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日本軍政下でのインドネシア独立準備の過程

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決断と行動が遅い日本、急ぐインドネシア

インドネシアは太平洋戦争の日本敗戦のわずか2日後、1945年8月17日に独立宣言を発表しました。

その後植民地再獲得を目論むオランダとの戦争、地方勢力や共産ゲリラとの内戦を経て、連邦共和国として独立を果たしたのは1948年のことです。

スカルノやハッタといった独立運動家を中心に組織的に独立戦争を戦い抜けたのは、日本軍政下で独立に向けた準備をおおよそ終えていたからなのですが、日本がこれに積極的に協力したからということではなさそうです。

インドネシア側の粘り強い交渉と努力により、腰の重い日本を動かし、時には無視する形で独立準備を進めていったのでした。

 

1. インドネシアの帝国編入論

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日本軍のプロパガンダ

日本軍はオランダ領東インド(後のインドネシア)に侵攻するにあたって、

「日本はインドネシアをオランダの圧政から解放するためにやってきた」

という内容の宣伝工作をマレー語のラジオ放送を使って実施しました。

毎回放送の冒頭にはオランダ時代に放送が禁止されていた愛国歌「インドネシア・ラヤ」を流し、人々の愛国心を掻き立てました。

また、日本軍はジャワで広く語り継がれる予言「ジョヨボヨの予言」もプロパガンダに取り入れました。

予言では「黄色い羽根のチビの雄鶏」がやってきてオランダを追い出し、「とうもろこしが育ち実る三年間後にジャワは独立する」と書いてあるとされており、信心深いジャワの人々は日本軍は神が遣わせた軍である、と思い込んだのでした。

 

「大東亜共栄圏を共に作るべし」

ところが日本軍は占領を完了すると、布告四号で「民族歌や民族旗の使用を禁止」し、布告二十三号で「いっさいの政治活動を禁止」してしまいます。

活動が許されたのはスカルノら日本軍に協力的な独立運動家のみ。

「共に戦い大東亜共栄圏を建設するべし」のような宣伝のみが住民に説明されるのみでした。

アジアから欧米を駆逐し、アジア人のためのアジアを構築する。

日本が武器を取ったのは、この大東亜共栄圏のためであり、この戦争に敗れればアジアの民族は再び奴隷になってしまう。

そのため諸君らは戦争に協力し、共に責任を果たさねばならないのである。

このような言説がなされますが、ここではインドネシアの独立や民族の解放などは一言も言っておらず、さも日本とインドネシアが運命共同体かのように伝えることで、インドネシアの人々にも利があるかのように思わせ、戦争協力を促したのでした。

そして「大東亜共栄圏構築」の手段として日本語や日本的価値観の教育が行われ、規律や自己犠牲の精神、質素倹約、勤勉、頑張る精神などなどの倫理観が強調されました。

それに加えて1943年5月、御前会議でインドネシア、英領マラヤ、英領ボルネオ、シンガポールは「帝国領土」とするという方針が密かに決定。

実際に1943年11月に開催されアジア民族の自決と独立が高らかに謳われた「大東亜会議」には、インドネシアやマラヤの指導者は参加を許されず、中国、満州国、フィリピン、タイ、ビルマ、インドといった国々の指導者のみで催されたのでした。

 大アジアの美名の元で日本への戦争協力を求められるばかりで、スカルノら独立運動家からするとインドネシア独立に向けた取り組みが一向に見えて来ず、日本に対する不満が高まっていきました。

 

2. 独立準備作業の加速

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遅い日本側の対応

1943年後半から戦況が悪化。

食料や物資、人員の調達が厳しくなり生活が困窮するようになると、インドネシア人の日本に対する期待は幻滅へと変わっていきました。

インドネシアの人々の人心を回復する必要に迫られた小磯国昭首相は、1943年9月に「東インドに将来独立を許容する」と発表することになります。

この発表にスカルノは大いに感激し、山本軍政監と抱き合うほどだったそうですが、この発表は「とりあえず言っただけ」であり、どの地域がどのような形で独立が許容され、誰がどのようなプロセスを経ていつ独立するかの見通しが全く見えないものでした。

実際、小磯発表以降具体的な施策は何も進展しないまま時間だけが過ぎていきます。

日本側は「独立準備には時間が必要」と言うも、スカルノはイラ立ち度々山本軍政監に「今すぐ独立に向けた準備が必要だ」と訴え続けました。

情報統制下にあっても日本軍が各地で負け続けているニュースは伝わってきていたし、もしオランダが戻ってきたら次独立のチャンスはいつになるか分からない。一刻も早い独立準備が必要ということでインドネシアの独立運動家は一致していました。

