歴ログ -世界史専門ブログ-

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【グダグダ】北イエメンと南イエメンの統一の歴史

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古くは「幸福のアラビア」と言われたイエメン

アラビア半島の南にある、イエメンという国をご存知でしょうか?

古くは「シヴァの女王」の国で、有名なアデンの港はアフリカ・中東・インド・果ては東アジアへの貿易港として栄えました。

イエメンでは、昔から高級品だった「乳香」がよく採れたため、古代ローマ時代には、「幸福のアラビア」と言われるほど豊かな国でした。

 

 マイナーな分断国家の歴史を見ていこう

ところが現在では産業に乏しく、アラビア人国家としては最も貧しい国で、「アラビア半島のアル=カイーダ」などのテロ組織の温床となっています。

2000年に公開されたアメリカ映画「英雄の条件」では、イエメン人はアメリカ人を殺そうとする野蛮人の群れ、という描写をされ物議を醸しました。


そしてあまり知られていないことですが、イエメンは1990年まで南北分断国家でした。

「南北統一が話し合いで実現」した唯一の事例なのですが、

どうも平和的とはほど遠く、何かにつけグダグダ感が漂っているのが特徴です。

このエントリーではその南北イエメンの分断と統一の歴史を見ていきます。

トルコ領北イエメン・イギリス領南イエメン

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南北分断の歴史は古く、19世紀にさかのぼります。

イエメンは16世紀半ばから、オスマントルコの勢力下に組み入れられますが、トルコ本土とは遠く離れていたこともあり、自治はイエメン人の首長に任せられていました。

19世紀、スエズ運河の建設が始まると、イギリスはバブ・エル・マンデブ海峡の安全を確保するために、港町アデンを占領、さらに周辺の土侯を組み込み、南イエメンを保護領化します。

北イエメンはトルコ領として残り、ここに南北イエメンの分断の歴史が始まります。

独立した北のイエメン王国、エジプトに実権を奪われる(1918-1962)

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北は第一次世界大戦後に、イエメン=ムタワッキリ王国として独立。

「本家」の北によるイエメンの統一という大義を掲げ、南の土侯や有力者を買収したりしたが、なかなかうまくいきませんでした。

そんな中の1958年、スエズ動乱が発生。エジプトのナセルが汎アラブ主義を掲げ、シリアと合体してアラブ連合共和国を結成

北イエメンは、アラブ連合に加わることで、南イエメンをイギリスを追い出してもらおうと考えます。

ところが、エジプト人を受け入れたことで、国内にエジプト・シンパが大量発生。

アフメド国王を批判し民主改革を訴えるようになったため、北イエメンは早々にアラブ連合を脱退。

すると、エジプトの支援を受けた一派がクーデータを起こし、イエメン・アラブ共和国となり、エジプトの衛星国となってしまいます

国王派 VS 親エジプト派の内戦(1962-1970)

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国王ムハンマド・アル=バドルと、王政の支持者たちはサウジアラビアに亡命。

親エジプト派が握る実権を取り戻すべく、戦いを始めます。

ところが、1970年に第3次中東戦争が勃発すると、エジプトは自国のことで精一杯になり、イエメンから自発的に撤退

イエメン人はハシゴを外された格好になり、戦う理由も無くなったので、双方が歩み寄って共和国を再建することになります。

南イエメン、社会主義国家に(1967-1990)

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反英独立闘争を指揮していた南イエメン民族解放戦線は、南イエメンの首長国を攻略し、イギリスから独立を果たし「イエメン人民民主共和国」を設立。

憲法で「マルクス・レーニン主義に基づく社会主義国家」を掲げます。

ところが1986年、実権争いから内戦状態に陥り、1万人の餓死者と6万人の亡命者を出して財政が破綻します。

話し合いによる統一の実現(1990年)

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南北イエメンは、お互いゲリラやスパイを送り込んではいたものの、表立った対立はなく、戦争状態にもなりませんでした。

1989年、南北の首脳が集まり、1年以内の南北統合が合意されますが、トントン拍子に話が進み、半年後には南北が統一してしまいます。

  • 北のほうが人口、経済ともに大きい
  • 財政破綻したのは南のほう
  • そもそも、「本家」イエメンは北のほう

であるため、北が南を併合する形で統一がなされました。

北の政治主導に反発する南の独立戦争

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新政府は南北の首脳が合同する形でスタートしましたが、予算の配分などは北が主導していました。

また、南はかつてイギリスの支配下に入っていたこともあり、割と進歩的な雰囲気でしたが、北は封建的・保守的。

「あんな古くさい奴らにアゴで使われてはたまらない」

と南イエメン人の不満は高まっていきます。

1993年、複数政党制導入により、北のイスラム主義政党や保守政党が実権を握り、進歩的な社会党を弾圧し始めます。

南出身のベイド副大統領は旧首都のアデンに引きこもり、事実上南北は分裂

これに激怒した北が南に軍事侵攻し(イエメン内戦)、1万6000人の死者を出して、南北は再統一します。

再統一をしたものの、長い南北間のわだかまりは容易には溶けず、南北間の対立は未だにくすぶり続けています。

また、イエメン内戦を引き起こしたベイドは国外に亡命し、現在でも南イエメンの独立運動を指揮しています。