激しかった日本への抵抗運動
第二次世界大戦前後はファシスト政党や民族主義団体が勃興した時代でしたが、
一方で反ファシズム・反帝国主義の運動も盛んだった時代です。反日レジスタンス勢力も無視できないほど多かった。
左派リベラルの声が強かった時代は、これらの抵抗運動は過剰評価されている節もあったと思いますが、逆に今は過小評価されている気もします。
ということで、今回は第二次大戦中の反日レジスタンス運動を7つ紹介します。
1. フクバラハップ(フィリピン)
引用:historyblacknwhite.yolasite.com
農村を拠点にゲリラ戦を展開
フィリピンのルソン島で結成された反日組織。
フィリピン共産党のルイス・タルクを指導者に、農村を拠点にゲリラ戦を展開。日本軍を散々苦しめました。
米軍のフィリピン上陸作戦にあたっては、フクバラハップは米軍と緊密に連携を取り日本軍の掃討作戦を担ったようです。
そもそもの母体が貧農救済組織で、指導者も共産党であったため、一貫して農民の立場からの反体制抵抗運動を展開。
そのため、独立後に土地改革などの農民運動が盛んになると勢力を増し、一時は政府転覆を図るほど勢いをつけますが、
フィリピン政府によって徹底的に弾圧され、1950年代に壊滅しました。
2. ベトミン(ベトナム)
反帝国主義・共産主義
正式にはベトナム独立同盟会と言い、1941年にインドシナ共産党のホー・チ・ミンを主席にして設立されました。
ベトナムの地場勢力の中には日本軍に協力する団体もありましたが、ベトミンは共産主義の立場から日本へのゲリラ的な抵抗運動を展開。
1944年、ベトナム北部で大規模な不作が起こりましたが、日本軍は考慮せずに厳しい食料の徴発を行ったため、大量の餓死者が出る事態に。
ベトミンは日本軍の食料庫を奇襲し強奪。民衆に配分します。
現在のベトナム共和国の母体となる
1945年、日本軍は明号作戦を発令。
フランス軍を攻撃し降伏させ、国王バオ・ダイをたてて独立宣言をし、「ベトナム帝国」を樹立させます。
独立させたものの、日本は既存のフランスの統治機構や官僚をそのまま温存したため、ベトミンは「ベトナム人による政府」の樹立を目指して抵抗運動を続けました。
日本降伏後はフランスからの独立戦争に突入(インドシナ戦争)。
ゲリラ戦を駆使してフランスを追い出し、ベトナム民主共和国を樹立しました。
3. 自由タイ(タイ)
日本の同盟国・タイにあった地下抵抗組織
第二次世界大戦中、タイ王国は日本の同盟国でした。
開戦当初は積極的に日本軍に協力し、1942年1月に連合軍に宣戦布告。
駐米タイ大使であった、セーニー・プラーモートはこれに反発し、アメリカ政府と図って対日抵抗組織である自由タイ運動を展開。
アメリカやイギリスで学んでいたタイ人留学生を組織してバンコクに送り、諜報活動に当たらせました。
戦後処理にあたって、連合軍は自由タイの貢献を認めたので、かろうじてタイは枢軸国として扱われるのを免れたのでした。
4. マラヤ人民抗日軍(マレーシア)
引用:sgfilmhunter.files.wordpress.com
中国共産党の衛星組織
英領マラヤで結成されたマラヤ共産党の軍事部門。
マラヤと名乗っているものの構成員の大部分は華僑で、また組織自体も中国共産党の影響下にありました。
第二次大戦が勃発してマラヤから英軍が蹴散らされると、抗日軍はマレー半島でゲリラ活動を展開します。
しかし食料や武器の調達にも事欠き、英軍とコンタクトを取って潜水艦で物資を届けてもらおうとしますが実現せず。
結局ジャングルに入って自給自足をしながら時たま戦う、のような活動をしていましが、日本軍の追い打ちにあい、さらに山岳地帯に逃げ込んだところで終戦を迎えました。
戦後は非合法化され、弾圧を受けて1960年に活動を停止しました。
