがウェイクス島を発見。
1853年にアメリカ人漁師のメルカトル・クーパーがヴィクトリア・ランドの東南極地帯に到達。
…と言われても全然場所がピンとこないので、この他にもいっぱいありますが、ざっくり割愛いたします。
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3. 大南極探索時代
19世紀末から大南極探検時代に突入するのですが、元はといえばイギリスのジョン・マレー卿が王立地理学会で「南の地理を知るために組織的な探検が必要だ」と述べたように、地理学・気象学などの学術的な観点での要望が始まりでした。
それに「人類未達の偉業に挑む」という言葉に血がたぎる冒険野郎がプロジェクトを主導し、次第に国家も乗っかっていくようになります。
南極大陸での領有権の主張と、冒険者・命がけの男たちの冒険を喧伝し、国威発揚・ナショナリズムの高揚を大いにかきたたせる役割がありました。
合計で10カ国から17の探検隊が派遣されました。以下はその一部の探検の概要です。
3-1. ベルギー南極遠征隊(1897-1899)
南極探検時代の先鞭をつけたのはベルギーでした。
ベルギー海軍の士官アドリエン・ド・ジェルラシは、正確な南極地図の作成を目指して、地理学者らと共に南極探検に向かうべく準備に奔走します。しかしベルギー政府の援助はほとんど受けられず、多くの資金を自力調達しました。
ジェラルシ隊は世界で初めて南極での越冬に成功し、年間を通じた気象の記録を残しました。また隊は南緯71度30分まで達し、新たに海峡を発見。ジェラルシ海峡と名付けられました。
3−2. イギリス・サザンクロス遠征(1898-1900)
Source from Cropped and pasted from Hugh Robert Mill (1861–1950): The Siege of the South Pole, Alston Rivers, London 1905
サザンクロス遠征は、後に南極点を目指すことになるスコット隊など数々の隊を送り出すことになるイギリスの初めての遠征でした。
隊長のカルステン・ボルクグレヴィンクの父はノルウェー人で、ノルウェーの生まれ。隊のメンバーも大半が外国人で、「イギリス人の隊ではない」として資金調達は困難を極めました。
資金の大部分は雑誌出版社ジョージ・ニューネス卿が独自に出したもので、条件は「イギリス国旗をかかげていくこと」でした。
ボルクグレビンク隊は探検に初めてソリとイヌを持ち込み、ロス海海岸線のケープアデアで越冬。この地でいくつもの科学実験を行いました。
しかし持ち帰ったデータの量が期待より少なく、かつ目立った偉業も少なかったためすぐに忘れ去られてしまいました。
3-3. イギリス・ディスカバリー遠征(1901-1904)
Cropped from a photograph published in H.R. Mill: The Siege of the South Pole, Alston Rivers, London 1905)
この遠征は王立協会と王立地理学会が組織した「イギリス初の公式遠征」で、目的は「南極の自然・状態・範囲を見極めること」「南緯40度以南の地磁気を調べ、気象学・海洋学・地質学・生物学・物理学の調査と研究を行うこと」。
この時点では南極点への到達は最終目的に入っておらず、ロバート・スコット、アーネスト・シャクルトンらが率いた隊は4年間の遠征で地質学・動物学・地理学に大きな功績を残しました。
この遠征でも犬ぞりやスキーは使われていたものの習熟した者は少なく、スコット自身が人力による運搬を好み、効率よく雪上を動く技術の習得を軽視したため、これは後のスコット隊の悲劇にも繋がっていくことになります。
3-4. フランス・シャルコー隊遠征(1903-1905)
フランスは過去2度の南極への探検の実績がありました。
1回目はルイ15世治政下の1772年にブリトン人探検家イヴ・ジョゼフ・ド・ケルゲレーヌトレマレクによる探検。
2回目は1837年〜1840年のジュール・デュ・モンデュルビルによる南半球探検。
2回目では、モンデュルビルは南極大陸の沖合4キロまで近づき、動物のサンプルの採取などを行いましたが、本土への上陸までは行えませんでした。
