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「反お笑い」の哲学史(後編)

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近代哲学の中の「反お笑い」

古代から近代までの哲学の中における「反お笑い論」をまとめています。

前編では古代の反お笑いの創始者プラトンからプロテスタントの反お笑い論までまとめています。まだご覧になっていない方はこちらをどうぞ。

 後編は近代哲学編です。

 

5. ホッブズ「笑いは突然の得意」

 近代社会哲学の基礎を築いたトーマス・ホッブズも笑いを否定した人物です。

ホッブズといえば、国家のあり方が論じられた1651年の著作「リヴァイアサン」が有名ですが、この本の中で笑いが否定的に論じられています。

ホッブズにとって国家とは国民を素材とする巨大な人造人間であるため、国家の構造を理解するためにはまず人間そのものを理解する必要があると考えました。

リヴァイアサンではまずは演繹法により人間論が展開されます。人間性に関する一般的なカテゴリをまずは定義し、その部分的な下位カテゴリとそれとの関連を定義、そしてさらにその下のカテゴリとそれとの関連を定義する、といった作業を繰り返し、最後にすべてを組み立てて人間の全体像を構築するという途方もないやり方です。

さて、演繹法のカテゴリ分類によると、笑いは以下のように定義されます。

身体運動>意志的運動>情念>努力>欲求>善>快楽>喜び>得意>突然の得意

得意とは「人が自分自身の力や能力に思いをいたすときに生まれる精神の高揚」で、その得意という情念の一部に突然発生する得意として「笑い」が定義されています。

「突然の得意」は笑いと呼ばれる「顔のゆがみ」をつくる情念である。思いがけずわれながら満足のゆく行為をやった場合とか、他人の中に何か醜いものを認め、それと比べることにより、突如自分を称賛することによってももたらされる。そしてこれがもっとも多くみられるのは、自分に能力がきわめてとぼしいことを意識している者のばあいであり、彼らは他人に欠点を認めることでみずからをいとおしく思わないわけにはゆかない。したがって、他人の欠点をよく笑うことは小心のしるしである。なぜなら、偉大な精神にふさわしい行為のひとつは他人を嘲笑から助け出し、みずからはもっとも有能な者とのみ比べることだからである。

ホッブズは笑いを「他人への嘲笑と自分の優越」とバッサリ切って捨てます。自虐的に自分のことを笑うこともあるじゃないかと思いますが、ホッブズはそれは「過去の自分という別の人間への嘲笑」であるとして、どんな笑いもよくよく探せば必ず他者への嘲笑が含まれる、故に不道徳なものである、と断じています。

赤ちゃんが可愛くて笑う時。美味しいものを食べて思わず笑ってしまう時。それは人が自分の優位性を感じるから笑っているのか?笑いというのは「得意」のような下位のカテゴリではなく、もっと上の快楽とか喜びの表出である気がするのですが、ホッブズ先生は人の性格をすごく性悪的にとらえているようです。

 

6. デカルト「笑いには憎しみが含まれている」

 ホッブズと同時代の哲学者デカルトも笑いにやや否定的な意見を述べた人物です。

代表的な著作「情念論」では、リヴァイアサンと同じく演繹法を用いて基本的情念を「驚き」「愛」「憎しみ」「欲望」「希望」「悲しみ」の6つであると定義し、その下層カテゴリを定義する作業を行っています。デカルトによると笑いは「驚き+憎しみ+喜び」の複合情念の産物であるそうです。

「嘲笑」すまはち「嘲り」は、「憎しみ」をまじえた「喜び」の一種であって、ある小さな悪を、それを当然受くべく人において認めることから生じる。この悪に対しては「憎しみ」を、悪を当然受くべき人が受けているのを見ることにおいては「喜び」を、人は感ずるのである。そしてこのことが、思いがけなく起こるとき、「驚き」の不意打ちは、われわれをどっと笑わせる。……けれどもこの場合、悪は小さなものでなくてはならない。もし悪が大きければ、その悪を受ける者が当然それを受くべきだと考えられなくなる。

 とはいえ、デカルトは笑いを「やめるべき」とまでは言っておらず、むしろ「上品なからかいは気分の明るさと精神の平安をしめす紳士の美質」であると言っています。ただしデカルトの考える笑いは難しすぎてよく分かりません。いずれも「情念論」より。

