芸術的なほど見事に奇襲攻撃がハマった事例
日本史で奇襲攻撃が成功した戦いは、パッと思いつくだけでも結構あります。
一の谷の戦い、屋島の戦い、厳島の戦い、桶狭間の戦い、真珠湾攻撃。
日本人はなぜか奇襲が成功した戦いは凄く好きですよね。
では世界史ではどうなのか。有名な世界史での奇襲攻撃が成功した事例をまとめていきます。
1. メギドの戦い(紀元前1457年)
Photo by Olaf Tausch
記録に残る「世界最古の戦闘」は「世界最古の奇襲攻撃」
人類は有史以前から大小様々な形で戦闘を行ってきています。記録に残っている戦闘の数は圧倒的に少なく、ほとんどの戦闘の記録はなくなっていると考えられます。記録が確認できる「歴史上」では、紀元前15世紀のメギドの戦いが世界最古の戦いとされます。
この戦いはエジプト王国の領土を最大に広げた第18代王朝の6代国王、トトメス三世の治世である紀元前1457年に起きました。前王ハトシェプストからトトメス三世が新国王になった際、すぐに現代のシリアの近くのカデシュ近くに住むカナン人が反乱を起こしました。この反乱の中心にいたのがカデシュ王で、彼はミタンニ王国とアムル王国と同盟を結んでエジプトのシリア方面への脅威に対抗しようとしていました。
同盟には各地の小王が次々に加わり、強固な要塞を持つメギドの王も加わりました。メギドは現在のイスラエルにあり、カルメル山のジェズリール渓谷の南西端に沿った地域にある戦略的要衝。ここを抑えられることはエジプトとシリア方面の主要な貿易ルートを遮断されることを意味しました。
Work by Zunkir
トトメス三世は1万~2万人の戦車と歩兵の軍隊を集め北上を開始。これを聞いたカデシュ王はシリア、アラム、カナンから多くの部族長を集め、1万〜1万5千人と推定される兵を集めてエジプトからの軍勢が到着するメギドに入りました。トトメス三世率いるエジプト軍はシナイ半島を抜けてガザ、そしてイェヘムの町に入りました。イェヘムの北は反乱軍が集まるメギドです。イェヘムからメギドに至る道は三つありました。
一つ目が、メギドの南西にある山岳地帯を西に大きく迂回して北部のテルヨクネアム(Tel Yokaneam)まで行き、そこから南東に向きを変えて平野部を進むルート。
二つ目が、メギド南西の山岳地帯を東に行き平野部を進みターナック(Taanach)の町を経由して北西に進むルート。
三つめが、メギド南西の山岳地帯を抜けてくるルート。
カデシュ王はおそらく二つ目の南部ルートからエジプト軍が来るだろうと予想し、迎撃のための軍を配置しました。というのも、一つ目と二つ目の道のほうが安全で容易で、三つ目は山岳地帯で軍は一列にしか進めず、大軍を進めるには危険が大きすぎるからです。
トトメス三世は敵の裏をかいて、あえて三つ目のルートで進軍しました。
エジプト軍は騎兵隊を先遣隊として出して敵の偵察兵を追い出しつつ、山岳地帯の町を確実に落としながら進軍し安全に山を抜けました。山中に伏兵はいませんでした。
山岳地帯を抜けた時、カデシュ王のカナン連合軍は遠く離れた場所におり、エジプト軍が現れたと聞きあわてて体制を整えましたが、この遅れが決定的で、エジプト軍に致命的な敗北を喫しました。エジプト軍はカナン連合軍の924の戦車と200の鎧を略奪したそうです。
2. トラシメヌス湖畔の戦い(紀元前217年)
Image by Frank Martini. Cartographer, Department of History, United States Military Academy
ハンニバルが仕掛けた歴史に残る奇襲戦
カルタゴの名将ハンニバルが活躍した第二次ポエニ戦争の序盤の戦いです。
ハンニバルはイベリア半島から北東に向かい冬のアルプス山脈を越えてローマの本拠地イタリア半島に侵入しました。これもある意味で奇襲作戦で、ローマを混乱に陥れ、カンナエに代表される序盤の大敗北の引き金になるのですが、その「奇襲作戦の中の奇襲戦」がこのトランシメネス湖畔の戦いです。
