ポーランド・リトアニア連合 VS ドイツ騎士団
日本では「タンネンベルクの戦い」のほうが知られているかも知れません。
従軍兵士は予備役も含めて5万5000人。中世ヨーロッパ最大規模の戦いです。
1410年に現在のポーランド北部で戦われたこの会戦では、
新興のポーランド・リトアニア連合が勇猛なドイツ騎士団を打ち破ります。
この戦いの結果、ドイツ騎士団は急速に衰退。
逆にポーランド・リトアニアが大国として東からヨーロッパに睨みを利かせる構図が生まれます。
ポーランドとリトアニアが連合、新たな大国の出現
ポーランドは10世紀の頃からキリスト教を受け入れた敬虔なカトリックの国です。
一方で、リトアニアは原始的なアニミズムを信ずる非キリスト国家でした。
14世紀終わり頃、ポーランドではカジミェシュ、リトアニアではアルギルダスという有能な君主がそれぞれ死に、両国は同君連合を築き西方から圧迫をかけるドイツ騎士団に対抗しようということで同意します。
リトアニアの条件は、リトアニア王ヤゲヴォを同君連合の王とすること。
ポーランドの条件は、リトアニアがカトリックを受け入れること。
これによって、ドイツが「異教徒の征伐」という名目で東進してくる大義名分を潰してしまえます。多少痛みは伴いますが、両国にとって利点は多かったのです。
1385年、ポーランド・リトアニア連合王朝である、ヤゲヴォ朝が成立。
東方に突如出現した大国に西欧、特にドイツ騎士団は反発を強めます。
宣戦布告 グルンヴァルドに布陣する両軍
1409年、ドイツ騎士団は、改宗したリトアニアは「欺瞞」であるとして、全ヨーロッパに異教徒征伐を呼びかけます。
一方のポーランド・リトアニアも準備万端で、騎士団の本拠地マルボルクを陥落させるべく進撃を開始。
ドイツ騎士団総長のフォン・ユンギンゲンは、敵が首都を狙っていると気づくと、途上のクルテェトニクに移動して陣地を張ります。
連合軍は騎士団の強固な陣を見て、一旦引いて東のグルンヴァルドに陣を張ります。
騎士団もこれに呼応して陣を引き上げ、グルンヴァルドに移動。
1410年7月15日、両軍は会戦の準備に入ります。
ドイツ騎士団は午前中からきびきびと動き、9時前には全ての準備を終えます。
一方、ポーランド王・ヴワディスワフ2世はのんびりとミサをして過ごし、全く準備が追いついていませんでした。
もしこの時、ドイツ騎士団がすぐに襲いかかったらあっという間に戦いは終わったと思われます。
崩壊するリトアニア軍
正午過ぎに、右翼のリトアニア軍の砲弾が火を吹き、リトアニア歩兵が一斉に騎士団に襲いかかります。それに対する騎士団も突撃を開始。
その後左翼ポーランド軍も前進を開始します。戦場全体で槍と剣がぶつかり合う音が響き渡ります。戦い開始しばらくは互角の勝負が続きました。
最初に崩れたのは、右翼のリトアニア軍でした。
騎士団の攻勢に耐えきれなくなり、逃走が始まります。
ドイツ騎士団はこれを追うとともに、左翼のポーランド軍の左に回り込みます。
回り込まれたポーランド軍も徐々に浮き足立ち始め、後退を始めます。
ドイツ騎士団は勝利を確信し、さらに後退する両軍を追いまくります。
戦局を変えたポーランド王・ヴワディスワフ2世の一騎駆け
右往左往するポーランド軍を突っ切ってドイツ騎士団の一旗団が、わずかな手勢に守れたポーランド王・ヴワディスワフ2世の近くまで迫ってきました。
ポーランド軍はあわてて王の身辺を固めます。
と突然、騎士団の軍勢の中から、黄金の甲冑を身にまとった騎士が現れて槍を構えます。一対一の挑発です。
ヴワディスワフ2世はこの挑発に応じる形で、突如として馬を駆け出したのです。
慌てたのは王の護衛。既に王も騎士も駆け出している!
衝突寸前で王の秘書官が何とか追いつき、折れた槍の先端で騎士の脇腹を払い、落馬させます。王は落馬した騎士に一太刀を浴びせ、騎士は絶命します。
王自らの決死の戦いを見たポーランドの兵たちは大いに沸き立ち、再び戦い始めたのです。
ドイツ騎士団総長フォン・ユンギンゲンの討ち死に
士気を取り戻したポーランド軍はドイツ騎士団の左翼を激しく突きます。
慌てたのは騎士団。多くの兵は既に勝ったものと思って、戦利品を拾いに行っていましたが、戻ってきたら味方が大いにやられているではないか。
さらには崩壊したリトアニア軍も体制を立て直して攻勢を強めます。
ドイツ騎士団も勇敢に戦いますが、徐々に連合軍に包囲され始めます。
そしてついに、ドイツ騎士団総長のフォン・ユンギンゲンが討ち死に。
午後6時頃、総長の死を知った騎士団は、マルボルクに向けて敗走を開始。
残った騎士団は本拠地であるマルボルク城に籠もり、3ヶ月に渡って籠城します。
さすがにこの堅牢な城を前に、連合軍は手を出せずに撤退。
結果を見ると、
ポーランド・リトアニアの死者4,000〜5,000。
一方のドイツ騎士団の死者は8,200〜8,400。
ポーランド・リトアニア軍の完勝でした。
その後の影響
ドイツ騎士団
ポーランド・リトアニアに敗れたドイツ騎士団は、徐々に勢力を失っていきます。
西プロイセン、東ポモージェをポーランドに割譲され、その後はプロイセン公国と同化。騎士団としての存在意義を失います。
ポーランド・リトアニア連合
勝利したポーランド・リトアニア連合は、東ヨーロッパの大国として権勢を誇ります。
16世紀の領土は、下写真の水色の部分の通り、西はドイツ、東はウクライナにまで至る広大さ。
18世紀に分割されてポーランド国家が消滅するまで約400年栄えます。
しかし、ドイツはこの恨みを忘れていませんでした。
「スラブから受けたゲルマンの屈辱的な敗退」として記憶され、
第二次世界大戦勃発後、ポーランドに侵攻したドイツはあっという間にポーランド軍を蹴散らし、積年の恨みを晴らします。
その際、クラクフにある「グルンヴァルド記念碑」を破壊しています。
しかしポーランド人は戦後、すぐに記念碑を再建。
この隣国同士の因縁も、そう簡単には無くなりそうにありません。