Discription:firing 130 mm M-59 belong to Artillery of military of Iran during Iran-Iraq war.
湾岸戦争に繋がる中東のパワーバランスを作った泥沼の戦争
イラン・イラク戦争は1980年9月から1988年8月まで、イランとイラクとの間で起こった戦争。
膠着状態が続き決着がつかないまま被害だけが増えていき、日本では「イライラ戦争」などと揶揄されました。
この戦争は、イラン・イスラム革命後の権力闘争でホメイニ派を勝利に導き、神権国家イランが成立するきっかけを作ったと同時に、サダム・フセイン率いる軍事大国イラクの出現をもたらし、中東のパワーバランスを決定的に変えた戦争となりました。
1. イラン・イスラム革命後のイランの権力闘争
Work by Mrostam
国王パフレヴィー二世の追放とホメイニの帰還
1963年、パフラヴィ―朝イランの二代国王(シャー)モハンマド・レザー・パフレヴィ―は、好調な原油価格を背景に、農地改革、教育改革、民営化、普通選挙の実施など、一気に国を近代化させる「白色革命」に乗り出しました。
しかし、政治家や役人による不正の横行、殺人的な速度のインフレ、深刻化する格差の拡大、外資企業による文化侵略等により国民の不満が高まっていきます。シャーは腐敗した国イランを象徴する存在として憎悪され、民族主義政党、イスラム勢力、共産党など、政治的立場を異にする広範囲な勢力が「シャー追放」の一点で結集。1978年の秋ごろにはイラン諸都市で数百万人がシャーの退陣を求める街頭デモ行進を行うまでになりました。
こうした反シャー運動のエネルギーを集め中心的存在となったのが、著名なイスラム法学者でフランスに亡命していたホメイニでした。ホメイニはパリ近郊シャトー・ノーフルからシャー批判の激しい演説を国際電話やカセットテープを通じてイラン全土にもたらし、国民の決起を促しました。
1978年冬に始まった大規模ストは、イラン発の第二次オイルショックとなって世界経済を揺るがしました。事態の打開のためにはシャーの退位しかないという認識が国内外に高まり、シャーの「無期限休暇」が決定。1979年1月にシャーは亡命し、翌月にホメイニがフランスよりテヘランに帰国しました。
テヘラン・アメリカ大使館占拠事件
国王の退位は、反シャーで共同戦線を戦っていた勢力同士の戦いのスタートを意味しました。ホメイニの帰国はすぐさまイランのイスラム国家樹立を意味したわけではなく、ホメイニ率いる宗教勢力、臨時政府首相バザルガン率いるリベラル勢力、ソ連の支援するイラン共産党ツデー党などが新政府の主導権を握ろうと争いを繰り広げました。
臨時政府首相メフディー・バザルガン(右)
アメリカ政府は臨時政府首相バザルガン率いるリベラル勢力と交渉していち早い事態の安定化を図り、イランの共産化を何が何でも阻止したい考えでした。
その前後でシャーが病気治療のためにアメリカに入国していたことがリークされたり、バザルガン首相がカーター大統領の補佐官と会談したことが報道されたり、イランの人々はアメリカが再度介入しようとしている、と警戒するようになりました。
1979年11月4日、血気にはやる若者たちが「侵略の拠点」であるアメリカ大使館に侵入し占拠する事件が発生。
通常このような事件は政府が率先して解決に乗り出すものですが、革命の中心的人物であるホメイニはこの行動を放置することで事実上容認してしまいます。バザルガンは責任をとって辞職しました。同じくリベラル派の外相ヤズディも辞任。
イランは国際的な信用を失いましたが、ホメイニ率いる宗教勢力は国内の反米感情を露骨に煽り、政権内からのリベラル勢力の駆逐を図りました。しかし完全に駆逐されたわけではなく、宗教勢力に近いも穏健的でリベラルな価値観を持つバニサドルが1980年の選挙で大統領に就任しました。
アボルハサン・バニサドル(左)
バニサドルはホメイニとの思想信条の近さをアピールして大統領選に勝利しますが、当選後は宗教勢力と対立するようになります。そしてその亀裂が決定的となったのは、隣国イラクがイランに軍事侵攻してきて、その対応を巡る争いによってからです。
2. イラク軍のイラン侵攻
1980年9月、イラク軍は突如としてイランの油田地帯フーゼスターンに侵攻。南部の主要都市バスラに河を挟んで隣り合う都市ホッラムシャフルを攻撃しました。