カルタゴ軍はアペニン山脈を越えてフィレンツェを経由しペルージャに向かっていました。この動きを察したローマの執政官ガイウス・フラミニウスは、もう一人の執政官セルウィリウス・ゲミヌスが率いる軍とで挟撃しようとカルタゴ軍の後を追いました。
トランシメネス湖畔に差し掛かったハンニバルは、湖畔の北部に隠れられるスペースがあることに気づき、ここに軍を隠して湖畔を通るローマ軍を急襲することを思いつきます。
紀元前217年6月21日、この日は濃霧で視界が悪く、湖畔を進撃するローマ軍は北の隘路に隠れるカルタゴ軍55,000の存在にまったく気づくことはありませんでした。ローマ軍が湖畔に入りきったところで号令がかかり、カルタゴの重装歩兵がローマ軍の前衛に立ちはだかり進路を妨害。後ろではカルタゴの騎兵隊が回り込み退路を断つ。そうして混乱状態に陥ったうえで、本隊の軽装歩兵とガリア兵が縦に戦列が伸び切ったローマ兵に襲い掛かりました。
ローマ軍は統制を失いカルタゴ軍になすがままにやられ、司令官フラミニウス含む約15,000が戦死。対するカルタゴ軍は1,500~2,000程度の損害でした。
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3. プリスカの戦い(811年)
ブルガリア帝国がビザンツ帝国に決定的な勝利をした戦い
アジアからバルカン半島に侵入したブルガール族は、681年に皇帝コンスタンティヌス四世率いるビザンツ軍を破り、翌年ビザンツと講和し第一次ブルガリア帝国(ドナウ・ブルガール・カン)を成立させました。初代皇帝アスパルフの一族は8世紀半ばに内乱で退けられ、クルム家が王族に就くことになるのですが、その二代目であるクルム一世は積極的な対外派兵でアヴァール・カガン国やビザンツ領マケドニアに遠征し領土を拡大させました。
ブルガリアの拡大を懸念するビザンツ皇帝ニキフォロス一世は、811年に八万もの軍勢を率いてブルガリアの首都プリスカに遠征し占領。略奪や焼き討ちを行いブルガリア帝国の主要部を荒廃させました。一方でクルム一世は地方の人間を強制徴用し、ブルガリアからビザンツの間の山中に罠や堀を建設させました。
そしてニキフォロス一世率いるビザンツ帝国軍が国に戻ろうと山中に入ったところに、待ち構えていたブルガリア軍が背後と両サイドから襲い掛かりました。ビザンツ軍は退却できず、前進するしかなく、罠だらけの山中に進んでいきました。
谷を越えると急に堀が現れ下に落下し骨折。そこにブルガリア兵が襲い掛かり確実に殺害される。川はぬかるみになっており足がとられ、あちこちからブルガリア兵が襲い掛かってくる。
結局ビザンツ軍は壊滅。皇帝ニケフォロス一世も殺され、彼の頭蓋骨は金箔を貼られ盃に加工され、クルム一世は主催した宴で出席者と髑髏盃で酒を酌み交わしたと言われています。
4. メドウェイ川襲撃(1667年)
オランダが決定的な勝利を飾った襲撃戦
イギリスとオランダが海上覇権と交易拠点の獲得を争った英蘭戦争。
第二次英蘭戦争は1665年、イギリス軍がオランダの北米大陸の拠点ニューアムステルダムを軍事占領し、ニューヨークと改名したことがきっかけで勃発しました。
王政復古で即位したチャールズ二世は開戦直後から戦争以外で悲劇に見舞われます。1665年から1666年まで国内をペストが襲い、1666年にはロンドン大火が起こり、財政難に加え民心は疲弊。おいしいところは頂戴しつつ、長期間の戦争は避けたいというのがイギリスの本音でした。一方のオランダの指導者ヨハン・デ・ウィットも和平を望みつつ、ジリ貧で敗れている現状、どこかで圧倒的な勝利をあげて有利な立場で講和にこぎつけたい考えでした。
1667年6月9日、ヨハン・デ・ウィット率いるオランダ艦隊60隻は、イングランド南東部メドウェイ川を急襲し、停泊中のイギリス艦隊に攻撃をしかけました。三隻の主力艦と十隻の小型艦が炎上。対するイギリスは、オランダの攻撃を事前に予測していたにも関わらず大した防護策はとらず、オランダのなすがまま。