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5. 抗日華橋義勇戦闘隊(シンガポール)
引用:xinguozhi.files.wordpress.com
英軍主導で作られた、華僑の義勇軍
戦前からシンガポールは、マレー人やインド人も住んでいましたが、華僑の割合が最も高い地域でした。
日本軍がインドシナやタイへの介入を深めた1940年、シンガポールのイギリス人は華僑に呼びかけて抗日義勇軍を組織。
太平洋戦争が始まり、1942年1月13日からシンガポールは日本軍の攻撃を受けます。
義勇軍も英軍やオーストラリア軍と共に戦いますが、わずか半月でシンガポールは陥落。
義勇軍も解散させられ、義勇軍を指導した華僑は逮捕されたり、組織的に日本軍によって虐殺されました(シンガポール華僑虐殺事件)。
被害者の数は6000人〜4万人まで様々に言われています。
虐殺の理由は、もちろん抵抗運動の鎮圧もありますが、おそらく華僑の財産を差し押さえる狙いがあったのだろうと思います。
一部はマレー半島に脱出し、マラヤ人民抗日軍に合流したらしいです。
6. 東北抗日連軍(中国・朝鮮)
満州で活動した共産党系の抵抗組織
満州には、様々な抗日組織が割拠していましたが、
共産党系の東北人民革命軍が主体になって、中国人・朝鮮人・右派・左派を問わず抗日組織を吸収合併してできたのが東北抗日連軍。
第一軍〜三軍の中に13個の師団があり、満州各地に散らばって抵抗運動を繰り広げました。
朝鮮人部隊は現在の北朝鮮の母体に
散発的にゲリラ攻撃を行ったものの、日本軍と満州国軍の討伐にあったりメンバーが逮捕されたりして、多くの場合ソ連領内に逃げ込んでいます。
その中で活躍をしたのが、第二軍の指揮官だった金日成。
朝鮮領内の小さな町・普天堡の略奪と焼き討ちに成功して名を馳せます。
その後、1940年3月25日、前田武一が率いる討伐部隊140人のうち120人を壊滅せしめることに成功。
しかしその後、金日成の捕獲を目的とした討伐隊が強化されたため、物資が欠乏し金日成もソ連に逃げ込んでいます。
日本の敗戦後、「満州で活躍する朝鮮人部隊長」として既に名高かった金日成は、
ソ連のお墨付きで朝鮮北部に朝鮮民主主義人民共和国を建国しました。
7. 縮れ毛の天使たち(パプアニューギニア)
オーストラリア軍を助けたニューギニア原住民
縮れ毛の天使たち(Fuzzy Wuzzy Angels)は、特にそのような組織があったわけではありませんが、オーストラリア軍に協力したニューギニア原住民のことを指していいます。
日本軍がニューギニア島に上陸すると、オーストラリア軍は北部のブナからココダに撤退。その道のりは何と160キロ。
負傷兵の撤退は不可能に思えましたが、それを助けたのが原住民。
原住民は負傷兵を抱え、武器の運搬、食料の調達、斥候などを行い、無事にココダに送り届けたのでした。
まとめ
今回は反日レジスタンス運動について見てきましたが、みんながみんな日本に抵抗したわけではないです。日本に便乗してトクをしたやつもいっぱいいました。
現象を面で捉えると、
様々な政治的・経済的・思想的立場から、多種多様な集団や人が、日本が起こした太平洋戦争を利用しようとして、有象無象動き回った。
冷徹に言ってしまうとこれだけで、その結果、大量殺戮が起きたり、財産が一瞬でふっとんだり、逆に特需で大儲けしたり、失脚したり権力握ったり、いろいろなことが起きた。
立体的に見ると、なにが原因だったのかが見えてきます。組織や制度が原因か、技術が原因か、知識や経験、文化風習が原因か。
物事の良し悪しは立体的に見て、現在言える理想の状態から鑑み、結果的にどうだったかを判断するため、1つの出来事だけ見ても、個人・組織・時代・分野、それぞれで異なる結果が出る。
理想を言うと、過去の歴史が良かったか悪かったはそこまで考えた上で言うべきだと思うのですよね。
そうなると収集がつかないんですが。