ラオス人に愛された侵略者
オーギュスト・パヴィ(1847-1925)は、フランス出身の技術者、冒険家、そして植民地行政官。
武力ではなく「人柄」でラオスを植民地化するという離れ業をやってのけた人物です。
このエントリーでは、「紳士な侵略者」ことオーギュスト・パヴィの逸話を紹介します。
仏領インドシナ
フランスは1887年、コーチシナ(南部ベトナム)を植民地化したのを皮切りに、
カンボジア、中部ベトナム、北部ベトナムを次々と植民地化。これらをフランス領インドシナであると宣言しました。
フランスが次に狙ったのは、チョンソン山脈の西方の国ラオス。
当時のルアンパバーン王国は一応独立国でしたが、事実上タイ・バンコク王朝の朝貢国。バンコクから弁務官が派遣され、政治は全て監視されていました。
それに王族が反感を持っていることをフランスは知っており、何とかルアンパバーン王家を味方に引き入れることで、うまいことラオスを掌握できないか、タイミングを探っていました。
インドシナに魅了されたオーギュスト・パヴィ
オーギュスト・パヴィは、1874年ブルターニュ地方のディナンの生まれ。
17歳で陸軍に入隊し、19歳の時にコーチシナの駐屯軍に配置されます。
パヴィはコーチシナの文化や風土がいたく気に入ったらしく、普仏戦争勃発で一旦はフランスに帰国するも、1871年に舞い戻ってきます。
パヴィはカンボジア南海岸の町カンポットに移住し、そこでプノンペンからカンポットまでの電線敷設の仕事を始めます。
パヴィは気さくな性格の持ち主で、現地の住民と同じ家に住み、同じものを食べ、気軽に冗談を言い合い、たえず裸足で暮らし、すっかり現地に溶け込んでいました。
そんな中で現地の言葉を覚え、慣習や文化、歴史、自然についても研究を重ね、その知見を論文にまとめてベトナム・サイゴンの雑誌に投稿していました。
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ルアンパバーン副領事に抜擢され、ラオスへ
コーチシナ総督ル・ミール・ドゥ・ヴィレーは、たまたまパヴィの論文を読み、その人となりに興味を持ちます。
当時、インドシナはイギリスとフランスによる植民地争奪合戦の舞台になっており、
フランス国民の多くは早期のラオスの植民地化には賛成でしたが、武力行使には反対の声が強くありました。
うまくやらないと、世論の反対でクビになって 本国召還→窓際族→出世は絶望! となりかねないので、総督はかなりナーバスになっているところでした。
この男だったら、うまくラオス国王を懐柔できるかもしれない。
さっそく総督はパヴィを呼びつけ、ルアンパバーン副領事に任命。
ミッションは、ルアンパバーンとホンハデルタにまたがる広大な領域の実地踏査および、ルアンパバーン国王を懐柔すること。
早速パヴィはラオスへと赴きます。
ラオス人の信頼を得るパヴィ
ルアンパバーンに着いたパヴィは、ラオス王族、特に老国王であるウン・カム王の信頼を得ることに努めます。
1887年、北方から中国黒旗軍の残党とホー族の混合流賊が襲来。パヴィは自ら国王と王族たちを連れてルアンパバーンの脱出に成功。命を救うことに成功します。
その後、パヴィは流賊の重鎮と直接会って、襲撃を止めてくれないか、と話をします。
すると流賊の男は、タイのバンコクに捕われている自分の兄弟・デオ・ヴァン・トライを釈放してほしい、と言います。
よし、分かった。ではその要求を叶えよう。
ということで、パヴィはタイ・バンコク王朝と交渉をし、翌1888年デオ・ヴァン・トライの釈放に成功。
流賊はパヴィをすっかり信頼し、互いに意気投合。ルアンパバーンへの襲撃を辞めると約束してくれます。
なんちゅうコミュ力の高さだ。
ラオス、フランスの保護国に
すっかりパヴィを信頼したラオス国王と王族たちは、タイからフランスの保護領になることで合意します。
タイはこれに抵抗し、1893年仏泰戦争が勃発。
フランスはこれに勝利し、「フランス・シャム平和条約」を締結させ、ラオスは正式にフランスの保護領となったのでした。
保護国と言ってはいますが、実質的には植民地と変わりはない体制でした。
引退後
パヴィは引退後フランスに戻り、これまでインドシナで書いた論文や、実地調査の資料を元に、
"La mission Pavie, A la conquête des coeurs and Contes du Cambodge, du Laos et du Siam(パヴィのミッション、心の征服とカンボジア、ラオス、シャムの物語)"
を出版しました。
インドシナの大地と、そこに生きる人々を心から愛したパヴィの、心の葛藤が垣間見えるタイトルですね。