歴ログ -世界史専門ブログ-

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生前は評価されず死後に評価された人物

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何がきっかけで死後に評価されるに至ったか

芸術家や学者の中には、大きな仕事を成し遂げるも生前はまったく評価をされず、当人が死亡した後にその業績の大きさが評価される場合があります。

特に画家など芸術家は、二束三文で売られた当時の作品が今は何億円という価格で取引されるようになるわけです。可哀想としかいいようがないですが、死後も全く知られずに忘れられた人の方が圧倒的に多いわけで、それに比べれば幸運と言えるかもしれません。

 本記事では著名な「死後に有名になった人」を集めてみます。

 

1. エドガー・アラン・ポー

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死後にフランスで紹介され人気に

エドガー・アラン・ポーはアメリカの小説家・詩人・編集者。

死や恐怖、病といったダークなテーマの作風の小説・詩で知られ、「近代推理小説のパイオニア」と評されています。代表作は「アッシャー家の崩壊」「モルグ街の殺人」「黄金虫」「黒猫」など。

ポーは雑誌編集や文芸批評では当時から能力が評価されていたものの、無類のバクチ狂いの上、女性関係でトラブルが多く、神経衰弱になると昼間から大量の酒をかっくらって泥酔し仕事に来なくなるなど、問題行動が多い男でした。

編集の仕事を何度もクビになり、その度に拠点をあちこち変えながら仕事を変え続け、その中でも小説や詩を書き続けて何度も賞を獲得するなど実績は上げ続けたものの、最後までカネには縁がなく、40歳で謎の死を遂げました。原因は結核であるともアルコールであるとも言われていますがよく分かっていません。

ポーの作品はアメリカでよりもヨーロッパでむしろ高く評価されました。

フランスの詩人シャルル・ボードレールやステファン・マラルメによって広くフランスに紹介され、特にポーが記した詩の批評「詩作の哲学」は、フランス文学界に大きな与えました。ポーが唱えた「印象の統一」「効果の統一」といった原理は、その後のフランス象徴主義の根幹的思想となっていきました。

 

2. エミリー・ディキンソン

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死後、編集者による出版で人気になる

エミリー・ディキンソンは19世紀のアメリカの詩人で、生前は全くの無名でしたが、死後に名声が高まり、19世記アメリカを代表する詩人と評されるまでに評価が一変した人物です。

彼女は学校で短期間教育を受けたものの、生涯の大部分をマサチューセッツ州アマーストにある実家で過ごしました。家にこもった女性が料理や編み物に夢中になったように、彼女は詩作で独自の世界観を作り上げることに夢中になりました。テーマは身近に起きた出来事や世の中のニュース(当時は南北戦争中だった)からインスピレーションを得たもの。生前1,800近くの詩篇を記しましたが、その大部分は世に出ることはありませんでした。

ディキンソンの作品はその独特の文体にあります。ダッシュ(-)の多用、リズムを出すための大文字の使用、独特の言い回しと語彙の運用、など。

A narrow Fellow in the Grass
Occasionally rides –
You may have met Him – did you not
His notice sudden is –

ディキンソンは1886年に56歳で亡くなるのですが、その後生前からディキンソンの才能を認めていた文芸批評家のトーマス・ウェントワース・ヒギンソンとメイベル・ルーミス・トッドによって編集され、1890年に最初の詩集が発表されました。彼らはディキンソンの文体が独特すぎて一般受けしないと考え、語彙や言い回しを当時の人に合うように大幅に修正を加えました。そのおかげか最初の詩集は大ヒット。わずか2年足らずで11刷りとなり、たちまち19世紀を代表する詩人の一人との名声を獲得しました。

 

3. アメデオ・モディリアーニ

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死後に個展が開かれ評価される

モディリアーニは19世紀後半〜20世紀前半にパリで活躍したイタリアの画家。

彼が描く女性は異様に首が長く、黒目が書き込まれていない独特なもの。誰しも一度は見たことあると思います。子どもには少し怖い絵かもしれません。このスタイルはもともとモディリアーニが作品作りを彫刻からスタートさせていて、そのスタイルを絵に反映させているからだそうです。