3回目の探検の隊長はジャン=バティスト・シャルコー。
隊は南極半島沿いに航海をし、小さな半島と内湾を探検家ジョン・ビスコーにちなんでビスコー半島とビスコー湾と命名。
また未到達だった海岸を探検し、フランス大統領エミール・ルベにちなんでルベ海岸と名付けました。
3-5. イギリス・二ムロド遠征(1907-1909)
アイルランド生まれの冒険家アーネスト・シャクルトンは、スコット隊のディスカバリー遠征に参加した経歴のある根っからの冒険野郎で、帰国後に個人的に資金を集めて遠征隊を組織。1907年に本当に南極遠征に出かけてしまいました。
シャクルトンが目指したのはズバリ「南極点の到達」。
資金も乏しく、人員も経験がなかったためこの目標は到達できませんでしたが、当時の最南端南緯88度23分に到達(南極点まであと180km)し、イギリスの領有を宣言。
またシャクルトンが採用したポニー、モーター、犬ぞりを組み合わせた輸送は革新的で、後のスコット隊もシャクルトン隊のやり方を真似たそうです。
帰国したシャクルトンは大衆の英雄になり、国王からナイトの爵位を得ました。
3-6. 日本・白瀬探検隊遠征(1910-1912)
画像出典元:毎日新聞社「昭和史第3巻 昭和前史・日露戦争」
初の非ヨーロッパ国から南極探検隊を派遣したのは日本で、隊長は陸軍軍人・白瀬轟。
幼い頃から探検家を志し、北極点到達を夢見てまずは1893年に樺太・千島列島探検に参加。その後日露戦争に従軍しますが、1909年にかねての夢だった北極点到達をアメリカ人ロバート・ピアリーが達成してしまいました。
画像出典元:明治の夢工房 潮出版社 1956年
そこで白瀬は南極点到達を目指す競争に参加することを決意。
1910年11月に開南丸に搭乗し南を目指しますが、途上でほとんどのイヌが死亡したり、隊員同士のいざこざが相次ぐ。1911年に2月に南極大陸に到達しようとしますが、氷に阻まれる危険がありシドニーに入港。その後11月に南極に向けて出港し翌1912年1月26日に上陸しますが、その時には既にアムンセン隊が既に南極点に到達していました。
上陸後、白瀬隊はクジラ湾から再上陸しますが既に南極点到達を断念し、南緯80度5分・西経165度37分を「大和雪原」と名付けて日本の領有を宣言し帰国しました。
ところが後にそこは大陸ではなく単に棚氷ではなかったことが判明し、第二次世界大戦後の日本政府の領有権放棄もあり、領有宣言自体が無効となっています。
3-7. ノルウェー・アムンセン隊遠征(1910-1912)
初めて南極点に到達したのは、史上名高いノルウェーのロアール・アムンセン隊。
もともとアムンセンは北極点到達を目指しており、スウェーデン=ノルウェー国王からの後援もそれを前提にしたものでした。地理的な近さや国の経済や軍事的面から考えると妥当な考えであります。
ところが北極点到達のための資金・計画・人員確保を行っていた1909年9月、アメリカ人クックとピアリーの北極点到達のニュースが飛び込んできます。
この時点でアムンセンは計画を南極点到達に切り替えたようですが、変更を発表すると資金の出所から反対の声があるかもしれない。ということで「北極へ行く前に南極に立ち寄る」という大ウソをついて南極に向けて出発したのでした。搭乗員すら、目的地が南極であることを知らなかったそうです。
最初のシーズンはクジラ湾にアタックのためのベースキャンプを作り、食料や燃料の確保に充て、翌1911年9月から南極点に向けて犬ぞりを走らせました。
アムンセンのノルウェー人隊員たちはスキーや犬ぞりの技術に長けており、口々に「イギリス人がなぜイヌを好まないのか理解できぬ」と言っていたそうです。
イヌは雪上での重要な足であり、また人間やイヌ自身の食料にもなったため、非常に便利なのです。
アムンセン隊は途中負傷したイヌたちを食べながら苦しい探検を続け、ついに1911年12月14日、南極点の近辺に到達。「ノルウェー王ホーコン7世の台地」と名付けてノルウエーの国旗を立てました。
1912年1月30日にはクジラ湾を撤収して3月7日にオーストラリア・タスマニアに上陸。スコット隊がまだ南極点に到達していないことを確認すると、ホーコン国王に電報を送りました。ノルウェー国内は歓喜に沸き、国王も世界初の偉業を大いに喜んだといいます。
