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「明るい北朝鮮」ことシンガポールの歴史

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自由な独裁国家・シンガポール

シンガポールといえば、アジアの経済発展の象徴とも言える国です。 

2013年の1人あたりのGDPは世界8位で、アメリカをも上回る。(ちなみに日本は24位)

国際的なハブ空港を備え、空路のアクセスは抜群。東南アジア・中国・日本も近く、アジアのビジネス・ヘッドクォーターとして躍進を続けています。 

そんなシンガポールですが、事実上の独裁国家であることは有名です。

人々の自由な往来、新たな文化の発信、ビジネスの発展の裏で、反体制をことごとく潰しにかかる恐ろしい独裁体制を皮肉って、

「明るい北朝鮮」などと揶揄されることもあります。

今回はシンガポールが独裁体制になるに至った、ブラックな歴史を紹介します。

 

「明るい北朝鮮」と揶揄されているワケ

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実質的な一党独裁

シンガポールは人民行動党の事実上の一党独裁体制が続いており、野党も存在するものの、その影響力は削がれており、「開発独裁国家」の典型と言われています。

21歳以上の男女に選挙権があるものの、ほとんど形式的なものにすぎません。

その割には、選挙に行かないと選挙権を剥奪されたり、罰金があったりなど、厳しいペナルティがあります。

しかも、政府批判をしたら国外退去デモは一切禁止など、国民の政治関与がほぼ禁じられています。

厳しい死刑制度

世界の国の中でも、かなり厳しい死刑制度を持っています。

特に麻薬関連に厳しく、モルヒネ・コカイン・ヘロインなど十数グラム持っていただけで即、死刑

人口1人あたりの死刑囚の数は、世界で最も多いそうです。

※中国やサウジアラビアなど、死刑囚の数が公開されていない国を除く

ホモは犯罪(ただし女性を除く)

同性愛は犯罪で、最長で2年間の服役とむち打ちの刑に処せられます。 

女性同士は法律上は問題ありませんが、社会的に叩きのめされるようです。

国民は不満を言わないのか?

シンガポール人に聞いたわけでないので本当のところは分かりませんが、

実際のところ政府は、独裁とはいえシンガポールを世界に冠たる経済大国に押し上げることに成功。

国民はその経済的恩恵を多大に被っているので、多少の不満には口をつぐんでいるというのが実際に近いようです。

ではなぜこのような独裁体制になったのか。その歴史を紐解いていきましょう。

 

イギリス直轄領・シンガポール島

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マレー半島の自由貿易港として発展

シンガポールはもともと、英領マラヤの一部でした。

マレー半島では天然ゴムなどの林産品が採れたため、シンガポールは物産の集積地と貿易港として栄えました。 

 イギリスはマレー半島は土着の豪族を通じて間接統治しましたが、重要な港であるシンガポール、ペナン、マラッカは、自由貿易港として直接統治を行いました。

住民の多数派を占めた華僑

シンガポールに住んだのは、イギリス統治時代から華僑の割合が多かったようです。

ただし、福建省出身、広東省出身、江西省出身など出身地がバラバラでそれぞれの意思疎通も難しかったため、出身地ごとに同郷コミュニティを形成させ、異なる地区に住まわせました。

英語派華僑 と 中国語派華僑

当時、華僑の約9割は1世や2世で中国語しか話さず、自分たちを中国人だと強く意識していました。(華語派)

一方で約1割の3〜4世はマレー語や英語を話し、マラヤ出身者という意識の方が強くありました。(英語派)

この1割の華僑は、植民地政府の職員になったり、商社の社員となって働き、イギリスのマラヤ統治に協力しました。

 

