※前ブログ記事の改訂版です。
カルタゴの興亡
紀元前8世紀頃から現在のチュニジア北部・カルタゴに拠点を構えたフェニキア人は、
北アフリカ沿岸、シチリア、サルディニア、マルタ、イベリア半島を支配圏に収め、地中海交易で繁栄を極める。
だが紀元前6世紀頃より台頭してきたローマとの抗争や、内ゲバで次第に国力が弱っていく。
ローマとのポエニ戦争では、一時は将軍ハンニバルの活躍によりローマをあと一歩の所まで追いつめるところまでいく。
結局3度にもおよぶローマとの戦争の末、無惨にも跡形もなく滅ぼされてしまう。その際、永遠にカルタゴが復活しないようにと、町には大量の塩がまかれたというエピソードまである。
その後再建され、かつての以上のにぎわいになったものの、フェニキア人国家としてのカルタゴは永久に復活しなかった。
カルタゴの遺跡を尋ねる
かつての都市カルタゴの遺跡は、首都チュニスから電車で30分ほど行ったところにある。駅で降りても、遺跡までの案内標識がなく非常に分かりにくい。
▽かつて議会があった丘から地中海を見下ろす。
現在カルタゴは富裕層の住居や別荘が建ち並ぶ、ラグジュアリーな地域となっていあます。
ハイセンスな家々が立ち並び、高級車が通りを行き交い、オシャレなカフェが立ち並ぶ。ちなみに前大統領ベン・アリの邸宅もこの地域にあります。
かつて地中海を制したカルタゴの港跡
▽ローマ時代のカルタゴの俯瞰図(想像)。
△真ん中にある四角の建物が議会。手前の円形が港。
▽この港は現在このように地元の漁師の船着き場になっています。
今は素朴なこの港から、かつては地中海を我が物顔に走り回った艦隊や商船が出港していたかと思うと、しばし物思いにふけりました。
▽ ぼくが立っているこの港は昔はこのような機能的な軍港でした。
真ん中はガレー船の修理工場、周りは水兵や軍需物品などを積み入れるスペース。
カルタゴ観光のハイライト・アントニウスの大浴場跡
▽旧カルタゴ港から歩いて15〜20分ほどで、アントニウスの大浴場跡に到着します。
▽この浴場はとにかく巨大で、地上3階建て。
湯風呂、水風呂、温サウナ、冷室、リラクゼーションスペースなど様々な機能を備えた健康ランドだったみたい。
▽現在の遺跡は損傷が激しく、当時を想像するにはなかなか難しいが、残った柱などからいかにこの施設が巨大であったかを想像することはできます。
▽1階はボイラー室で、玄関は2階にあったようです。
入り口を入るといきなり階段を上り、受付に繋がる構造になっていました。
なかなかシャレた造りだなあ。いいなあ。お風呂入ってみたいなあ。
ローマ時代のカルタゴ邸宅跡
▽ 大浴場から丘側に10分ほど歩くと、当時の住宅跡が残っています。
ほとんどは土台くらいしか残っていませんが、1件だけ奇麗に修復されています。
おそらく貴族の別荘か住居だったんでしょう。ヴィッラ風の2階建ての建物で、床はモザイクで飾られています。
しかしこれらはほとんど、ローマ時代に一度崩壊したカルタゴの上に建てられたものです。
翌日、ぼくはローマ以前のカルタゴの遺跡が残る数少ない遺跡である「ケルクアン」に行ってみました。
唯一、カルタゴの建築跡が残る世界遺産・ケルクアン
3度に渡るポエニ戦争の結果、フェニキア人のカルタゴの都市はローマによって徹底的に破壊され、二度とカルタゴが復活してこないように、その遺骸には塩がまかれたと言われています。
そのため、現在残るカルタゴの遺跡は、ローマ帝国中・後期に再興された属州北アフリカのものが多いのですが、
ここケルクアンの遺跡は珍しく、フェニキア人のカルタゴの遺跡を見ることができます。
交通手段なし。行くのは相当不便な遺跡
遺跡までの直接の交通手段はなく、チュニスの西バスターミナルから「ケリビア」行きのバスに乗ります。
ケリビアからはタクシーで15分ほど。村はずれの海岸沿いにポツンとあります。
団体で来る客がほとんどで、個人で来る人はほとんどいないみたい。
紀元前3〜4世紀の遺跡で、多くは発掘されているものの資金難などで一部はまだ未発掘状態らしいです。
ちなみにケルクアンという名前は近隣の川の名前だそうで、カルタゴ当時の名前は分からないのだそうです。
ローマとは異なる独特の建築手法
▽町を囲む城壁。石壁の作り方が独特。細長い石を相互に斜めに積み重ねている。
▽ 当時の住居のタイル跡。入り口の前に書いてある不思議なマークは、「タニト神」というカルタゴ人の守り神や悪魔払いのようなもの。
この入り口の奥には何か大切なものでもしまっていたのでしょうか。
▽お金持ちの家の入り口かな。
▽これはパンさんの跡。
▽神殿の跡。
▽庶民の家の跡。右手には階段が見えます。2階建てだったようです。
▽お風呂屋さんの跡。床のタイルがまだ奇麗に残っていますね。
▽当時の庶民の家の図。2階建てでかなり快適そう。
▽当時の赤い顔料がまだ残っている建物。
▽町の玄関口は海に向かって開いています。
ここからカルタゴを始め、フェニキア植民地への船を漕ぎ出していったのでしょう。
さすが交易の民・フェニキア人。
▽当時の再現模型図。
何か城壁の広さに比して余白が広いが、これは単に発掘してないだけなのかも。
▽発掘された木製の棺。この中に偉い人の遺骨(ミイラ?)が納めれていたそうです。
▽発掘同時の写真。
フェニキア・カルタゴ人の文化や生活習慣は、ローマが遺跡を破壊したこともあって、あまりよくわかってないようです。
しかし、遺骸をミイラにする風習はセム系民族を感じさせるし、神殿跡もギリシアの流れを汲むローマとは違うことがわかります。ただ、ローマ人が大好きな浴場があったり
、ある程度ローマとの交流を感じさせるものがあったりして興味深いですね。