3-6. イギリス・テラノバ遠征(1910-1912)
アムンセン隊と南極点の到達を競ったスコット隊として有名ですが、主目的は科学実験と標本最終にありました。
スコットは南極点到達を強く望んでいましたが、それだけだと説得性が薄く「あくまで科学の進歩を前提にしたもので、南極点到達は副次的である」とすることで資金がようやく集まったのでした。合理性を重視するイギリス人らしいエピソードです。
1911年1月に南極に上陸し、8ヶ月間を翌春に始める南極点へのアタックへの準備とともに各種の科学実験に時間を費やしました。
1911年9月からスコットが南極点到達計画を発表。当初の予定ではモーターとポニー、イヌ、そして人力の組み合わせで荷を運搬する予定でしたが、ポニーはすぐに死に、またモーターもすぐに故障して使えなくなったため、イヌの力に多くを頼ることになりました。
1912年1月17日に隊はとうとう南極点に達しますが、この地には34日前にすでに到達したアムンセン隊がたてた旗と点とが残されており、スコットは遅れをとったことを知ったのでした。
ところが帰還中の3月上旬に悪天候に見舞われ、食料も燃料も底を尽き1912年3月29日を最後に日記が途絶えています。
我々は最後まで耐え抜くが、体が弱りつつあり最後の時もそう遠くはないだろう。残念だが、これ以上書き続けることができない。
最後に、どうか我々の家族のことを頼む。
3-8. イギリス・帝国南極横断探検隊(1914-1917)
スコット隊の敗北と遭難は、当時の覇権国イギリスのプライドをいたく傷付けました。
名誉挽回のため、英雄アーネスト・シャクルトンが担ぎ出され「南極大陸の横断」という前人未到の偉業に挑もうとしました。
シャクルトン一行は1914年8月にエンデュアランス号に乗り込み、ブエノスアイレスに寄港した後、サウス・ジョージア島のグリトビケンを訪れ、12月5日に南極大陸に向けて出発しました。
しかし1月に入って航路を氷に阻まれ、船が前身しなくなってしまう。
とうとう船は氷にガッチリ固定され、乗組員は船を降りざるを得なくなる。そして11月にエンデュアランス号は浸水し海の底に沈んでいったのでした。
船を亡くしたことによって補給が困難になったため、 シャクルトンは南極横断の計画を断念し、帰国するためにエレファント島を目指して救命艇で脱出したのでした。
6. 南極は誰のものだ
Workd by Alakasam.
1908年にシャクルトンが初めて到達地帯のイギリスの領有を宣言して以降、各国が競って南極の「領有化」を宣言しました。
Worked by Lokal_Profil
もし将来技術の発展により南極に人が住める状態になると、領土獲得競争が戦争に発展することも充分にありえるとして、1957年から1959年にかけて国際会議が開かれ、「南極条約」が制定されました。
この条約では「南極の軍事利用の禁止」「南極の領土主権の凍結」「南極の科学的調査の自由と国際協力」が決められました。
領有権の主張はあくまで「凍結」であって、「放棄」されたわけではありません。
現在のところ南極条約は50カ国の国に締結され、日本を含む28カ国が南極に基地を設けて定期的な学術調査を実施しています。
南極基地の一覧はこちらにリスト化されています。
まとめ
人類未踏の偉業を成し遂げるために命を投げ打った男たちの情熱と、学術研究に生涯を捧げた科学者。そして国威発揚と領土の拡大を目指す国家。
清濁混合した人間の熱き思いが南極の冒険と開拓の歴史を進めてきました。
今後科学の進歩で、人間が南極の地に住むことができる可能性も充分にあります。
その時、南極の地が領土を巡る戦争の地にならないことを祈るのみです。
参考文献
Antarctic History - A Time Line of the Exploration of Antarctica, Cool Antarctica
History of Antarctica - Wikipedia, the free encyclopedia
Heroic Age of Antarctic Exploration - Wikipedia, the free encyclopedia
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