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リー・クアン・ユー、マラヤ連邦への統合を主張

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英領マラヤ連邦成立

第二次世界大戦後、マレー人の間で独立運動が盛んになり、 1948年にマラヤはマラヤ連邦としてイギリスの統治下で半独立。

華僑の多くは中国本土の国共内戦に夢中で、自分たちが住むシンガポールの政治には無関心だったのですが、中国共産党が内戦に勝利すると、

「シンガポールにも社会主義の国を作って、中国と連携して、オレたちが美味しい汁を吸えるようにしようぜ!」

と考え始めます。

 左派政党・人民行動党

1954年、華語派を中心に「人民行動党(PAP)」が成立。

幹事長のリー・クアン・ユーは英語派の華僑でしたが、国家社会主義的な国家像を理想とし、左派の支持者が多い華語派の住民の支持を受けようとしました。

PAPは57年の選挙で第一党になり、59年にはリーはシンガポール自治州の首相に就任します。

マラヤ連邦との統合を目指す 

リーはシンガポールは単独では独立できず、必ずマラヤと一緒に独立する必要がある、と考えました。その理由としては、

  • シンガポールは国としては小さすぎる
  • マラヤと経済的に切り離せない
  • 水も食料もマレーシアに依存している

 といったものでしたが、左派の華僑は強く反発。

PAPの左派は独立してバリサン・ソシリアス(社会主義戦線)を結成します。

マラヤ・シンガポール合併協議 

61年、マラヤ連邦のラーマン首相とリーは合併に向けた協議を開始。

ところが仮に合併すると、連邦のはマレー人42%に対し、華僑45%と、華僑が人口比で上回ってしまう。

マラヤのラーマン首相は、

「平等に議席を割り当てると、マレーシアは中国人に乗っ取られてしまう」

として、下院の議席の10%未満しか割当てないことを主張。

これにバリサンは反発しますが、リーは反対派を弾圧。

強制的にマレーシア連邦の結成を進め、8/31に合併で合意します。

シンガポール独立、すぐにマレーシアに併合

ところが、隣国に強力な政府が成立することを恐れたインドネシアが妨害。

「本当に住民はマレーシアへの帰属を望んでいるのか」の国連査察が入ることになり、マレーシア結成は急遽9/16に延期になってしまいます。

「このままでは合併反対者が勢いづき、連邦結成自体がご破産になる」

と恐れたリーは、奥の手を使うことに。

 シンガポール単体で勝手に「独立宣言」をして、内外の批判を黙らせた上で、マレーシアに併合してもらおう!作戦

 そして8/31に勝手にイギリスから独立を宣言。予定通り、9/16にマレーシア連邦の一部となったのでした。

 

リー・クアン・ユー、華語派を大弾圧

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左派を締め上げて国論の統一化を図る

色々なハンディキャップを与えたのに、マレー人国家の中に多数の華僑を抱え込むのは難しかったのでしょう。 

2年後、シンガポールはマレーシア連邦から追放され、結局単独で独立することになってしまいます。

もともとシンガポールの独立を主張していたはずのバリサンは、

今度は「ニセ国家のニセ独立に反対する」として全員が辞職

81年の選挙では、PAPの議員が無投票当選し国会はPAPによって独占されることになります。

華僑コミュニティの破壊

一党独裁を獲得したリー政権は、華語の不満分子の根絶を目指し、

  • 中国語授業を行う学校の廃止
  • 中国語新聞の国有化

を進め、教育とメディアから華語の閉め出しを図ります。

一方で、華語普及運動(スピーク・マンダリン・キャンペーン)を展開し、華語は北京語に統一。

広東語などの方言を一切禁止することで、華語派のコミュニティであった在郷コミュニティを破壊

在郷の垣根がなくなると、華語よりもっと有用な英語を使う人の割合が増えていき、華語自体の利用率が低下。

現在の若いシンガポール人の中にはほとんど華語を使わず、英語のみでコミュニケーションを取る人がほとんどだそうです。

 

 

まとめ

一党独裁と華語コミュニティの破壊は、政治的安定と経済発展を平行して進めるリー・クアン・ユーの政治感覚の産物なのでしょう。

しかし、中国にしろ、シンガポールにしろ、天性の自由人である華人を1つの国家にまとめあげて経済成長をとげるには、独裁体制しかないんでしょうか・・。