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モディリアーニは22歳の時にパリに移住しピカソやディエゴ・リベラら同時代の天才画家たちの交友をかわしながら彫刻や絵画の製作を行うも、作品はほとんど評価されず安値でしか売れず、日々の絵具の購入費もこと書く有様でした。貧困に加えて彼は将来病弱でであったので、体力の必要な作品作りに支障をきたすこともありました。

1917年3月に画家ジャンヌ・エビュテルヌに出会い、恋人同士に。モディリアーニは彼女を題材に多くの絵を書いています。ジャンヌとの間には娘を儲けていますが、肺結核の症状が悪化し、酒やドラッグに頼る荒れた生活を送った末に、1920年に死亡しました。ジャンヌはこの時二人目の子がお腹にいましたが、嘆き悲しむあまりに夫の後を追って飛び降り自殺をしました。

彼の存在はパリの画壇でさえほとんど知られていませんでしたが、1922年にパリの名門ベルネーム=ジューヌ画廊で個展が開かれて絶賛を浴び、後に友人で批評家のアンドレ・サーモンが伝記を書きその数奇な人生が人々の心を打ったことで名声が高まりました。

2018年5月にはサザビーズで裸婦像が1億5720万ドルという過去最高額の価格で落札され話題になりました。今は歴史上の名画家の一人という評価を不動のものとしています。

 

4. グレゴール・ヨハン・メンデル

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死後に再検証がなされ評価される

エンドウマメを使った実験で発見された遺伝の法則「メンデルの法則」は中学校の理科で学ぶほど一般常識です。

これを発見したメンデルは、現在は遺伝学の祖とされ、著名な植物学者ですが、本業は聖アウグチノ修道会の司祭。元々自然科学には興味があったようで、地元ブリュン(現チェコ・ブルノ)の科学教育に携わりつつ、エンドウマメの実験は1853年から1868年にかけて行われました。メンデルはこの実験結果から得られた一連の法則、優性の法則、分離の法則、独立の法則を地元ブリュンにて、1865年に口頭、1866年に論文で発表しましたが、当時はまったく評価されませんでした。

その後遺伝の研究からは遠ざかり、司祭としての仕事に忙殺されつつ、気象観測の分野で実績を上げ、1884年に61歳で死亡しました。

メンデルの業績が評価されたのは死後約10年後。メンデルの論文を発見したユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンス、エーリヒ・フォン・チェルマクらによる検証の結果、メンデルの一連の理論が正しかったことが証明され、この理論は「メンデルの法則」と名付けられました。

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5. ハーマン・メルヴィル

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レイモンド・ウィーバーによって発見され紹介される

ハーマン・メルヴィルは「白鯨」「ビリー・バッド」などの海洋冒険物が有名なアメリカの作家。白鯨は映画化が何度かなされ、特に1956年のグレゴリー・ペック主演の作品は傑作の名高い作品です。

メルヴィルの実家は彼が子どもの頃に父親が多額の借金を残して死んだことで、一家離散状態になり、メルヴィルも20歳で船員になり、厳しい生活に耐えかねて脱走と逃亡を繰り返し、太平洋の島々を転々とする生活を続けました。5年後に実家に戻ると家計は建て直されており、比較的金銭に余裕ができていたため、メルヴィルは文筆業で食っていくことを目指し、太平洋での経験を活かした海洋冒険小説を書き始めました。しかし全くと言っていいほど鳴かず飛ばず。外国の領事館や税関などの職場を転々としながら小説を書き続けるも72歳で死ぬまで成功はできませんでした。また晩年は息子二人を相次いで失ったり自宅が焼けたり、あまり幸せとはいえない死でした。

彼の作品が評価され始めたのは、死から30年近くたった1924年。

メルヴィルの死後、彼が残した小説は妻のエリザベスによって整理・編集されメモが追加されていたのですが、それを伝記作家のレイモンド・ウィーバーが発見し、「水兵ビリー・バッド」というタイトルで出版。イギリスとアメリカでたちまち大ヒットとなりました。

 