イラクでは1979年7月にサダム・フセインが大統領に就任し独裁体制を固めていたところで、フセインは権力基盤を強化するため、長年国境紛争がある地域を回復し得点を稼ごうとしての行動でした。
サダム・フセイン
イランは国際的な信用を失っており他国の介入はないだろう、イラン軍の内部の粛清が進んでおり戦力が低下しているだろう、テヘランの権力闘争は熾烈で統一的な指揮はとれないだろう、といった目算がイラクにはありました。
さらにフーゼスターンではスンニ派のアラブ系住民が多いため、イラク軍は解放軍として向かい入れられるだろうという楽観的な目算もありました。
しかし、いざ侵攻してみるとイランの防衛軍と市民は頑強な抵抗をみせ、イラク軍の電撃戦は早々に失敗しました。
ホラムシャッフルの戦いのイラン兵
さらにイラク軍はイランの10ある航空基地を襲撃しイラン空軍の無力化を目指しましたが戦闘機の破壊に失敗。制空権をイラン側に奪われ、逆にイラク側の石油基地や首都バグダッドが空襲される始末でした。
ホラムシャッフルは抵抗を続けましたが、物量に勝るイラク軍の攻勢でとうとう10月24日に陥落。しかしイラク軍も疲弊しさらなる進撃はできずに、戦線は膠着しました。
宗教勢力の勝利
この戦争の対応を巡って、イランの政権内部では激しい対立が生じました。
大統領バニサドルはアメリカ大使館人質事件の早期解決を望みました。まずはアメリカと関係を改善し、凍結されているイラン資産を解除し戦争資金を確保するのが最優先と考えたからです。しかしホメイニら宗教勢力は、イデオロギーの純粋性を求めるほうが重要であると主張し、妥協するどころか対立は先鋭化していきました。
1981年6月にバニサドルは地下に潜り、宗教勢力による独裁が生まれようとしているとして国民に街に出て抗議するように促しました。数十万から百万の国民が独裁反対を訴えて抗議しますが、宗教勢力は革命防衛隊を派遣し容赦なくデモ隊に発砲させ強制的にデモを抑え込みました。
宗教勢力はバニサドルを罷免し、リベラル勢力を徹底的に弾圧。追い詰められたリベラル勢力は宗教勢力の本部などに爆弾テロ攻撃をしかけ抗戦するも、宗教勢力と政権はリベラル派を逮捕し処刑することで抑え込みました。
そしてとうとう行政、立法、司法の三権全てがホメイニが率いる宗教勢力に握られることになったのです。
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3. イラン軍のイラク侵攻
イラン側の抵抗はイラクの予想以上で、宗教的使命感に燃える20万を超える義勇兵が前線に集まりました。イラン軍はこれらの義勇兵を徹底的に活用した人海戦術を採りました。地雷原地帯があるとまず少年と老人の義勇兵が突撃。彼らの「崇高な殉教」によって地雷が取り除かれた後を精鋭部隊が進んだのです。
そして1982年の春までにはイラク軍はイラン領内から一掃され、重要拠点ホッラムシャフルも解放されました。
ホッラムシャフルでイラン軍に降伏するイラク兵
全土を解放した後も、ホメイニは戦争の継続を宣言。
侵略者フセインを打倒し、イラク南部のシーア派の聖地カルバラとナジャフを「解放」するまで戦いは続くことが決定されました。
今度はイラン軍がイラク領内に進攻。最初の目的地は、イラク南部の大都市バスラ。バスラとホッラムシャフルはシャトルアラブ河を挟んで隣にあります。
イラン側は、イラク南部はシーア派住民が多くイラン軍を解放軍として迎い入れるだろう、という期待がありましたが、こちらもそんな甘い期待に反してイラクの住民はイラン軍に対し激しく抵抗。加えて、イラク側はバスラ近郊に強固な防衛ラインを築いていました。
結局イラン軍はこの防衛ラインを突破できず、戦線は各地で大量の武器弾薬・戦車・航空機・兵士を投入した消耗戦の様相を呈していきました。
アメリカはイラクが戦争に敗れ、イラン革命がイラクに波及することを何よりも恐れていました。中東のパワーバランスが決定的に変わってしまいかねない。その恐れからアメリカはイラクを支援。衛星写真までイラク軍に提供し、イラン側の情報はアメリカを経由してイラクに筒抜けになっており、イラク軍は防衛ラインを維持し続けたのでした。
イラクに対してはフランスとソ連による大量の武器売却も行われており、特にソ連製スカッド・ミサイルはフセインが大変気に入ったそうです。イラク軍はスカッドを「アル・フセイン」と命名し、イラク軍の技術者によって改良されて飛距離が伸び、イランの首都テヘランまでミサイル爆撃に襲われるようになりました。