 経験によってわかることだが、なみはずれて喜んでいるときには、この喜びの原因が大笑いを起こさせることはけっしてない。それどころか、われわれが悲しんでいるときにこそ、最も容易に、何か他の原因によって笑いに誘われるものなのである。

 笑いはまた、なんら『喜び』なしに、『嫌悪』の運動だけによって生み出されるうる

デカルト先生は人生で面白いことなんてなかったんでしょうか。基本的に笑いを嘲笑であると断じてやみません。

 

ホッブズとデカルトのような笑いにネガティブな意見に対抗したのがスピノザです。

スピノザは主著「エティカ」の中でこう述べます。「あざ笑いと笑いのあいだには大きな相違がある」「笑いは冗談のように単純な喜びである。過度にさえならなければそれ自体善である」「喜びは、直接的には悪ではなく善である」。

スピノザ先生の登場により近代哲学は笑いを積極的に許容・肯定するようになり、ヴォーグナルグ、シャフツベリ、ハチスン、ハートリー、ヒュームなど数々の哲学者・啓蒙思想家たちが笑いの道徳的・心理的・社会的な役割に関する研究・考察を進めていくことになります。

 

「神の見えざる手」で有名な古典派経済学者のアダム・スミスもお笑い論について語っています。スミスが担当した大学の講義の講義録に「修辞学・大学講義」というものがあるのですが、その中でスミスはホッブズの反笑いの姿勢を批判しています。

哲学者たちの中には、笑いはときどき軽蔑から生じるとのべて、それをすべてのこっけいな知覚の根源としたのもある。しかしわれわれはしばしば、まったく軽蔑すべきでない対象についても笑うことがある。多数の小男のなかののっぽ、あるいはその反対は、われわれを笑わせるが、われわれはそのどちらも軽蔑していない。どのような種類のつながりのないものごとでも、われわれがそれらについてもつ諸観念が奇妙に矛盾しているばあいは、われわれの笑いをかきたてる。わたしが覚えているのは、あるとき一匹のねずみが礼拝堂の床の広がりを横ぎって、たいへんみごとな説教の効果をぶちこわしたことである

 こう語る一方で、どういう笑いは笑うに相応しいか、紳士たる笑いはどんなものかを厳しく論じていたりもします。

すべての滑稽さの中で、狂詩、えせ英雄詩、もじり、名句集、地口、こじつけ、および人物たちがかれらのほんとうの欠陥ではなくかれらがひきこまれた状況によってこっけいになるという種類の喜劇は、すべての道化的な種類のもので、正規の教育を受けた紳士にふさわしくない。

唯一真実純粋の機知であるこっけいさは、人々の性格または行動様式における真実の欠陥が、滑稽な状況の中でわれわれの眼前にさらされる場合である。これは生活態度の改良と人類の利益になるので、紳士の性格にまったく一致する。

 笑いを許容しつつも、その笑いが「人類の利益になるのであればOK」ということなので、プラトン以来の反笑いがいかに強力だったというか。加えて、大笑いする馬鹿な庶民と自分たち知的水準の高いエリートを相対化して区分しているとも思えます。

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7. ルソー「喜劇は禁止すべし」

次に、フランスを代表する啓蒙思想家・百科全書派の代表的哲学者ジャン・ジャック・ルソーも笑いに反対した一人です。

ルソーは同じく百科全書派の思想家ダランベールに対し「演劇に関するダランベール氏への手紙」という、手紙にしては長い論文を発表しました。この中でルソーは喜劇を肯定するダランベールを批判し、喜劇なんぞは人を堕落させると口を極めて罵ったのです。

喜劇役者という職業は放縦で悪習にそまった職業であるということ。この職業について男たちは乱脈な生活に身をゆだね、女たちは破廉恥な生活を送っていること。男も女もいずれも、けちであると同時に浪費家で、つねに借金に追われながらつねに金を巻き散らしており、必要なものを手に入れる手段についてあまり気を使わないのと同様、自分たちの浪費についてもほとんどきにかけないということ。

今でもエンタメ業界の人間はお金にはルーズで大酒を食らい不規則な生活という部分が少なくないですが、当時のフランスでもそれは同じだったたようです。そしてルソーはこのような人間が演じる喜劇を市民が見たら、もともと劣悪な市民をとことん堕落させると主張しました。