6. フランツ・シューベルト

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死後に音楽家や音楽学者らにより「発見」され評価される

フランツ・シューベルトは18~19世紀のドイツを代表する作曲家。

「アヴェ・マリア」「野ばら」「魔王」「ピアノ五重奏曲イ長調『ます』」など、名前は知らなくても日本人は皆どこかで彼の作曲した曲を聞いたことがあるに違いありません。

シューベルトの非凡さは早くから周囲には知られており、理解ある仲間の助けを借りて作曲活動に勤しむことができたものの、あまり人づきあいがうまくなったようで、指揮者演奏会をやったのは唯一一回、音楽教師や版権の販売などで細々と食いつないでいました。歌曲では彼の名はそこそこ知られていたものの、交響曲やピアノ曲の作曲家としては無名に近く、それでも筆が早いシューベルトは曲をひたすら作り続け、31歳で他界。死因は梅毒であると言われています。

死後シューベルトが残した大量の作品はほぼ放置されていましたが、ウィーンの彼の部屋を訪れた音楽家や音楽学者らにより「発見」され、演奏会で披露され絶賛を浴びました。シューベルトは未発表作品や未完作品を数多く残したため、発掘作業は20世紀になるまで続きました。

 

7. ポール・ゴーギャン

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西洋文明へのアンチテーゼが死後に評価される

「タヒチの女」「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」などの作品が知られるゴーギャン。ゴッホと共に日本の浮世絵に影響を受けたこともあり、日本でも人気が高いです。

40歳を過ぎてからは「西洋文明の限界」を感じタヒチなど南太平洋の島を拠点にしますが、その実は家族や友人、画家仲間らとの関係の悪化や金銭トラブルが「逃亡」の理由として大きかったようです。彼の作品は一部で好評を博しますがその「難あり」な性格で、美術界では孤立しました。逃避先のタヒチやマルキーズ諸島でも現地の10代前半の女性を何人も妻にして子どもを産ませたり、地元の司教や憲兵らとトラブルを起こしたり、クズエピソードには事欠きません。

ゴーギャンもまた生涯カネに縁がなく、遺産と呼べるものもさほど残さず1903年に他界するのですが、彼の作品と西洋絵画へのアンチテーゼ的なメッセージは死後に評価されるようになり、パブロ・ピカソやアンリ・マティスなどに影響を与えました。

 

 

8. フランツ・カフカ

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 フランスのシュールレアリスト、実存主義者らが高く評価

死後に大いに名声が高まった人物で、多くの人が一番に名前を挙げるのはフランツ・カフカなのではないでしょうか。

「変身」「城」など、夢と現実が入り混じったような陰鬱でシュールな世界観はファンが多く、後世の作家・映画監督・ミュージシャンにも大きな影響を与えています。

カフカは生前七冊の本を出版しましたが、そこそこ売れたのは「火夫」と「変身」程度で、全くの無名というわけではありませんでしたが、ドイツのユダヤ人の文学界で名が知られている程度でした。カフカは保健局に勤めながら作品の執筆を続けますが、執筆で体を酷使していたためかスペイン風邪や結核にかかり、長期療養と職場復帰を重ねますが、生活は困窮し病気にも悩まされ、1924年に40歳で死亡しました。

 カフカが残した作品は、友人であるマックス・ブロートに託され、彼の手で「城」や「審判」など未発表の作品が出版されました。1930年ごろからフランスのシュールレアリストの間で評価されるようになり、その後サルトルやカミュら実存主義者によって「実存主義の先駆」として高く評価され、世界的な名声を獲得するようになっていきました。

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まとめ

 実力は高いのに、時の運や人づきあいの悪さ、不器用さによって、適したタイミングで適した人に届かずに評価されなかった、という人が多いように思えます。一方で死後に評価されたのは、生前から彼らを知っていて高く評価していた人がいて、幸運なことにそういう人に編集力やプロモーション力があり、積極的に外に紹介してくれたことで評価されたと言えるでしょうか。

 それにしても、彼らは死後に超有名になっていることを知ったらどう思うでしょうか。それを想像するのも楽しいものです。ゴーギャンは「おい、オレのカネは誰が盗みやがったんだ?」とか言いそう。

 

参考サイト

"Edgar Allan Poe" Encyclopedia Britannica

"Emily Dickinson" Poetry Foundation

 "Amedeo Modigliani" Encyclopedia Britannica

 "Gregor Mendel Biography" BIOGRAPHY

"Herman Melville" Encyclopedia Britannica

"Franz Schubert Biography" BIOGRAPHY

"Paul Gauguin Biography" BIOGRAPHY

"Franz Kafka"  Encyclopedia Britannica