進展があったのは小磯発表から半年後の1945年3月、日本軍政開始3周年の日に「独立準備調査会」が発足されました。

海軍や陸軍第二十五軍の反対が根強い中、原田熊吉司令官の独断で発足したのだそうです。

 

独立準備調査会の会合開催までの道のり

調査会の発足が認められたからといってすぐに調査会が発足したわけではありませんでした。

まず軍政監のインドネシア人参与からなる参与会議という諮問機関が設立され、そこで「独立準備調査会の組織体とのあり方」について討議がなされました。そこでまとめられた提案に基づき、4月29日に軍政監告二十三号「独立準備調査会設立の諸原則」が出され、委員会のメンバーが正式に決定されました。そのメンバーは参与会議のメンバーに加えて若干の中国人、アラブ人、混血人も加わり、日本人7名が特別委員として参加し、民族主義者や女性の参加も認められました。次いで5月20日に調査会の発足会が南方各占領地の総務部会で承認され、5月28日に発足会を開催し、29日に第一回目の会合が召集されました。

本当に日本の組織の「決定も実行も時間がかかる」のは、今も昔も全く変わっていませんね…。

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3. 独立宣言へ

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 超速の独立準備

日本側が独立準備調査会に期待したことは、

「来るべきインドネシア国家の独立準備のために何が必要かを調査する」

というレベルのものでしたが、独立準備調査会は日本側の意図とは全く異なり、

「独立国家の大東亜共栄圏の中での位置付け、国家の形態、国家の特色、宗教と国家の関係、国籍条件、国家の領域」

といった国を作る上での重要課題を、ことごとく超スピードで審議し、次々と多数決で決定していきました。

日本人の特別委員はほぼ口を挟むことができず、最終的には軍政監も完全に置いてけぼりにされていったそうです。

 

日本側は「独立準備には数年はかかる」と考えていましたが、調査会のメンバーは

「まずは独立をし、その後に内容を整備すべきだ」

という意見で一致しており、スカルノも

「家庭を持つのに応接間のセットも必要だ、ラジオも必要だというようなもので、我々としては筵(むしろ)さえあれば家庭を作れるのだ」

と語っており、日本の敗戦が間近に迫っていることを知って焦っていたインドネシア人はとにかくまず独立宣言をすることを目標にとにかく急いだのでした。

議長のラジマンも、何か審議を議論した後は「直ちに決をとりましょう」とせかし、誰かが議論が不十分と苦情を言っても「直ちに決をとりましょう」と言うのみだったそうです。

 

インドネシア独立宣言

独立調査委員会は、日本が数年かかると言っていた独立準備をわずか7週間で成し遂げてしまいました。

8月11日、すべての準備を終えたスカルノは南方軍司令部のあったベトナムに赴き寺内司令官と会談した後、8月14日にジャワに戻りました。

ところがその翌日に日本がポツダム宣言を受諾し降伏してしまったのです。

後数ヶ月は大丈夫と思っていたスカルノは飛び上がるほど驚いたそうですが、全ての準備はすでに整っていたため、8月17日に日本軍とは関係なしに、自らの判断で独立を宣言しました。

9月末にイギリス軍、次いでオランダが再上陸し

「圧政の時代は終わった。我々は君たちを救いに来たのだ!」

と宣伝しました。

しかし民衆の側も長く続いた日本の「反オランダ」「大アジア構築」教育で自尊心を高めており、このようなプロパガンダを喜ぶ民衆は多くありませんでした。

独立戦争を戦い共和国政府を作る準備が整ったわけですが、その裏にはインドネシアの独立運動家たちの「今すぐ独立を!」を求める努力があったのでした。

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まとめ

日本軍はインドネシアの独立に大きな貢献をした、という言説は根強いです。

確かに、日本軍主導で結成された防衛義勇軍が独立戦争で大きな役割を果たしたこと、また日本人の将兵も残留し共に独立戦争を戦ったこと、 民衆教育により反オランダ感情とアジア人意識が高まったこと、などはあります。

ただしこれはあくまで多大なインパクトをもたらした「戦争」の様々な現象一つの側面でしかなく、それを取り上げてことさら評価するのは極めて不健康だと思います。

それに現代の日本人も、原理原則論にとらわれて独立準備をノロノロと進めようとする昔の日本人とちっとも変わらないじゃないじゃありませんか。

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参考文献

岩波講座 世界歴史24 解放の光と影 "大東亜共栄圏と戦争責任" 倉沢愛子