ルソー先生はたぶん本当にクソまじめで、ふしだらで破天荒な生活をする芸人や俳優を蛇蝎の如く嫌ってたんだろうなあという気がします。もしルソーが現代に現れて上記のようなことをツイッターで言ったら直ちにボコボコに叩かれ大炎上するでしょうが、そういうことを言うのが哲学者の仕事だからしょうがない気もします。

 

8. カント、ヘーゲル、ショーペンハウアー

啓蒙思想はイギリスで生まれ、フランスで成長し、ドイツで大成したと言われます。

「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」を記しドイツの啓蒙思想をリードしたイマヌエル・カント。一見お笑いには厳しそうな人ですが、この人は実はお笑い論を論じるほど笑いに対して肯定的。彼はなぜ「おかしみ」が生まれるかの解明と、それがどのように身体に作用するかを論じ、「笑いは健康にいい」と主張しました。

これ以降、プラトン以来の反お笑いの思想は目立って見られなくなり、基本的に笑いは肯定されるもので、「真のユーモア」や「笑うべき事柄」「滑稽論」をめぐる議論に変わっていきます

 

 ドイツ観念論を代表する思想家ヘーゲルも、カントの思想を受け継ぎつつも、カントが使わなかった「ユーモア」という概念を用いてロマン主義思想の中に取り込みました。

ユーモアの使命は、内容やその本質に即して客観的に展開・造形したり、内容の自己発展のさまを芸術的に分析・統合することにはなく、芸術家がみずから素材の中に入りこみ、客観世界にあって確固たる現実の形をとったり、とるのではないかと思える一切を、主観の思いつきや機知やひらめきの力によって突きくずし、解体することが主たる活動となります。(「ヘーゲル美学講義」)

なんか難しく書いてますが、ヘーゲル先生いわくユーモアとは、皆がこうだ、またはこうに違いない、と信じ込んでいる物質的な型を自由な発想力でもって見方や感じ方を変えてしまうことにある、とのことです。

ヘーゲルは笑うべきでないものに「悪徳、愚考、たわごと、悪趣味、非常識」をあげ、次いで「自分の頭のよさを誇るために笑うこともあって、そうした笑いは、ことの裏表を理解できるほど自分は賢いのだ、ということを示すにすぎない」と述べます。一方で真のユーモアである「喜劇的なもの」は、「無限の晴朗さと自信に支えられ、自分の矛盾などはものともせず、矛盾ゆえに苦しんだり不幸になったりすることもなく、目的や実現行動の挫折にも自信をもって耐えていける、至福で快適な主観性のあらわれ」と述べます。ぼくはこれを読んだときにアンタッチャブルのザキヤマさんが頭に浮かびました。ザキヤマさんの魂がどこまで崇高かは不明ですが、嫌味や自己の優秀さをひけらかそうというとして笑うのではなく、単に笑いを楽しみそれ自体に目的を持たせているという点はまさにそうだろうと思ったのですが、どうでしょうか(あんま自信ないです)。

 

ショーペンハウアーは「ユーモア」という言葉の乱用を批判しました。いはく、ユーモアという言葉は「面白い」という意味で用いられているがこれは大間違いである。本来のユーモアとは「崇高なものに似た類いの滑稽」である、というもの。低俗な笑いはユーモアではなく、精神の崇高さが含まれる滑稽さこそがユーモアである、というのです。

現在でも、笑わせれば・面白ければ何でもOKという人がいる一方で、笑いにも一定の基準や目指すべき地点があるべきという人がいます。

今や「反お笑い」は撲滅していますが、どこまでお笑いを許容すべきかの議論は現代でも続いています。

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まとめ

 著名な哲学者の論を中心に、「お笑い」に反対する言説の数々をまとめてきました。

こうして見てみると、キリスト生誕以降の歴史のかなり長い間で笑いは倫理的に禁止され、笑いそのものが許容されはじめたのは近現代に入ってからということが分かります。

人を差別したり、あげつらったり、傷つけたりしてとろうとする、問題のある笑いがあるのは事実ですが、笑いは基本的には人の喜びや快楽と密接に結びつき、人や社会を豊かにすると信じてやみません。

プラトンのように

「真面目な勤労を邪魔する事柄は好ましくない」

「人の精神を堕落させる事柄はやめよう」 

などと言い始めるやつが出てきたら要注意です。

 

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参考文献

 "性悪説から性善説へ : 笑い学の歴史・近代篇I" 森下伸也 笑い学研究15 2008年7月12日