これがきっかけで講和が結ばれますが、並行してネーデルラント継承戦争が勃発しオランダの足元で火が付き始めていた手前、デ・ウィットが目論んだようにオランダ優位にはならず、蘭領ニューアムステルダムと英領スリナムを交換するという極めてイギリス有利の講和で終わりました。
5. チャンセラーズビルの戦い(1863年)
南軍のリー将軍による大胆な奇襲攻撃
チャンセラーズビルの戦いは南北戦争の中盤、東部戦線のヴァージニア州で行われた戦いで、劣勢な南軍がリー将軍の奇襲戦術で勝利を収めた戦いです。
北軍のジョセフ・フッカー少将が率いるポトマック軍(北軍の東部戦線の主力軍)は約134,000。一方南軍のロバート・E・リー将軍は約61,000人。兵数のみならず、北軍は休息が十分にとれ士気も高く、武器弾薬の補給体制や指揮系統の刷新も実現しており、圧倒的に優位な状態でした。
さて、戦闘ではラパハノック川の下流のフレデリックスバーグに北軍が駐屯し、川を挟んだところに南軍が対峙していました。1863年4月30日、フッカーはフレデリックスバーグ東岸に28,000人を残し、本隊106,000人を率いて川の上流に向かって西進。ラパハノック川の三か所を渡りチャンセラーズビルに向かいました。フッカーの狙いは南軍の背後に回り込み、フレデリックスバーグの部隊と本隊の間で挟み込むこと。このまま何もしなければ、南軍は北軍に包囲されてしまう。
そこでリーはただでさえ少ない手勢を二つに分け、フレデリックスバーグ西岸に16,000人を残し、45,000を率いて西に向かいチャンセラーズビルに急行したのです。106,000の軍勢相手に45,000の南軍が思い切った行動に打って出たことで動揺したフッカーは、北軍の足を止めてチャンセラーズビルの樹海に布陣させました。
ここでさらにリーはさらに軍勢を二つに分け、トーマス・ジャクソン中将に28,000の兵を預け、チャンセラーズビルに布陣する北軍の背後に向かわせたのです。この襲撃は極めて危険な賭け。もし北軍106,000がリーの本隊17,000に攻撃をしかけてきたらひとたまりもなく、さらにジャクソンの別働隊が北軍に見つかったらすべてがおしまい。しかし、リーは北軍が南軍を攻撃することはないと踏んでいました。
Work by Hlj
北軍本隊は動揺し南軍の猛烈な攻撃に防戦一方となります。
一方でフレデリックスバーグでは、東岸の北軍が西岸の南軍を打ち破り、西岸の南軍は一時退却を余儀なくされました。東岸の北軍は西に進みチャンセラーズビルの包囲を解こうとしますが、リーはただちに本隊から兵を割いてフレデリックスバーグに増援部隊を送り込み、そこに退却していた南軍も加わり、北軍を逆に包囲しました。
この戦いで南軍は大勝利を収めるも、兵の損傷は激しく、またトーマス・ジャクソンが友軍の誤射で死亡するというアクシデントがあり、リーは有能な指揮官の死亡を大いに嘆いたそうです。
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つなぎ
慎重に時間をかけて用意周到に実行するものもあれば、ハンニバルやリーのように天才的な「ひらめき」から実行されるものもあって興味深いです。
後編は近現代の戦いを中心に見ていきたいと思います。
参考サイト
"4 Devastating Surprise Attacks In Military History" War History Online
"The Battle of Lake Trasimene" Ancient History Encyclopedia
"16 of History’s Most Devastating and Dramatic Surprise Attacks" History Collection