4. 停戦への道
1987年、アメリカの提案によって国連安保理決議五九八号が成立しました。戦闘の即時停止と、国際的に定められた国境線まで即時撤退を求める内容です。
パッと聞いた分には結構な内容に聞こえますが、この決議には問題がありました。というのも、当時イランはイラクの領土を若干占領しており、今までの多大な犠牲とコストをすべて放棄することに等しい内容でした。さらに、1980年に戦争が開始されイラク軍がイラン領を占領していた時、同じように国連安保理決議が出されていましたが、この時は即時停戦のみで、イラクのイラン領土併合が認められていたのです。
この決議を受諾しない場合は制裁を科すともあり、日本やドイツはこの決議は不公平であるとして、より戦場の現実を反映した決議にすべきと主張します。しかしアメリカは強硬でした。ソ連は当時はゴルバチョフ政権で対米外交に集中しており、この決議に拒否権を行使することはありませんでした。
こうして賛成多数で国連安保理決議五九八号が可決。イラクは直ちに決議の受諾を発表しました。しかしイラン側は決議をイエスともノーとも明言しません。戦場で成果を出し次の機会を狙う腹積もりだったかもしれません。
アメリカの本格介入への意志
しかし1988年に入ると、大量の兵器を購入したイラクの戦力が完全にイランを上回るようになり、占領されたイラク領が次々に奪回されました。
ペルシア湾岸ではイラク空軍がイランの石油施設やタンカーの爆撃を受けて大きな打撃を受けました。またこの時アメリカ軍の護衛艦がイラン軍の機雷で破損したことがきっかけで、アメリカ軍もイラン側を攻撃するようになっていきました。
1988年の夏、ドバイ発のイラン航空のエアバスがイラン領海内でアメリカ海軍の艦艇に撃墜され、乗組員全員が死亡するという事件が発生しました。当初アメリカ軍は、艦艇は公海上におり、民間機をイラン空軍のF14戦闘機と誤認して撃墜したと発表しました。実際のところはイランの領海内にいて、明らかな故意でした。イランの指導層はこれがアメリカからの強いメッセージであることを認識。
「このままアメリカが戦争に本格参戦すると、イランのイスラム体制そのものが崩壊する」
当時の国会議長ラフサンジャニは、あくまで革命の純粋性にこだわるホメイニを強く説得。とうとうホメイニも折れ、7月に国連決議五九八号を受諾するに至りました。
こうして両軍併せて約50万人の兵士が死亡したと言われる戦争は、いかなる領土の書き換えもなく終戦を迎えたのでした。
イラクの軍事大国化
イラクもこの戦争により10万人以上の兵士を失い、多額の軍事債務により財政がひっ迫。さらに原油価格の下落で経済は低迷することになります。
その一方で各国が支援した軍需物資はイラクを軍事大国化させていました。イラク軍の規模は中東ではイスラエルに次いで二番目。国内での軍の発言力も高くなっていました。
フセインは国内で失墜した自らの権威を高め、下から突き上げてくる軍にはけ口を与え、さらには独立以来の領土問題であるクウェート問題を解決すべく、1991年1月、クウェートに軍事侵攻することになります。これがいわゆる湾岸戦争です。
イラン・イラク戦争は軍事的には見るべきものはほとんどありません。しかし、中東地域のパワーバランスを決定的に変えてしまった戦争でした。
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まとめ
一般的に、イラン・イスラム革命でホメイニはイランの実権を握りイランを神権国家にしたと考えられていますが、実はしばらく権力争いが続いて完全に権限を掌握できておらず、イラクの侵入により宗教的使命感や愛国心が国民の中で高まる中、かなりえげつない粛清をしてようやくイスラム体制を築くことができたのです。
イラクも戦争によって軍事大国化を果たすも、それは諸刃の剣。続いて起きる湾岸戦争で、巨大すぎる軍は自らの身を危うくすることを証明してしまうことになります。
その後イランもイラクも、アメリカを始めとした国際社会からの厳しい経済制裁や資産凍結などを受け、イラクは2002年にアメリカ軍の侵攻を受けフセイン体制が瓦解。現在は中央政府の力は弱く、かつての大国は見る影もありません。
参考文献・サイト
「岩波講座世界歴史26経済成長と国際緊張」 "イラン・「イスラーム」革命からイラン・イラク戦争へ" 高橋和夫 岩波書店
「ペルシャ湾」 横山三四郎 新潮社